第2話 変えられない過去

「速報です。昨日※※国に突如現れ周囲の人々に襲いかかった謎の生物について、政府が声明を発表しました。声明によりますと、エニグマと名付けられたこの生物についての詳細は一切分かっておらず、引き続き各国政府との連携を密にしながら調査を続けていくとのことです」


 鳴海なるみ隼人はやとが眺めているテレビの奥で、アナウンサーが張り詰めた雰囲気を発していた。


 夢だ、とそれを見た彼はすぐに理解した。

 何度となしに見た、の夢。この日を境に全てが変わってしまった、最悪の始まり。もはや変えることのできない、過ぎ去りし過去。

 夢に形を変えてその中に入り込んでなお、決まった動きをなぞることしかできなかった。


 発端は昨日の夕方ごろ、海外で突然人間が化け物へと変化し暴れ出したという情報が入ったことだった。緊急ニュース速報の音が全国の、否、世界のお茶の間に鳴り響き、SNSでも瞬く間に関連ワードがトレンドを席巻した。


 陰謀論、宇宙人論、ただの誤情報など様々な憶測が飛び交った。ただ一つ事実として言えるのは、人間が呻き声を上げながら化け物に変化した瞬間の動画が拡散されており、有識者がフェイク動画ではないと断言していること。

 つまり最後のデマという説だけは誤りである、言い換えれば、人間が化け物になったのは事実であるということだった。


 エニグマと呼ばれることになったらしいに人間が変化すると、銃も効かない強靭な体になる上に、それに襲われた人や動物までもエニグマ化してしまう。そのためSNSではエニグマは某国で瞬く間に街一つを壊滅させ、今も殲滅には至っていないなんていう盛りすぎとも言える情報まで流れている。


「万が一エニグマ化が発生すると無差別に周囲の人間や動物に襲い掛かり、まるである種の感染症のように、瞬く間にエニグマ化が拡大していきます。※※国では邦人も巻き込まれたという未確認の情報もあり、現在大使館が確認中です。万が一エニグマ化した人を見かけても決して近付かず、すぐに警察と消防に連絡を——」


 緊迫したニュースキャスターの声がプツッと途切れる。

 隼人が振り向くと、彼の母がリモコンを握り電源ボタンを押したところだった。昔気質かたぎな彼女が昼食のために電源を落としたのだろう。


 内心不満を抱いた隼人だったが、それを口に出すことはない。母に文句を言っても無意味であることはこの二十年弱で既に身に染みている。


 エニグマ事件では既に占領されてしまった街を取り返すため、一師団まで持ち出す話すら出ているという。物語のような話だ。

 現在世界中を席巻する話題。それに加えて彼の愛する人が前日まで海外に行っていたとあれば、その動向が気になるのも仕方のないことだろう。


 とはいえその先の口論が見えているにも関わらずここで反抗するほど彼は馬鹿でも、子供でもない。そして、その時間もない。


「隼人。あなた、これから出かけるんでしょう。夕飯までには帰ってきなさいよ」

「分かってるよ。——ごちそうさま」


 いつもの母の小言を聞き流し、手早く昼食を済ませて家を出た隼人。こんな時勢にも関わらず気をつけなさいの一言もない母は未だにエニグマを遠い世界のことと捉えているらしい。それを察して隼人は内心呆れた。

 だが、すぐに自分も人のことを言えないと思い直す。何せ隼人も危機感の欠片もなく、これからデートに出かけるのだから。


 デートの相手は近所に住む同学年の水瀬みなせ早苗さなえ。高校入学時に出会ってから数ヶ月、猛アプローチを受けた隼人が恋に落ちるのはすぐだった。

 付き合い始めてからほぼ一年、それほど経っても倦怠期に陥る兆候はなく、我ながら仲良しカップルといえるのだろうと隼人は考えている。


 家族で海外に旅行へ行った、その土産話を聞きに今日は二人で会う約束をしているのだ。

 ちょうど彼女が海外にいる時にエニグマなんてものが現れたと知ったときは、彼女がいる場所とは離れているらしいということがわかるまで心臓が縮み上がったままだったものだ。


 そそくさと家を出た隼人が待ち合わせ場所の公園に到着して少し、おっとりとした、悪く言えば少し気の抜けた雰囲気の少女がそこにやってきた。淡い色のロングカーディガンにアンクル丈のデニムを合わせた爽やかな服装の彼女が早苗、隼人の恋人である。


「隼人くん。ごめんね、待った?」

「今来たとこ。まだ時間前だから大丈夫だよ」

「ふふ、ありがと」


 早苗の柔らかな笑みに隼人は自身のすさんだ心が和らいでいくのを感じる。自然と笑みが溢れ、それを見た早苗も嬉しそうに再び微笑んだ。


「ねぇ、隼人くん。今日のデート、楽しみだね」

「……そうだね」


 デートの恒例とも言えるこのやり取りを済ませた彼らは手を繋ぎ、例の如く他愛ない話をしながら駅に向けて歩き出す。


 ——それが、今までのデートであったならば。


「エニグマだ! 逃げろ!」


 隼人は反射で振り返った。小さな子供が一人、もがき苦しんでいた。


 つい数秒までは遊具で遊んでいたはずの子供。顔を覆い、うずくまり、声にならない叫びをあげたいた。


「————ああああ゙っ!」


 まだ声変わりも来ていない声帯が、耳障りな甲高い悲鳴を奏でる。

 顔を覆う手のその先が、まるで悪魔のようにみるみる鋭さを増していく。

 指が、手の甲が、まるで古びた銅のように濁った緑へ変わっていく。

 両手が外れたその奥で、まるで笑っているかのように口の端が裂けていく。


 そう、ニュースによれば、この後に起こるのは——エニグマ化。


 その思考が纏まると同時、黒目と白目が反転した化け物の瞳が、ギョロッと周りを見渡した。


 まず被害にあったのは、最も近くにいた子供の親。次は近くで遊んでいた別の子供だった。瞬く間に首を切り裂かれ、胸を貫かれ、その顔が絶望に染まった。


 目の前で異形と化していく多くの人々。それを見ても、見てしまったからこそ、隼人と早苗は何もできなかった。動けないのに、全身から汗だけが吹き出していた。


 呆然と立ち竦む彼らに異形が近づく。


 棒立ちで、小刻みに手を震わせる隼人。人を殺すためだけにあるのかと思うほど凶悪な口が迫り————


 隼人は横から突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。


「ア゙ア゙ッ!」


 いつもは癒しをくれる声が、今だけは絶望を与えてきた。


 何が起こっているのか、隼人は理解できなかった。

 恋人が苦しむ様を、隼人は呆然と眺めるしかできなかった。


 噛みつかれた肩を抑えてうずくまった早苗。徐々にその小さな手で覆いきれなくなるほど変色が広がっていく。


「逃げ、て。はやと、く————」


 その言葉を最後に、早苗の言葉は途絶えた。


 彼女が丁寧に切り揃えた爪が釘よりも鋭くなっていた。誰よりも美しかった瞳から、光が消えていった。彼に笑いかけてくれていた可愛らしい顔からは、何も感じ取れなかった。人が蛇の顔からそれができないように、隼人はエニグマの顔から何一つ感情を読み取ることはできなかった。


 隼人はまだ、動けなかった。もう、動けなかった。


 早苗だったはその腕を大きく振りかぶり、隼人に向かって————




「——ああ゙っ!」


 隼人は飛び起きた。全身がじっとりと汗ばみ、頬には一筋の涙も伝っている。


「……さな、え」


 夢に出てきた少女の名を、隼人は思わず呟いた。


 彼がこの夢を見たのは一度や二度ではない。隼人の生活が百八十度変わったあの日の夢。立ちすくんでいた自分の身代わりとなった恋人がエニグマと化し、自分だけが生き残ったあの時の記憶。あれから半年以上が経った今でも、忘れることなどできなかった。


 世界は、一瞬で崩壊した。初めは多少抵抗していた人類も、一月ひとつきと経たずエニグマに押され始め、生活圏を奪われた。

 エニグマに一人倒されれば、次はその人がエニグマとなり人を襲う。理性を完全に失くしていても、家族や友人だったを殺さなければならないことは、命のみならず心まで、着実に人類を蝕んでいった。


 エニグマ化は人間以外にも起こった。市街地に住むペットや野生動物、田舎では森から元は動物だったエニグマが溢れ、次々と街を飲み込んでいった。

 街は荒れ、法は意味を成さず、国家は滅亡した。運よく生き残った人々が塀を築き、安全圏を作るまでに人類の大半がエニグマと化した。


 それだけの大きな犠牲を払って人類が知り得たことはたった三つ。


 一つ、エニグマ化は突然起こるものと襲われて起こるものの二つがあること。

 一つ、エニグマになると肉体は強靭となるが知能は失われること。

 ……そして一つ、エニグマが現れると同時に特殊能力を得た、少年少女が存在すること。


 救世者、メシアと名付けられた彼ら彼女らは人類の安全圏構築に大きく貢献し、あれから半年以上が経った今でもエニグマ討伐の最前線を担っている。


 ベッドから体を起こした隼人の頭に、あの時エニグマ化した早苗から自分を救った男の言葉がフラッシュバックする。


 ——テメェに惚れてる女に、テメェを殺させる気かっ!


 何の因果か、隼人にも特殊能力、異能が備わっている。異能の名前は操水そうすい、あらゆる液体を操る強力な異能。これを武器に隼人は今日もエニグマの征伐に赴くのだ。


 あの時の悲劇を、二度と繰り返さないために。

 苦しみ、もがきながら変わり果てた姿になっていく早苗恋人を、為す術なく見つめていた自分と決別して。




 ……今度こそ、大切な人を守り抜くために。

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