小さなポットのお話
机の上で、小さなスチールポットがじっと佇んでいる。
「ぼく、ここにいるよ」
声にはならない声を、そっと響かせる。
ぼくは、お湯を運ぶために生まれてきた。
電気ポットから注がれた熱を胸に、バッグに入れられ、自転車の前かごに乗る。それが、ぼくの旅。
小さな使命。けれど、確かな意味がある。そう信じていた。
最初は不安だった。
「どこへ向かうんだろう。もしかして……捨てられるのかな」
でも、自転車が止まり、鍵がはずれる音がして、バッグごと持ち上げられたとき、ぼくは思った。
――いよいよ出番だ。
白い建物の中、静かな廊下、やさしい声。
「姉さん、元気?」
ベッドのそばに置かれたぼくは、そっと目を向けられる。
その人の手は細く、声はかすれていたけれど、笑顔はやさしかった。
「まあ……」
紅茶を、ほんの一口。
それだけで、ぼくの小さな体は、満たされた気持ちになった。
それからも、ぼくは何度もお姉さんのもとへ運ばれた。
お湯を入れられたり、入れられなかったり。
飲んでもらえたり、そっと置かれたままだったり。
それでも、あの20分の旅路が、ぼくにとっては誇りだった。
胸の中にある熱が、誰かの心をあたためられる。そう信じて。
やがて季節がめぐり、風がやわらかくなるころ。
ぼくはまたバッグに入れられ、新しい場所へ向かった。
土手を越え、坂をのぼり、風景は静かに変わっていた。
そこでもまた、「姉さん、元気?」の声。
お姉さんは、少しふっくらしていた。
今度は、自分でぼくを手に取り、お茶をいれてくれた。
手がふるえ、お湯がこぼれそうになっても、何度も挑戦してくれた。
ある日、歌声が聞こえてきた。
「夕焼け小焼け」「故郷」「高校三年生」……
お姉さんとぼくの持ち主が、並んで口ずさむ。
ぼくも、そっとたっぷんと、リズムを刻んだ。
でも、ある日から、旅は止まった。
ぼくは机の上で、ひとり。
「ぼく、ここにいるよ」
もう一度、声にならない声でつぶやく。
お湯を入れてくれたら、それだけでいい。
それが、ぼくのしあわせだったから。
スーパーの棚の上。
銀色の体を、光の中でひそかに磨いて、ぼくは静かに待っている。
また、誰かのそばで、あたたかく役立てる日を。
たとえ名前も、記憶も残らなくても。
たとえ、それがほんの短い時間だったとしても。
ぼくは、そこにいたことを忘れない。
了
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
小さなポット・・・絵本向け構成
(表紙)
スチールポットがちょこんと机の上にいる絵。
1ページ
ぼく、ちいさなポット。
お湯を あたためて、だれかのために うごくんだ。
2ページ
きょうも バッグに いれてもらって、
じてんしゃの かごに のって――
3ページ
がたん、ごとん。
まちをこえて、かわをこえて、
どこへいくのかな?
4ページ
ピタリと とまる。
カギが カチャリ。
――いよいよ、ぼくの でばん!
5ページ
しずかな たてもの。
おねえさんが ベッドに すわってる。
ちょっとだけ、つかれてる みたい。
6ページ
「まあ……ありがとう」
あたたかいおちゃを ひとくち。
それだけで、ぼくの こころも ぽかぽか。
7ページ
なんども、なんども、
ぼくは おねえさんのところへ つれていってもらった。
8ページ
ときどき おゆが はいってなかったり、
のんでもらえなかったり。
でも、いいんだ。
9ページ
だって――
そこに いることが、
ぼくの しあわせだから。
10ページ
あるひ、また じてんしゃで はこばれた。
ちがう ばしょ。ちがう におい。
11ページ
こんどは おねえさんが、
じぶんで ぼくを もってくれた。
12ページ
てが ふるえても、
なんども なんども チャレンジして――
おちゃを いれてくれた。
13ページ
ふたりで うたを うたってた。
「ゆうやけ こやけ」「ふるさと」「こうこうさんねんせい」
ぼくも いっしょに
たっぷん たっぷん♪
14ページ
でもね、
あるときから ぼくの たびは なくなった。
15ページ
いまは つくえのうえ。
ひとりぼっちの ひび。
16ページ
「ぼく、ここに いるよ」
こえには ならない こえで つぶやく。
17ページ
いつか、また――
だれかの そばで、
あたたかく なれたら いいな。
18ページ(裏表紙の前)
たとえ なまえを わすれられても。
たとえ すこしの じかんでも。
19ページ(裏表紙)
ぼくは――
そこに いた。
(ポットの影が、やさしく差し込む日差しの中に)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます