ポンティアック6000
「さあ、行くぞ!」
誰の声か判然としないが、その焦燥感だけは皮膚を突き刺すように痛かった。一刻の猶予もない。時間は、熱せられたフライパンの上の水滴のように、瞬く間に蒸発していく。西暦2088年。この世界は、もうかつての姿を失っていた。
ガレージの薄暗がりの中、ぼろをまとった古びたポンティアック600が息を潜めている。否、息を潜めているのは私自身かもしれない。後部座席には、小さな子供が二人、そして一人の大人が座っている。
「おじちゃん、おなかすいた……」
後部座席から、か細い声が聞こえた。私の弟の、まだ幼い娘だ。隣には、その弟の息子、そしてその傍らには、ぼんやりと虚空を見つめる弟の嫁が座っている。彼女の目は焦点が定まらず、この世の全てに絶望したかのように淀んでいた。心神喪失状態なのだろう。時折、意味のない呟きが唇から漏れるだけだ。
「もう少しだからな。何とかするから」
私は絞り出すように答えた。弾薬が詰まった大箱が二ケース、ポンティアックのトランクに無造作に放り込まれる。がたり、と鈍い音が響き、埃が舞い上がる。助手席にライフルの重みを預け、私は運転席へと滑り込んだ。冷たい革張りのシートが、皮膚にまとわりつく。
イグニッションキーを回す。老いたエンジンの咆哮が、ガレージ全体を震わせた。ブウォン、ブウォンとアクセルを煽る。生きた証のようにタイヤが悲鳴を上げ、ポンティアックは飛び出すように急発進した。ガレージのシャッターは閉まったまま。だが、そんなものは障害にならない。強化された鋼鉄の車体が木製のシャッターを粉砕し、木片と埃を巻き上げながら、ポンティアックは轟音を上げて外の世界へと躍り出た。
ガレージの外は、既に地獄絵図と化していた。悍ましいうめき声を上げるゾンビのような異形が、地を這うように、そして飛び跳ねるように蠢いている。ポンティアックの出現を察知したゾンビどもが、狂ったように車めがけて突進してくる。どうせぼろのポンティアック6000だ。そう開き直った私は、ハンドルを力任せに切り、アクセルを深く踏み込んだ。
ゾンビどもが、ポンティアックの鋼鉄のボディに叩きつけられ、無残に弾け飛んでいく。肉の塊が、鈍い音を立ててフロントガラスに張り付く。視界が血と体液で汚れていくが、構っていられない。ハンドルを巧みに操り、ゾンビの群れを次々と蹴散らしていく。奇声と、肉が潰れるような鈍い音が入り混じった雑音が、エンジンの轟音にかき消されていく。気がつけば、ポンティアックのタイヤは、血と肉片にまみれて鈍く光っていた。人類の多くは、あの悍ましい異形へと変貌してしまった。生き残った人間を襲う、ただの獣と化して。
「お、お肉……」
後部座席から、弟の嫁が虚ろな声で呟いた。その言葉に、子供たちはびくりと体を震わせた。
「大丈夫だよ、すぐに何か見つけてやるからな」
私は子供たちに聞こえるように、少しだけ声を大きくして言った。どこまで届いているかはわからない。
ポンティアック6000は、どこへ向かうのかも知らぬまま、広大な大陸の道をひた走る。乾いた風が、窓から吹き込んできて、私の頬を冷たく撫でた。左手の丘の中腹に、一軒の家が見えた。白い壁の邸宅。かつてのビバリーヒルズを思わせるような広い敷地が、疲弊した私の心をわずかに揺さぶった。何か物資が得られるかもしれない。微かな希望を胸に、私はハンドルをその家へと向けた。
タイヤをきしませて、邸宅の車止めに滑り込んだ。静寂に包まれた広大な敷地は、不気味なほどに手入れが行き届いている。車寄せの左側には、グランドのように広く、よく手入れされた芝の庭が広がっていた。ライフルを片手に、ギーと音のするドアを開け、ポンティアック6000を降りる。
すると、その芝の庭を、三人の男がランニングしていた。彼らは揃いのスポーツウェアを身につけ、規則正しいペースでジョギングを続けている。その姿は、まるでこの世の危機など存在しないかのような平穏を装っていた。しかし、その動きはどこか不自然だ。彼らのジョギングは、単なる運動ではなく、何かの目的のために行われているようだった。
「何か食べ物はないか?」
脅すように、私は声を張り上げた。喉が渇ききっている。腹の底から、空腹が私を蝕んでいた。
三人のうち、ひときわ背の高い、丸々とした男が、踏み足をしながら答えた。その顔は、奇妙なほどにのっぺりとしており、表情を読み取ることができない。
「僕らは…何も食べない」
彼の声は、どこか奇妙な響きを持っていた。抑揚がなく、まるで機械が話しているかのようだ。
「さ…砂糖水を飲むだけだ」
「砂糖水でよければ…お、お腹に一杯あるよ」。
ぽっくりとした背の高い男を先頭に、他の二人も足踏みをしながら一列に並んだ。彼らの瞳は、どこか虚ろで、生気を感じさせない。まるで、意志を持たない人形のようだ。彼らの身体は、まるで風船のように膨らみ、内部に液体を溜めているようだった。この液体こそが、彼らの蜜であり、ジョギングはその蜜の糖度を上げるための運動なのだろう。彼らは、この世界を支配する謎の女王によって生み出された存在。その女王の指示に従い、高濃度の蜜を生成しているのだ。
「なに、砂糖水だけでどうやって生きられるんだっ!」
私は苛立ちを隠せない。この状況で、冗談を言っているのか。それとも、彼らは狂っているのか。
「ぼ、僕らの体は、こうなのさ」
男がそう言うと、信じられない光景が目の前に広がった。彼らの体が、まるで透明なガラス細工のように透けて見えたのだ。その姿は、まさしく蜜アリそのものだった。風船のように膨らんだ体は、厚めの皮膚外皮で覆われているだけ。中身は空洞で、腹部には半分ほど液体が溜まっている。砂糖水とは、体内の液体のことを指しているようだった。ぽっくりとした男の後ろにいる二人も、同じように体が透けて見え、同様の構造をしていることがわかる。
「う、吸血性蜜蟻人間だな!」
私はライフルの銃口を彼らに向けた。彼らは人間ではない。ただの化け物だ。恐怖と嫌悪感が、私の全身を駆け巡った。躊躇なく引き金を引く。
一発の銃声が、静寂な庭に響き渡った。
三匹は、まるで風船が破裂するように、続けざまに爆発した。べっとりとした甘い液体が、周囲に飛び散る。その液体は、空気に触れると瞬く間に蒸発し、甘ったるい香りがあたりに漂った。この甘い蜜こそが、この世界を支配しようとしている生物たちの主食なのだろう。
再びポンティアック6000を走らせる。爆発した蜜アリ人間の残骸を背に、私は荒涼とした道を突き進んだ。どれほどの時間が経っただろうか。とある一件の農園にたどり着いた。広大な畑が、地平線の彼方まで広がっている。一人の背の高い、ひょろっとした男が、農作業に精を出していた。畑には、様々な野菜が植えられているようだ。
「少し分けてくれないか」
私は車から降りて、男に声をかけた。男は愛想なく、振り向きもしない。無視されている。だが、私には時間がなかった。
「勝手に抜いていくぞ!」
私はそう言って、畑に足を踏み入れた。手当たり次第に野菜を抜き取っていく。しかし、そこで目にしたものは、私の知る野菜とは全く異なるものだった。
白菜ほどの大きさで、その上半分を切り取ったような、ずんぐりとした野菜。濃いグリーンをした肉厚の葉は、土に潜るように植わっている。まるで、アロエのような葉が重なり、団扇のように広がる形状をしている。それが二畝、規則正しく植えられている。
奇妙に思い、他の畝にも目を向ける。そこには、同じくアロエに似た葉に、細かいとげのようなものが無数についた植物や、土から離れて空中に吊るされているかのような、花が咲く植物などが、無数に植えられていた。それらはどれも、肉厚で水分を多く含んでいるように見えた。これらは、この世界を支配する生物たちのもう一つの主食、多肉植物的な野菜なのだろう。そして、この男は、この奇妙な野菜を栽培するためだけに生み出されたクローンなのかもしれない。人間をゾンビ化させて滅ぼし、蜜アリ人間とクローンを用いて、この地球を彼らの食料生産工場に変えようとしているのだ。
一体、この世界はどうなってしまったのか…
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