第四章 夏休みの宿題と、見えないトモダチ

 八月も最後の週になると、あれほどやかましかった蝉の声も、どこか力を失い、代わってツクツクボウシが、過ぎゆく夏を惜しむように鳴き始めた。


 まぼろし堂に集まる子どもたちの最大の関心事は、手つかずのまま残された、夏休みの宿題やった。特に、絵日記や自由研究といった大物は、毎年、彼らを悩ませる強敵や。


「あかーん! 自由研究、何にもやってへん!」


 タイショウが、頭を抱えて呻いている。


「うちは、アサガオの観察日記、途中で枯らしてもうた……」


 ミウも、困った顔をしとる。


 そんな中、一番深刻なんは、レンやった。彼は、読書感想文が、一行も書けずにいた。本を読むんは嫌いやないが、自分の気持ちを文章にするんが、どうにも苦手なんや。


「レン、どんな本、読んだん?」


 見かねたフミが尋ねた。


「……『銀河鉄道の夜』です」

「ほう、宮沢賢治か。ええ本やないか」

「でも……感想なんて、書かれへん。悲しい話やった、としか……」


 俯いてしまうレンに、フミは少し考えてから言った。


「感想なんて、難し考えんでもええんやで。あんたが、その本を読んで、誰のことを一番に思い出した? それを書いたらええんや」


「誰のこと……?」

「せや。ジョバンニみたいに、たった一人の友達を、ずっと思い続けるやつ。あるいは、カムパネルラみたいに、人のために、自分を犠牲にできるやつ。あんたの周りにも、おるやろ?」


 フミの言葉に、レンはハッとして顔を上げた。彼の脳裏に浮かんだのは、いつも自分の前を突っ走り、でも、いざという時には必ず助けてくれる、一人の少年の顔やった。


「……タイショウや」


 ぽつりと呟かれた名前に、フミは満足そうに頷いた。


「せやろ。ほな、そのことを書いたらええねん。ジョバンニは、タイショウみたいやと思った、てな。それが、あんただけの、立派な感想文や」


 レンの目に、光が灯った。それなら書けるかもしれん。自分にも、書けるかもしれへん。彼は「ありがとう、フミばあちゃん!」と言うと、一目散に家に帰っていった。きっと、原稿用紙に向かうためやろう。


 その日の午後、店のインベーダーゲームの周りが、いつもより騒がしかった。仕事をサボっとる例の若い工員たちが、ハイスコアを競って熱くなっている。


「くそっ! あとちょいで10000点やったのに!」

「ヘタクソやな、お前は。貸してみい、俺が名古屋撃ち、見せたるわ」


 彼らの言葉遣いは荒く、タバコの煙が店の中にまで流れ込んでくる。他の子どもたちは、少し怖がって遠巻きに見ているだけや。棚の上のツクモガミたちも、煙たそうに顔をしかめている。


 フミは、この光景を快く思うとらんかった。この店は、子どもたちと、あやかしたちのための場所や。大人が、好き勝手にする場所やない。


 フミは、静かに番台から立ち上がると、工員たちの元へ歩いていった。


「もし、兄ちゃんら」


 低い、静かな声やった。だが、その声には、有無を言わせぬ凄みがあった。


「なんや、ばあさん」


 工員の一人が、面倒くさそうに振り返る。


「ここはな、子どもがおる場所や。タバコは、外で吸うてくれへんか。それに、あんまり大きな声出されたら、他のお客さんの迷惑になるさかいな」


 フミの毅然とした態度に、工員たちは一瞬、面食らったようやった。いつもニコニコしとる、ただの駄菓子屋のばあさんやと、なめていたんやろう。


「……ちっ、やかましいな」


 一人が悪態をついたが、それ以上は何も言わず、すごすごとタバコを消してゲームに戻った。彼らも、この小柄な老婆が持つ、不思議な迫力には逆らえんかった。


 そのやり取りを、タイショウは黙って見ていた。フミばあは、ただ優しいだけやない。守るべきものを守るためには、誰に対しても堂々と立ち向かう、強さを持っとる。その姿が、タイショウの目には、とても大きく見えた。


 夏休み最後の日。

 子どもたちは、なんとか宿題を終わらせ、晴れやかな顔で店に集まった。


「フミばあ! 終わったでー!」

「これで明日から、また学校や!」


 彼らは、残ったお小遣いで、好きなお菓子を買い込んだ。まるで、夏の終わりを祝う、ささやかなパーティーのようやった。


 レンも、はにかみながら、フミに原稿用紙の束を見せた。そこには、彼が一生懸命に書いた「銀河鉄道の夜」の感想文があった。


「よう頑張ったな、レン」


 フミが頭を撫でると、レンは嬉しそうに笑った。


 夕暮れが近づき、子どもたちが一人、また一人と帰っていく。


「ほな、フミばあ! また明日な!」

「二学期も、よろしゅう!」


 ガラガラ、と音を立てて閉まる引き戸の向こうに、子どもたちの声が遠ざかっていく。


 店の中に、夏の終わりの、少しだけ寂しい静けさが戻ってきた。壁のインベーダーゲームも、客がおらんくなり、今は静かにデモ画面を繰り返しているだけや。


 フミは、番台に座り、今日の売上をそろばんで計算していた。パチパチ、という乾いた音が、心地よく響く。


 今年の夏も、いろんなことがあった。迷子の河童に、貧乏神、そして一本だたら。子どもたちは、このひと夏で、また少しだけ、不思議な世界の秘密を知った。そして、自分自身も、彼らから多くのことを教わったような気がする。


 窓の外を見ると、空は美しい茜色に染まっていた。たそがれの光が、店内の駄菓子をキラキラと照らし出す。


 過ぎゆく夏。それは、楽しかった夏休みの、忘れ物のような時間かもしれん。そして、明日からは、また新しい学期が始まる。人生とは、その繰り返しか。


 フミは、ふと、自分の忘れ物は何やろう、と考えた。戦争で逝ってしもうた、夫の正一。彼と共に過ごすはずやった、たくさんの時間。それが、自分の人生の、一番大きな忘れ物なんかもしれん。


 でも、今は、この店がある。あの子らがいる。あやかしたちがいる。それで、ええ。それで、十分すぎる。生きてるだけで丸儲けや。


 フミは、そろばんを置くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、店の入口の引き戸に、手をかける。


「さて、と。明日も、ぼちぼち、頑張りまひょか」


 呟きは、誰に言うでもなく、夏の終わりの空気に溶けていった。


 ガラガラ、という音と共に、まぼろし堂の長い一日が終わる。

 季節は、静かに秋へと移ろいでいこうとしていた。

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