第2章 都市国家バルゼーンにて
その都市は、冷たい石の色をしていた。
バルゼーン――南の道を旅する者が必ず立ち寄ると言われる交易の街。
はじめてその門をくぐったとき、わたしは胸を高鳴らせていた。
知らない世界。たくさんの人。音と匂いと、言葉の渦。
けれど日が経つごとに、その胸の高鳴りは、靴の裏に沈殿していく埃に変わった。
街は広く、すべてがきっちりと区分けされていた。
暮らしの階層。口にできる食べ物。通れる道。触れていいもの、いけないもの。
上の者は、下を見ようともしない。
下の者は、空を見ることすら忘れている。
そのどちらにも、わたしの居場所はなかった。
旅人は名を持たず、価値も問われず、必要とされるかどうかだけで判断される。
わたしは皿洗いをし、荷を運び、雨漏りの屋根の下でうずくまる夜を重ねた。
知らない言葉が飛び交う市場では、誰の顔も覚えられなかった。
明るい灯りに満ちた広場の裏で、静かに蹲る人々の目だけが記憶に残った。
この街のどこにも、わたしの知っている温かさはなかった。
けれど、それでも戻れなかった。
旅に出たのは自分の意志だった。
今さらふるさとへ引き返すことが、許される気がしなかった。
そんなある晩、広場の一角に小さな火が灯っていた。
輪になった人々の中で、ひとりの男が歌っていた。
歳のわからない、痩せた吟遊詩人。
木の皮を張った弦楽器を抱え、ゆったりとした手つきで弦を弾いていた。
その歌は、だれにも向けられていないようでいて、どこかに届いているような、不思議な響きを持っていた。
♪山に立ちのぼる白い煙
それは昔、帰る目印だった
♪道に落ちた名を拾うな
それは誰かが忘れた夢
誰も言葉を挟まず、ただ耳を傾けていた。
わたしもその中にいた。
彼の声を聞いているうちに、胸の奥のどこかが、じんわりと熱を帯びていくのを感じた。
何に対してかはわからなかった。
ただ、何かがずっと置き去りにされたままだという感覚があった。
歌い終えると、彼は楽器を抱いたまま目を伏せた。
誰も拍手をしなかった。
風が吹き、火が揺れ、歌だけがそこに残っていた。
わたしは、歌の意味をわからなかったふりをした。
わかったと思ってしまったら、なにかを戻せなくなるような気がしたから。
だからその夜も、わたしは荷物をまとめなかった。
どこへ行くとも決めず、また同じ朝を迎えた。
――だけど、あの歌の調べは、耳の奥にずっと残り続けた。
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