第36話:続いていく
夏の終わりを告げる蝉の声が、まだ校舎の向こうから聞こえていた。
九月一日。
二学期が始まった日の放課後、俺は音楽準備室で一人アプリのデバッグをしていた。
なぜ音楽準備室なのか。
単純に、部室が使えなかったからだ。
吹奏楽部が楽器の手入れで部室棟を占拠していて、問題解決部の部室にも入れない状況だった。
仕方なく空いている教室を探していたら、ここが開いていた。
ピアノの横にノートPCを置いて、エラーメッセージと睨めっこしている。
隣の音楽室からトランペットの練習音が断続的に聞こえてきて、集中が途切れがちだった。
エラーが解決できずに、俺は椅子の背もたれに身を預けた。
「ああ、、全然わからん」
そう言って天井を見上げると、古い蛍光灯がわずかに点滅している。
「口があいてますよ」
扉の向こうから呆れるような声がした。
振り返ると、三上が廊下に立っていた。
A4サイズのクリアファイルを胸に抱えて、なぜか躊躇しているように見える。
「三上か。どうした?」
「お疲れさまです。あの...少し」
彼女が扉の前で立ち止まったまま、中に入ってこない。
俺はPCを一時停止して立ち上がった。
「入れよ。別に誰もいないし」
「は、はい」
三上が一歩中に入って、扉を静かに閉める。
でも、俺の正面には来ずに、壁際のパイプ椅子に腰掛けた。
俺も元の椅子に座り直すが、今度は彼女の方を向く。
「そのファイル、何?」
「写真です」
三上がクリアファイルを膝の上に置いて、両手で押さえた。
「なんの?」
「これまでの全部です」
短い答えが続く。
いつもの三上らしい慎重さだったが、今日は何か違った。
隣の音楽室でトランペットが止んだ。
急に静かになった部屋で、三上のファイルをめくる音だけが響く。
「実は、お話があって」
「話?ここで?」
「いえ、もう少し...静かなところで」
三上が立ち上がって、窓の外を見た。
中庭が見える。
「中庭、人いませんね」
「そうだな。行くか」
俺もPCを閉じて立ち上がった。
◇
中庭のベンチに、俺たちは少し距離を開けて座った。
彼女は相変わらずクリアファイルを膝に置いて、夕日に透かすように中身を確認していた。
「プリント写真って、久しぶりに見る」
「スマホで撮ったのを、全部現像しました」
「店で?」
「はい。200枚くらい」
俺は驚いた。
そんなにたくさんの写真を撮っていたのか。
「結構値段するだろ」
「思い出ですから。お金じゃないんですよ。先輩、そういうところですよ」
三上が苦笑いする。
会話が少し軽い方向に流れた。
「でも、何を撮ったんだ?」
三上がクリアファイルを開いた。
一番上の写真を俺に見せる。
「私が初めて部活に来た時のこと、覚えてますか?」
問題解決部の看板を見上げている三上の写真だった。
緊張で顔がこわばっている。
「ああ、すごく緊張してたな」
「その時から、ちょこちょこと記録してたんです」
三上が次の写真をめくる。
俺が三上にPCの操作を教えている場面。
「先輩の手、大きいなって思いました」
「手?」
「キーボードを叩く指が、すごく器用で」
彼女がまた次の写真に移る。
今度は天野と俺が向かい合って話している写真。
「この時の光先輩、すごく嬉しそうでした」
写真の中の天野は、俺の説明を聞きながら微笑んでいる。
「これも」
別の写真。
俺が体調を崩した後、天野が心配そうに俺を見つめている場面。
「この時の光先輩の表情」
三上が写真を指でそっと撫でた。
「写真って正直ですから」
夕日が写真の表面に反射して、オレンジ色に光っている。
「知りたいことも、知りたくなかったことも全部写るんですよ」
彼女の指がファイルの角を軽く叩いている。
まるで何かのリズムを刻むように。
「それで気づいたんです」
「何に?」
「私の気持ちは、一人相撲だったんだなって」
三上が俺の方を向いた。
その表情に、今まで見たことのない大人っぽさがあった。
「私、先輩のことが好きでした」
蝉の声が止んだ。
いや、止んだような気がした。
俺の頭の中で、三上の言葉がゆっくりと響いている。
「過去形なのか?」
「はい」
「どうして?」
「だって、恋って二人でするものでしょう?」
三上が小さく笑う。
その笑い方に、諦めと同時に何かすっきりとした清々しさがあった。
「一人で勝手に好きになって、一人で勝手に諦める」
「それって恋じゃなくて、ただの片思いです」
「片思いも恋の一つだろ...」
「そうですね」
三上が頷く。
「でも、私の恋はおしまいです」
「三上...」
「ドラマだったら告白して成功しても失敗しても終わりがある」
「え?」
「でも現実は、告白した後も続いていくんです」
三上が写真を一枚取り出した。
三人で撮った集合写真。
「三上...」
「先輩も結構ひどいことしますよね、、」
三上が立ち上がって、中庭の小さな池の方に歩いていく。
今度は振り返らずに、俺を置いて行ってしまう。
俺も慌てて後を追った。
「ひどいって?」
「私みたいな友達も恋愛経験もない、ちょろい女の子に優しくしちゃダメですよ」
池のほとりで立ち止まった三上が、肩越しに俺を見る。
その表情に、いつもとは違ういたずらっぽさがあった。
「簡単に好きになっちゃうんですから」
「三上...」
「でも、後悔はしてません」
彼女がくるりと俺の方を向いた。
水面に映る夕日が、彼女の顔を下から照らしている。
「人を好きになること」
「誰かのために頑張りたいって気持ちも」
「誰かの笑顔が見たいって気持ちも」
「全部、先輩が教えてくれました」
俺は言葉が出なかった。
三上の純粋さが、痛いほど伝わってくる。
「だから、ありがとうございました」
「でも、どうして今日なんだ?」
「秘密です」
三上がにっこりと笑って、人差し指を唇に当てた。
その仕草が妙に色っぽく見えて、俺は慌てて視線を逸らした。
「この人見知りの私が勇気を出して告白したんですよ」
彼女が俺の前まで歩いてきた。
いつもより少し背伸びをして、俺の目をまっすぐに見つめる。
「先輩はそれでもまだ逃げますか?」
「逃げるって...」
「とぼけちゃダメです」
その表情に、普段の人見知りな彼女からは想像もつかない大胆さがあった。
「光先輩のことですよ」
「三上...」
「私の恋は今日でおしまいです」
「でも、光先輩の恋はまだ続いてます」
「それに気づかないふりをするのは、ただの臆病者です」
池の水が風で波立った。
夕日の反射が細かく砕けて、キラキラと光っている。
「それに」
三上が少し悪戯っぽく微笑んだ。
「光先輩みたいな完璧な人は、きっといつか先輩みたいなプログラミングオタクに愛想をつかしちゃうと思うんです」
「おい」
「そしたら私が拾ってあげますから」
彼女がウインクする。
その仕草があまりにも自然で、俺は思わず苦笑いしてしまった。
「安心して光先輩に告白してきてください」
「三上、お前...」
「なんですか?」
彼女が首を傾げる。
その表情に、いつもの人見知りな三上に戻っていた。
「俺は...」
「今度は逃げないでください」
三上が俺の言葉を遮った。
「今度こそ、ちゃんと向き合ってください」
彼女がクリアファイルから一枚の写真を取り出した。
問題解決部の三人で撮ったもの。
「これ、あげます」
俺に手渡された写真を見ると、俺が珍しく自然に笑っている。
「私の一番好きな写真です」
三上が微笑んで、池から離れていく。
俺とは反対方向の、校舎の出口に向かって。
「三上」
俺が呼び止めると、彼女が振り返った。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
三上が最後に手を振って、夕日の中に消えていった。
一人残された中庭で、俺は写真を見つめた。
確かに、俺は笑っていた。
天野と三上の間に立って、自然に笑っている。
写真の角が少し丸まっている。
三上がずっと大切に持っていたからだろう。
池の水面を見ると、さっきまでの波は消えていた。
静かな水面に、今度は俺一人の影が映っている。
夕日がオレンジから赤に変わっていく。
空の色が刻一刻と変化して、雲の形も流れていく。
俺は写真を胸ポケットに入れようとして、手を止めた。
もう一度、写真の中の自分を見つめる。
この時の俺は、何を考えていたんだろう。
きっと何も考えていなかった。
ただ、その瞬間を楽しんでいただけ。
俺の影が歪んで、ゆらゆらと揺れている。
三上の言葉が頭の中で繰り返される。
「それでもまだ逃げますか?」
俺は池のほとりを歩いた。
靴音が小さく響く。
ベンチの背もたれに手を置いて、さっきまで三上が座っていた場所を見る。
まだ少しだけ、彼女の体温が残っているような気がした。
校舎の方に目を向けると、窓から漏れる光がいくつか見える。
まだ残って活動している部活があるらしい。
音楽室からトランペットの音が聞こえてきた。
同じフレーズを何度も繰り返している。
だんだん音程が安定してくる。
失敗して、また挑戦して、少しずつ上達していく。
俺は写真をもう一度見た。
今度は、写真の中の天野を見つめる。
天野の笑顔。
自然で、温かくて、少し恥ずかしそうで。
俺は歩き始めた。
最初はゆっくりと、池の周りを回るように。
そして気がつくと、校舎に向かって足が向いていた。
自然に、まっすぐに。
廊下に入ると、残り香のような石鹸の匂いがした。
掃除の時間が終わって、まだ間もないらしい。
音楽室の前を通ると、トランペットの音がより大きく聞こえた。
扉の隙間から、練習する生徒の姿がちらりと見える。
俺の足音が廊下に響く。
写真が胸ポケットの中で、歩くたびに少し揺れているのを感じた。
三上からもらった、大切な一枚。
俺は外に出た。
夜への準備を始めた空が、頭上に広がっている。
スマホを取り出して、時計を確認した。
午後6時15分。
連絡先を開くと、天野の名前が目に飛び込んでくる。
LINEの最後のやり取りは、昨日の宿題の件だった。
指がスマホの画面上で止まる。
何を送ればいいのか。
「今度、話がある」
「少し時間をもらえる?」
「会えるか?」
どれも違う気がした。
回りくどくて、本当の気持ちが伝わらない。
三上のように、素直で嘘のない言葉を選びたかった。
校門のところで足を止めて、もう一度スマホを見る。
天野の顔写真が小さく表示されている。
夏祭りの時に撮った写真だった。
浴衣を着て、少し照れながら笑っている天野。
その時の天野の手の温度を思い出した。
「好きだ」と言ってくれた時の。
俺の手は自然とメッセージを入力していた。
『会いたい』
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