第34話:小さな物語
夏休みの宿題で使う資料を学校に忘れていたことを、たった今思い出した。
提出まであと3日しかない。
急いで支度をして家を出た。
今は8月29日、午後3時。
校舎に着くと、意外にも図書室に明かりが灯っているのが見えた。
誰かいるのだろうか。
そっと扉を開けて中を覗くと、奥の閲覧席で二人の人影が見えた。
黒瀬先輩と光先輩だった。
私は足音を立てないように図書室に入った。
書架の影に身を隠して、そっと様子を見る。
机の上には教科書やプリント、参考書が整然と並んでいる。
二人とも夏休みの宿題に取り組んでいるようだった。
黒瀬先輩は古文の問題集を。
光先輩は数学の課題を丁寧に書き込みながら進めていた。
「この問題、解き方合ってる?」
光先輩が数学のプリントを先輩に見せた。
「完璧。でも計算ミスしやすい問題だから気をつけて」
先輩が即答する。
「さすが。数学の先生になれそう」
光先輩が嬉しそうに答える。
先輩は照れたように頭を掻いて、古文の問題集を開いた。
「今度は俺の番だけど...」
でも、古文の問題を見つめる先輩の顔が困惑に変わった。
「昔の人って、なんでこんな回りくどい言い方するんだろう」
光先輩が先輩の隣に移動して、問題を覗き込む。
「効率悪いよね、現代人から見ると」
「でも、効率だけが全てじゃないのかも」
光先輩が現代語訳を説明し始めた。
先輩は真剣に聞いている。
でも時々、光先輩の横顔をちらりと見ていた。
「なるほど、そういう意味か」
先輩が理解した時の表情は、問題が解けた喜びよりも、光先輩に教えてもらえた嬉しさの方が大きいように見えた。
「和人くんは理系の頭だから、古文は苦手よね」
光先輩が微笑む。
「論理で割り切れないものは全般的に」
「でも、古文にも論理があるのよ」
光先輩が次の問題を指差す。
「ほら、この助動詞の活用も規則性があるでしょ?」
先輩が光先輩の説明を聞きながら、ノートに書き込んでいく。
二人の距離が自然に近くなっていた。
しばらくして、先輩が古文の長文読解を終えると、満足そうに背伸びをした。
「やっと終わった」
「お疲れさま」
光先輩が微笑む。
「休憩する?」
光先輩が時計を見て提案した。
「コーヒー飲みたい気分」
先輩がペンを置く。
光先輩がバッグから水筒とお菓子を取り出した。
「甘いもの、好きでしょ?」
チョコレートクッキーだった。
「ありがとう。血糖値下がってた」
先輩が一つ受け取る。
二人は向かい合うのではなく、窓の方を向いて座った。
夏の午後の光が、二人を柔らかく照らしている。
「今年の夏休み、妙に短く感じない?」
光先輩がクッキーを食べながらぽつりと言った。
「時間って不思議だよな」
先輩が振り返る。
「楽しい時はあっという間で、つらい時は永遠に感じる」
「物理学的には同じなのにね」
光先輩が窓の外を見つめている。
「でも、今年は濃かった」
「濃い?」
「うん。いろんなことがあったから」
光先輩の声が少し小さくなった。
「...私、変なこと言っちゃったよね」
先輩の手が止まった。
「変なことって?」
「自然な和人くんがいいとか」
光先輩が続ける。
「あれ、意味不明だったよね」
「まあ、確かに最初は困った」
先輩が苦笑いする。
「でも今ならちょっと分かる」
「分かる?」
「背伸びしないでいいってことだろ」
先輩がクッキーを見つめる。
「俺、ずっと何かになろうとしてた」
光先輩が先輩の方を向いた。
「何かって?」
「天野に釣り合う人間」
先輩も光先輩を見る。
「でも、そもそも釣り合うとか釣り合わないとか」
「どうでもいいこと?」
光先輩の表情が、ほっとしたように緩んだ。
「そう。一緒にいて楽ならそれでいい」
「私も同じ」
二人の視線が合った。
ほんの数秒のことだったけれど、その瞬間に何かが通じ合ったような気がした。
私はその光景を見ていて、胸がきゅっと締め付けられた。
二人の間にある絆の深さを、ありありと感じることができたから。
お互いのことを思うあまりに、自分を責めてしまう。
でも最終的には、相手を理解しようとする。
それは私には到底真似できない、深くて複雑な関係だった。
私が先輩を好きになったのは、先輩の優しさや一生懸命さに惹かれたから。
でも光先輩と先輩の間にあるのは、そんな単純なものじゃない。
お互いの弱さも強さも、全部ひっくるめて受け入れ合おうとしている。
ああ、この人たちには勝てない。
私はそう思った。
勝ち負けの問題じゃないのは分かっているけれど、でもそんな風に感じてしまった。
私の先輩への気持ちは確かに恋だった。
でも、それよりも大きな気持ちが今の私の中にはある。
この二人に幸せになってほしいという気持ち。
私が先輩のことを好きだからこそ、先輩には幸せになってほしい。
そして、光先輩のことも大好きだから、光先輩にも幸せになってほしい。
その幸せが、お互いと一緒にあるなら、それが一番いいことなんじゃないだろうか。
「そろそろ戻ろうか」
光先輩が立ち上がって、自分の席に戻る。
でも、さっきより先輩との距離が少しだけ近くなっていた。
先輩も古文の問題に戻ったが、今度は光先輩に教わったおかげかスムーズに解き進めている。
分からないところがあると、遠慮なく光先輩に聞いていた。
光先輩も、先輩の質問に丁寧に答えている。
二人のやり取りを見ていると、とても自然で温かい光景だった。
お互いの得意分野を理解して、足りないところを補い合っている。
それが、まったく無理のない形で成り立っている。
二人が片付けを始めた。
「そろそろ帰ろうか」
光先輩が時計を見て言った。
「そうだな」
先輩が頷く。
その動作も、どこか息が合っていた。
私は静かに書架の間を抜けて、図書室の入り口近くまで戻った。
そして、わざと足音を立ててドアを開け直した。
「すみません、誰かいらっしゃいますか?」
私が声をかけると、二人が振り返った。
「あ、柚葉ちゃん」
光先輩が手を振ってくれる。
「こんにちは」
私が挨拶すると、先輩も会釈してくれた。
「宿題の資料を取りに来たんです」
私が説明すると、光先輩が苦笑いした。
「私たちも宿題してたの」
「意外です、まだ宿題残ってるなんて。先輩方、成績いいのに」
「今年は色々忙しくて」
先輩が頭を掻く。
「でも、お二人一緒だと効率いいですね」
私がそう言うと、二人が顔を見合わせて笑った。
「お互いの苦手を補えるからね」
光先輩が答える。
「体調は大丈夫ですか?」
私が先輩に聞くと、先輩は頷いた。
「おかげさまで」
「よかったです」
私は心からそう思った。
先輩が元気になって、光先輩と一緒に勉強できている。
それが何より嬉しかった。
「柚葉ちゃんも一緒に帰る?」
光先輩が提案してくれた。
「まだ資料探しに時間がかかりそうなので、お先にどうぞ」
私は笑顔で答えた。
「本当は最初に探せばよかったんですけど、つい後回しにしちゃって」
「そっか、じゃあお疲れさま」
光先輩が手を振る。
「気をつけて帰ってね」
先輩も言ってくれた。
「ありがとうございます」
二人の足音が廊下に響いて、やがて聞こえなくなった。
◇
私は図書室の奥に戻った。
でも、資料を探す気は起きなかった。
先ほどまで二人が座っていた席の前に立って、私はその光景を思い返していた。
先輩が困った時、光先輩は迷うことなく隣に座った。
光先輩が過去を振り返って悩んだ時、先輩は真剣に聞いていた。
お互いの痛みを分かち合って、お互いの弱さを受け入れて。
それは私には到底理解できない深さだった。
私が先輩を好きになったのは、先輩の優しさや一生懸命さに惹かれたから。
表面的で、単純で、まだ子供っぽい恋心だった。
でも二人の間にあるのは、そんな甘いものじゃない。
過去の傷も、現在の迷いも、未来への不安も、全部ひっくるめて一緒に背負おうとしている。
私は、光先輩が座っていた椅子にそっと座った。
机の上には、光先輩が使っていたシャープペンシルが一本置き忘れられている。
ピンクのボディに小さなリボンがついた、可愛らしいペン。
私はそれを手に取った。
このペンで、光先輩は先輩に古文を教えていたんだ。
優しい声で、丁寧に、愛情を込めて。
ペンを握る私の手が震えた。
先輩がこのペンに触れた光先輩の手を見つめていた時の表情。
光先輩が先輩の理解を確認する時の嬉しそうな顔。
あの瞬間、二人の間には私が立ち入ることのできない特別な世界があった。
私はペンを机の上に戻した。
そして、今度は先輩が座っていた椅子に移動した。
ここから見る風景は、光先輩の後ろ姿だった。
先輩は、きっとこの角度から光先輩を見つめていたんだ。
光先輩が髪をかき上げる仕草を。
問題に集中している横顔を。
ふと振り返った時の笑顔を。
すべてを愛おしそうに見つめていたんだ。
私の胸が苦しくなった。
でも、それは嫉妬とは違う苦しさだった。
もっと深くて、もっと複雑な感情だった。
窓の外を見ると、夕日が西の空を赤く染めている。
もうすぐ夏休みも終わる。
新学期が始まれば、私はまた二人と一緒に部活をする。
問題解決部という、私にとって初めてできた大切な居場所で。
私は本棚の間を歩いて、歴史の本が並んでいる棚の前で足を止めた。
背表紙に並ぶタイトルを眺めながら、私は考えていた。
私の先輩への気持ちは、確かに恋だった。
でも、先輩と光先輩の間にあるものを見てしまった今、自分の気持ちがとても浅く感じられた。
池の表面に浮かぶ水草のような、軽やかで儚いもの。
それに対して、二人の絆は深い井戸のように深くて、底が見えない。
私は「江戸時代の町民文化」という本を取り出した。
私が探している資料に関係のない本だったけれど、なぜかその本を選んでしまった。
ページをめくりながら、私は思った。
歴史の教科書には、大きな出来事しか載らない。
戦争や政治の変化、有名な人物の業績。
でも、実際の歴史は無数の小さな物語でできている。
名もなき人々の、日常の中の小さな選択の積み重ね。
私の恋も、そんな小さな物語の一つなのかもしれない。
教科書には載らない、でも確かに存在した物語。
そして、今日この瞬間に、静かに終わりを迎える物語。
私は本を閉じて、書架に戻した。
そして、再び二人が座っていた席に戻った。
光先輩のペンが、夕日に照らされて淡いピンク色に光っている。
私はそのペンをもう一度手に取った。
今度は、震えなかった。
私は心の中で、先輩に話しかけた。
黒瀬先輩。
私、先輩のことが好きでした。
先輩の優しさも、一生懸命さも、不器用なところも、全部好きでした。
でも、きっと私の好きは、光先輩の好きとは違うものだったんですね。
光先輩の好きは、先輩の過去も未来も全部包み込んでしまうような、大きくて深いもの。
私の好きは、もっと単純で、もっと軽やかなもの。
それが悪いことだとは思わないけれど、でも勝負にならないことはよくわかりました。
私はペンを机の上にそっと置いた。
光先輩が忘れていったペンを、明日返してあげよう。
そんな些細なことでも、きっと光先輩は喜んでくれる。
そして、私も光先輩の笑顔を見て嬉しくなる。
それで十分なんだ。
私の目から、一粒の涙がこぼれた。
涙の意味は、今はまだわからなかった。
私は涙を手の甲で拭って、立ち上がった。
図書室の窓から見える景色は、もうすっかり夕焼けに染まっている。
空の色が、オレンジから深い紫に変わっていく。
美しい光景だった。
一人で見る夕焼けも、悪くない。
私は図書室を出て、廊下を歩いた。
足音が響く静かな校舎。
でも、寂しくはなかった。
むしろ、心が軽やかだった。
校門を出る時、私は振り返って学校を見た。
夕日に照らされた校舎が、まるで絵本の中の城のように美しく見えた。
新学期からは、新しい私でここに通おう。
恋は終わったけれど、大切なものは何も失っていない。
むしろ、もっと大切なものを見つけたような気がする。
誰かの幸せを心から願えるということの美しさを。
私は夕焼けの道を、家に向かって歩き始めた。
胸の奥に、小さくて温かい光を灯しながら。
「あーあ、やっぱり好きだなあ。」
誰にも届かない私の言葉は、溶けて消えていく。
夏が終わる。
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