第29話:自己証明
真夜中過ぎの俺の部屋は、PCのモニターからの青白い光だけが唯一の明かりだった。机の上には空になったエナジードリンクの缶が三つ並び、コンビニ弁当の食べかけが冷え切って放置されている。
時計の針は午前3時を回っていた。学園祭アプリの開発を始めてから一週間。俺は毎日こんな時間まで作業を続けている。
「まだデータベース設計が完璧じゃない」
俺は画面に向かってぶつぶつと呟いた。ユーザー管理、イベント情報、口コミデータ…複雑に絡み合うテーブル構造を何度も見直している。
「もし本番でバグが出たら…」
その考えが頭をよぎると、俺の手は自然にキーボードに向かった。もう一度、もう一度だけ確認しよう。
窓の外では夏の虫たちが街灯の周りを飛び回っている。世界中の人が眠っている時間に、俺だけが一人でコードと格闘している。
「やり遂げないと」
生徒会の佐々木先輩の顔が浮かんだ。『黒瀬くんなら絶対にできると思って』と言われた時の、あの信頼に満ちた表情。
松本先生の言葉も頭を離れない。『君らに相談してみたらどうやって』と俺たちを推薦してくれた責任。
でも、正直なところ、生徒会からの依頼なんてそこまで必死になる必要はないことではある。
失敗したって、俺たちの人生が終わるわけじゃない。学園祭のアプリが多少不具合があったって、誰も死ぬわけじゃない。
それは頭では分かっている。
論理的に考えれば、こんなに自分を追い詰める必要はない。
それでも俺が止まれないのは、これが自分自身との戦いだからだ。
天野の言葉が頭をよぎる。『自然な和人くん』。
あの夜から、俺は自分が何者なのか分からなくなってしまった。
自然な俺って何だ?
俺は今まで自分らしく生きてきたつもりだった。
プログラミングが好きで、一人の時間を大切にして、論理的に物事を考える。それが俺だと思っていた。
でも、天野にはそれが『自然』じゃないと映っているらしい。
じゃあ、俺の本当の姿って何なんだ?
俺はどうすれば天野の求める俺になれるのか?
どうすれば、天野に愛される『自然な和人くん』になれるのか?
その答えが見つからない。
考えれば考えるほど、迷路に入り込んでいく気がする。
だったら、考えるのをやめて、目の前のことを完璧にやるしかない。
結果を出して、自信を手に入れる。
成功すれば、きっと天野に認めてもらえる。
きっと、俺は俺自身を肯定できる。
プログラミングは俺の得意分野だ。ここで結果を出せなかったら、俺には何も残らない。
「これで失敗したら...俺は俺に失望する」
そして、天野にも失望される。
今まで築いてきた関係も、すべて崩れてしまう。
そう自分に言い聞かせて、俺は再びコードの修正に取りかかった。キーボードを叩く音だけが、静寂な部屋に響いている。
◇
翌日の部活は午後2時からの予定だったが、俺は午前10時には学校に来ていた。
夏休み中でほとんど人のいない校舎は静寂に包まれており、俺の足音だけが廊下に響く。
旧校舎の203号室に入ると、俺は昨夜作成した進捗報告書をプリンターで印刷し始めた。
A4用紙に細かく書き込まれた技術仕様書、バグ修正リスト、今後の開発スケジュール…
机の上に資料を並べながら、俺は天野と三上に説明する内容を頭の中で整理していた。
できるだけ分かりやすく、でも詳細に。
彼女たちに心配をかけないように、順調に進んでいることを伝えなければ。
午後1時半頃、部室のドアがそっと開く音がした。
「黒瀬先輩?」
三上の控えめな声が聞こえた。俺が振り返ると、彼女は小さなビニール袋を手に持って立っていた。
「お疲れさまです。早いですね」
「ああ、ちょっと準備があって」
俺は慌てて机の上の資料を整理した。徹夜明けの疲れた顔を見られたくなかった。
「あの、もしよろしければ」
三上が遠慮がちに袋の中身を取り出した。
手作りのサンドイッチが透明な容器に綺麗に並んでいる。
「朝に作ったんです。よろしければ一緒に…」
三上の手作りサンドイッチ。
きゅうりとハムが丁寧に挟まれて、耳も綺麗に切り落とされている。
見るからに愛情がこもった手料理だった。
「ありがとう。でも、俺はもう食べたから」
実際には昨夜のコンビニ弁当の残りしか食べていなかったが、何となくそう言ってしまった。
三上の表情が一瞬曇ったが、すぐに笑顔を作った。
「そうですか。じゃあ、光先輩が来たら一緒に食べますね」
俺は三上の気遣いに申し訳なさを感じながら、再び作業に戻った。
「あの、黒瀬先輩」
三上が俺の隣に椅子を引いて座った。
「何かお手伝いできることはありませんか?」
「今は大丈夫」
俺は画面を見つめたまま答えた。
「それより、他の学校のアプリ調査の方はどう?」
「はい、いくつか参考になりそうなものを見つけました」
三上は自分のノートを開いて、丁寧に書かれた調査結果を見せてくれた。
UI設計、ユーザビリティ、機能の優先順位…しっかりとした分析がなされている。
「すごいな。これは参考になる」
俺は三上の努力に感心した。
でも、心の中では『今はそれどころじゃない』という焦りが渦巻いていた。
午後2時ちょうどに、天野が部室に入ってきた。
「お疲れさま!」
天野の明るい声が部室に響く。手には冷たい飲み物の入った袋を持っている。
「差し入れ。今日は特に暑いから」
天野は俺の机に近づいて、いつものようにキャラメルマキアートの冷たいバージョンを差し出してくれた。
「ありがとう」
俺が受け取ると、天野は俺の表情をじっと見つめた。
「和人くん、疲れてる?」
「そんなことないよ」
俺は無理に笑顔を作った。
「調子はどう?」
「順調だよ。予定通り進んでる」
実際には、予想以上に複雑で進捗が遅れていた。
でも、そんなことは言えなかった。
天野は俺の机の上を見回した。
散乱した資料、空のエナジードリンクの缶、付箋だらけのノート…
「本当に大丈夫?なんだか、すごく大変そうに見えるけど」
天野の心配そうな表情を見て、俺は罪悪感を覚えた。
「大丈夫だって」
俺は強く答えた。
その言葉に、天野の表情がさらに心配そうになった。
「でも、そんなに追い詰めなくても...」
「追い詰めてない」
俺は天野の視線から逃れるように、再び画面に向き直った。
「俺が...俺のために頑張りたいんだ」
その言葉は、自分でも驚くほど小さく呟かれた。
天野には聞こえていないかもしれない。
でも、それが俺の本音だった。
みんなのためじゃない。
俺が俺自身に失望したくないから、必死に頑張っている。
それだけなんだ。
「それより、企画調査の方はどうだった?」
天野は少し躊躇してから答えた。
「各クラスを回って、必要な情報をまとめてきたよ。でも…」
「でも?」
「和人くんの体調の方が心配」
俺は天野の優しさが嬉しい反面、プレッシャーを感じてしまった。
みんなが俺のことを心配してくれている。
だからこそ、失敗するわけにはいかない。
「本当に大丈夫だから」
俺は作業を続けながら答えた。
三上が遠慮がちに口を開いた。
「あの、もしよろしければ、私たちも技術的な作業をお手伝いできませんか?」
俺は一瞬手を止めた。
三上の申し出は嬉しい。
でも、今は集中したい。
「ありがとう。でも、プログラミングは一人でやった方が効率的なんだ」
俺は振り返って、三上に申し訳なそうな表情を見せた。
「三上たちは他の役割を頑張ってもらってるし、それで十分助かってるよ」
三上は少し寂しそうな表情を見せたが、理解してくれたようだった。
天野が俺の肩に手を置いた。
「和人くん、少し休憩しない?」
その柔らかな手の温かさが俺に伝わってくる。
でも、俺は首を振った。
「時間がないんだ」
「でも…」
「本当に大丈夫だから」
俺は天野の手を軽く払いのけて、キーボードに向かった。
天野の手が離れた瞬間、俺は自分の行動を後悔した。
でも、振り返ることはできなかった。
◇
その日の夜、俺は再び深夜まで作業を続けていた。
午前1時を過ぎても、コードの修正は終わらない。
「インフラ構成を考え直さないと」
俺は頭を抱えた。
当初の予定では、この時点でもっと進捗があるはずだった。
でも、実際にやってみると、生徒会の要求は想像以上に複雑で技術的に高度なものだった。
リアルタイムの混雑状況表示機能だけでも、サーバーとの通信、データの更新、ユーザビリティの確保…考慮すべき要素が山ほどある。
正直、この依頼を断ったって、俺たちの人生に大きな影響があるわけじゃない。でも、俺は止まれない。
これは自分自身との戦いなんだ。
天野が求める『自然な和人くん』が何なのか分からない。だったら、目の前のことを完璧にやって、結果で自信を手に入れるしかない。
俺が俺自身に失望するのだけは絶対に嫌だった。
俺は再びエナジードリンクを飲み干した。
明日の部活では、順調に進んでいると報告しよう。
弱音を吐くわけにはいかない。
スマホに天野からのメッセージが届いた。
『お疲れさま。本当に無理しないでね』
その優しいメッセージを見て、俺の胸が締め付けられた。天野の心遣いが嬉しい反面、申し訳なさでいっぱいになる。
『大丈夫。ありがとう』
短く返信して、俺は再び作業に戻った。
午前3時、俺はついに机に突っ伏してしまった。
疲労が限界を超えていた。
でも、横になることはできない。
明日も、明後日も、学園祭当日まで、この調子で頑張らなければならない。
(ここで頑張らないといつ頑張るんだ)
そう自分に言い聞かせて、俺は最後の力を振り絞ってキーボードに向かった。
◇
翌日の昼休み、私は柚葉ちゃんと一緒に校内のベンチに座っていた。
購買で買ったパンを食べながら、二人は昨日の和人くんの様子について話していた。
「和人くん、やっぱり無理してるよね」
私はそう言ってため息をついた。
「目の下にクマができてたし、手も震えてた」
柚葉ちゃんも心配そうに頷いた。
「黒瀬先輩、最近ずっとあんな感じです。一人で全部背負い込もうとして」
「私たちにも何かできることがあるはずなのに」
パンを小さくちぎりながら私は考える。
「でも、『大丈夫』って言うばかりで、頼ってくれない」
「きっと、私たちに心配をかけたくないんですね」
柚葉ちゃんが静かに言った。
「それが黒瀬先輩の優しさなんだと思います」
空を見上げた。雲一つない青空が広がっている。
「でも、その優しさが和人くんを追い詰めてる気がする」
「私も同じことを思ってました」
柚葉ちゃんが同調する。
「黒瀬先輩は、いつも一人で問題を解決しようとする」
「何か、私たちにできることはないかな?」
「強引にでも休ませた方がいいのかもしれません」
「でも、きっと『大丈夫』って言って、聞いてくれないと思うんだよね」
自分の大切な人が苦しんでいるのに、何もできない歯がゆさを感じていた。
「せめて、私たちの気持ちだけでも伝えられればいいんだけど」
「光先輩の気持ち、きっと黒瀬先輩に届いてると思います」
「ありがとう、柚葉ちゃん」
「私たちで、和人くんを支えましょう」
二人は互いに微笑み合った。
◇
その日の部活で、俺は新しい進捗報告を準備していた。
実際の進捗は思わしくなかったが、できるだけポジティブに見えるように資料を作成していた。
天野と三上が部室に入ってきた時、俺は机に突っ伏していた。
ほんの少し目を閉じるつもりが、気がついたら眠ってしまっていたのだ。
「和人くん」
天野の優しい声で俺は目を覚ました。
「あ、すまん。ちょっと」
俺は慌てて体を起こした。
「寝てたの?」
天野の心配そうな表情を見て、俺は言い訳を考えた。
「いや、ちょっと考え事をしてただけ」
「嘘」
天野がはっきりと言った。
「和人くん、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
実際には、ここ数日は3時間程度の睡眠しか取れていなかった。
三上が俺の机の横に小さな保温バッグを置いた。
「あの、今日はおにぎりを作ってきました」
袋の中から、丁寧にラップで包まれたおにぎりが出てきた。
鮭、梅、昆布…三種類の具材が用意されている。
「ありがとう。でも、俺はもう食べたから」
また同じ嘘をついてしまった。三上の表情が少し曇る。
「せめて一個だけでも」
三上が遠慮がちに言った。
「栄養をちゃんと取らないと、体に良くないです」
俺は三上の好意を無下にするわけにはいかなかった。
「じゃあ、一個だけ」
鮭のおにぎりを手に取って一口食べると、ふっくらとしたご飯と程よい塩加減が口の中に広がった。
家庭的な温かさを感じる味だった。
「美味しい」
俺の言葉に、三上の表情がパッと明るくなった。
「よかったです」
天野が俺の隣に座った。
「和人くん、今日は早めに終わらせない?」
「いやでも進めたいし」
俺は画面を見つめたまま答えた。
「でも、体調管理も大切でしょ?」
天野が心配そうに言った。
「無理して倒れたら、元も子もないよ」
「倒れたりしない」
俺は強がったが、実際には立ちくらみを感じることが増えていた。
でも、それを認めるわけにはいかない。
今ここで諦めたら、俺は完全に自分を見失ってしまう。
三上が遠慮がちに口を開いた。
「あの、黒瀬先輩。私も、もう少し技術的な作業をお手伝いできませんか?」
俺は画面から目を離さずに答えた。
「気持ちはありがたいんだけど、初心者の二人に任せるには結構複雑で...」
俺は少し困ったような表情を見せた。
「今は集中して一気に進めたいんだ。調査の方、本当に助かってるから」
その言葉に、三上の表情が少し曇った。
優しく断られたからこそ、余計に寂しく感じたのかもしれない。
「分からないなりに、覚えたいんです」
三上が小さな声で言った。
「黒瀬先輩の役に立ちたいんです...」
俺は三上の真剣な表情を見て、胸が締め付けられた。
彼女の気持ちは本当に嬉しい。
「ありがとう。でも、今は俺一人の方が...」
俺は言葉を探した。
適切な言葉が見つからない。
疲労で頭がうまく回らなくなっていた。
「ごめん、うまく説明できないけど」
天野が俺の手首を軽く掴んだ。
「和人くん、手が震えてる」
俺は自分の手を見下ろした。
確かに、微かに震えている。エナジードリンクの飲み過ぎかもしれない。
「大丈夫だって」
俺は手を引っ込めた。
「ちょっと疲れてるだけ」
天野と三上が心配そうに俺を見つめている。
その優しい視線が、今の俺には重く感じられた。
俺は再びキーボードに向かった。心の中では別の声が響いている。
(俺が自分自身を証明するために)
「絶対に完成させる」
その言葉を聞いて、天野の表情がさらに心配そうになった。
「和人くん…」
「すまん、今は集中させて」
俺の声は、自分でも驚くほど疲れて聞こえた。
部室に重い沈黙が流れた。
俺は自分の態度を後悔したが、今更謝るタイミングを失ってしまった。
代わりに、逃げるようにコードの修正に集中することにした。
でも、心の中では分かっていた。
このままでは、何かが壊れてしまう。
それが自分自身なのか、大切な人との関係なのか、まだ分からなかったが。
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