第28話:あなたに近づきたくて

夏休みも残り三週間となった八月の午後、俺たちは問題解決部の部室に集まっていた。先週、生徒会からの学園祭アプリ開発の依頼を受けることを決めた俺たちは、今日から本格的なプロジェクトの準備を始めることになっていた。


部室の窓から差し込む西日が、机の上に置かれた資料を照らしている。昨日の夜、俺は遅くまでかけて技術要件や開発スケジュールをまとめていた。その結果を今日、天野と三上に説明する予定だ。


「お疲れさまです」


三上が部室に入ってきた。いつものように控えめな挨拶だが、今日の彼女はどこか違って見えた。普段よりも背筋がピンと伸びていて、目に強い意志のようなものが宿っている。


「お疲れさま」


俺が答えると、三上は俺の机に近づいてきた。


「黒瀬先輩、今日から本格的に始まるんですよね」


「ああ、そうだな」


「私、何でもお手伝いします」


その言葉は、いつもの三上からは想像できないほど積極的だった。普段の彼女なら「お手伝いできることがあれば…」と遠慮がちに言うところを、今日は断言している。


「ありがとう。助かる」


俺が答えると、三上は安堵したような、それでいて決意を新たにしたような複雑な表情を見せた。


「遅れてごめん」


天野が部室に入ってきた。手には冷たい飲み物の入った袋を持っている。


「差し入れ。暑いから、冷たいものがいいかなって思って」


「ありがとうございます」


三上が天野に礼を言いながら、ペットボトルを受け取った。


天野は俺の机に近づいて、いつものようにさりげなく俺の好みの飲み物を差し出してくれた。


「はい、和人くんの分」


天野が俺にペットボトルを渡す時、指先がそっと俺の手に触れた。


「ありがとう」


俺がお礼を言うと、天野は嬉しそうに微笑んだ。


「今日は特に暑いから、冷たいのにしたの」


天野は俺の反応を見つめながら、優しく言った。


「和人くんの好きな味だから、きっと気に入ってもらえると思う」


その細やかな気遣いと、俺を見つめる温かい視線に、俺の胸がほんのりと温かくなった。


「じゃあ、早速始めようか」


俺は昨夜作成した資料を広げた。A4用紙に細かく書き込まれた技術仕様書、開発スケジュール表、機能一覧表…


「まず、全体的なシステム構成から説明するよ」


俺がホワイトボードに図を描き始めると、三上が手帳を開いてペンを構えた。


「メモを取っていいですか?」


「もちろん」


俺は説明を続けた。データベースの設計、サーバーサイドとクライアントサイドの役割分担、APIの仕様…


三上は俺の話を一言も聞き漏らすまいと、真剣にメモを取り続けている。時々、分からない専門用語があると「すみません、それはどういう意味ですか?」と遠慮がちに質問する。その時、三上は俺の顔を見上げて、少し首をかしげる仕草を見せる。


「REST APIっていうのは…」


俺が説明すると、三上は「なるほど」と頷きながら、丁寧にメモに書き加えていく。理解した時の三上の表情は、パッと明るくなって、まるで花が咲いたようだった。


その集中ぶりと、俺の説明を理解しようと一生懸命な姿を見ていると、俺は少し驚いていた。以前の三上なら、技術的な話は難しそうに聞いているだけだったのに、今日は積極的に理解しようとしている。


「データベースの正規化っていうのは…」


俺がさらに詳しく説明していると、三上は手を止めて、俺の方をじっと見つめた。


「黒瀬先輩の説明、本当に分かりやすいです」


三上の純粋な瞳に見つめられて、俺は少し照れてしまった。


俺がさらに詳しく説明していると、天野が三上の様子を見ていることに気づいた。


天野の表情には、驚きと興味深そうな表情が浮かんでいる。


「柚葉ちゃん」


天野が口を開いた。


「最近、積極的になったし明るくなったよね」


その言葉に、三上の手が止まった。顔を上げて天野を見ると、頬がほんのりと赤くなっている。


「そうでしょうか…?」


「うん、すごく変わったと思う。いい意味で」


天野は興味深そうに微笑んだ。


「理由があるの?」


天野の質問に、三上はさらに顔を赤らめた。


「あの…その…」


三上は俺の方をちらりと見てから、小さな声で答えた。


「黒瀬先輩の役に立ちたくて」


その言葉に、俺は驚いた。


「俺の?」


「はい」


三上は恥ずかしそうに俯きながら続けた。


「先輩がいつも困っている人を助けているのを見ていて、私も少しでもお役に立てるようになりたいと思って」


「そう思ってくれてるのは嬉しいけど、無理はしなくていいからな」


俺が言うと、三上は首を振った。


「無理じゃないです。本当に、そう思ってるんです」


その真剣な表情を見ていると、俺は何だか照れくさくなってきた。


天野が俺たちのやり取りを見ている。その表情を俺が見ると、天野は少し考え込むような顔をしていた。


「じゃあ、続きを説明するよ」


俺は再びホワイトボードに向かった。


「次は、ユーザーインターフェースの設計について…」


三上は再び熱心にメモを取り始めた。時々、俺の方を見上げては、また手帳に視線を戻す。その仕草に、何か一生懸命さが感じられて、俺は嬉しくなった。


一方で、天野はいつものように俺の説明を聞いているが、時々三上の方を見ている。その視線には、何か思案するような表情が浮かんでいる。


一時間ほどかけて技術的な説明を終えると、俺たちは具体的な作業分担について話し合うことにした。


「俺はプログラミング部分を担当するとして」


俺が言うと、天野が提案した。


「私は学園祭の各企画の取材を担当する。どんな情報が必要か、各クラスや部活に聞いて回るよ」


「ありがとう。それは本当に助かる」


「じゃあ、私は…」


三上が手を上げた。


「他の学校のアプリを調べて、参考になる機能やデザインを研究します」


「それもいいアイデアだな」


俺が頷くと、三上は嬉しそうに微笑んだ。


「あと、もしよろしければ…」


三上が遠慮がちに続けた。


「テストとか、簡単な作業とかも、お手伝いさせてください」


「もちろん」


「ありがとうございます」


三上の目が輝いた。その表情を見ていると、俺も嬉しくなってくる。


天野が何かを考えているような表情で、俺と三上のやり取りを見ていた。


「光先輩?」


三上が天野を見た。


「何か他にも必要な作業がありますか?」


「ううん」


天野は微笑んだ。


「柚葉ちゃんが頼もしくて、感心してたの」


そして少し間を置いてから、天野が付け加えた。


「私も、もっと頑張らないとね」


その言葉には、何か決意のようなものが込められていた。


部活が終わって、俺たちは学校を出た。暑い夏の夕方、蝉の声が校舎に響いている。


「今日はお疲れさまでした」


三上が言った。


「明日からは本格的に作業が始まりますね」


「そうだな。よろしく頼む」


「はい」


三上は嬉しそうに答えて、自分の家の方向に歩いて行った。


俺と天野は駅に向かって歩き始めた。


「柚葉ちゃん、本当に変わったよね」


天野がぽつりと言った。


「ああ、そうだな」


俺も同感だった。


「最初の頃は、友達を作ることもできなくて悩んでたのに」


「今は積極的になったし、自信もついてきたみたいだ」


俺の言葉に、天野は頷いた。


「和人くんのことを慕ってるのも、よく分かるし」


「慕ってるって…そんな大げさな」


「大げさじゃないよ」


天野が微笑んだ。


「すごく一生懸命だもん。和人くんの役に立ちたいって気持ちが、すごく伝わってくる」


俺は天野の言葉に少し照れた。


「まあ、そう言ってもらえるのは嬉しいけど」


「でもね」


天野が立ち止まって、俺の方を向いた。


「私も負けてられないなって思ったの」


「負けてられないって?」


「柚葉ちゃんがあんなに頑張ってるのを見てたら、私ももっと和人くんの役に立てるように頑張らないとって」


天野の頬がほんのりと赤くなった。


「私だって、和人くんのことが好きなんだから」


その言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねた。


「天野…」


「だから」


天野が続けた。


「私も、もっと和人くんに…」


天野は言いかけて、恥ずかしそうに俯いた。


「とにかく、私ももっと頑張るから」


天野は上目遣いで俺を見つめた。


「和人くんの隣で、もっと力になれるように」


その上目遣いに、俺は思わずドキリとした。


「明日から、いつもより早く部室に行って、和人くんのお手伝いをするね」


天野の微笑みには、いつもより特別な温かさがあった。



翌日の部活で、三上が俺に声をかけてきた。


「黒瀬先輩、少しお時間いいですか?」


「もちろん」


三上は俺の席のすぐ隣に椅子を持ってきて座った。いつもより近い距離に、俺は少しドキリとした。


「実は、お聞きしたいことがあって」


三上は俺の方に身体を向けて、上目遣いで見上げてきた。


「プログラミングの本で、おすすめはありますか?」


その質問に、俺は驚いた。


「プログラミングの本?」


「はい」


三上は真剣な表情で頷いた。


「すぐには戦力になれないと思うんですが、楽しそうにプログラミングをする先輩を見ていて、私もやってみたいと思ったんです」


俺は三上の言葉に感動していた。彼女がそこまで興味を持ってくれているなんて思わなかった。


「それで、いつか先輩の役に立ちたいんです」


三上の頬がほんのりと赤くなった。


「だから、基礎から勉強したいと思って」


俺は嬉しくなった。誰かが自分の専門分野に興味を持ってくれることほど嬉しいことはない。


「いくつか良い本があるよ」


俺はスマホのメモ帳を開いて、おすすめの参考書をリストアップし始めた。


「初心者向けなら、この本が分かりやすい」


「ありがとうございます」


三上は俺のスマホ画面を熱心に見つめて、自分の手帳にタイトルを書き写していく。その時、三上の肩が俺の腕にそっと触れた。


「この本は実践的で、この本は理論がしっかりしてる」


俺が説明すると、三上は俺の顔を見上げて「なるほど」「勉強になります」と真剣に聞いている。その真っ直ぐな視線に、俺は少し照れてしまった。


「先輩の説明、すごく分かりやすいです」


三上は嬉しそうに微笑んだ。


「今度分からないところがあったら、質問させてもらえませんか?」


「もちろん」


俺が答えると、三上の笑顔がさらに明るくなった。


「ありがとうございます。先輩に教えてもらえるなら、きっと理解できると思います」


その言葉と、無邪気な笑顔に、俺の胸がドキドキした。


その時、天野が部室に入ってきた。


「お疲れさま」


「お疲れさまです」


俺と三上が答える。


天野は俺たちが何を話しているのかを見て、興味深そうに近づいてきた。


「何のお話?」


「プログラミングの参考書を教えてもらってたんです」


三上が答えた。


「私も勉強してみたくて」


「そうなんだ」


天野は微笑んだ。そして、三上とは反対側から俺の隣に座った。


天野が俺を見つめた。その距離は、いつもより近い。


「また柚葉ちゃんにばっかり優しくして、ずるいよ!」


天野はいたずらっぽい表情で俺の肩を小突く。


「そんなつもりはないんだけど...」


「冗談だよ。ただ、だったら私にもプログラミング教えてほしいな」


天野は嬉しそうに微笑んで、俺の腕にそっと手を置いた。


「和人くんに教えてもらえるなら、私もきっと覚えられる」


その柔らかな手の感触に、俺の心臓が早く打った。


三上が俺たちのやり取りを見ている。その表情には、少し驚いたような、そして何か対抗心のようなものが浮かんでいた。


「私も、もっとたくさん質問させてください」


三上が言った。そして、さりげなく俺の反対側の腕に手帳を持った手を置いた。


「どんどん勉強したいです」


「もちろん」


俺が答えると、三上は安堵したような表情を見せた。


その日の部活は、なんとなくいつもと違う空気が流れていた。


天野と三上、二人ともより積極的になっている。

それは嬉しいことなのだが、同時に何かドキドキするような、複雑な気持ちも生まれていた。


二人の視線が時々交差する瞬間があり、その時にお互いを意識しているような表情を見せることがあった。


俺には、まだその意味を完全に理解することはできなかったが、三人の関係に新しい何かが始まろうとしていることだけは感じていた。

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