第25話:本物

教室の窓から差し込む七月の強い陽射しが、机の表面を熱く照らしていた。期末試験が終わって三日。明日から始まる夏休みを前に、クラス全体に開放的な空気が漂っている。


いつもなら一人で過ごす昼休みの時間に、俺は机に向かってプログラミングの参考書を読んでいた。


「黒瀬、お疲れ」


振り返ると、東城が自分の席から歩いてきた。汗ばんだTシャツが、午前中の体育の授業の激しさを物語っている。


「お疲れ様」


「なあ、夏休みの予定ってある?」


東城は俺の机に軽く寄りかかった。


「特に何も」


「マジか。俺は合宿が二週間もあるんだ。地獄だぜ」


そう言いながらも、東城の表情には嫌そうな様子はない。

むしろ、どこか楽しそうでさえある。


「でも楽しそうじゃないか」


「まあな。でも二週間家に帰れないのは寂しいかも」


東城は苦笑いした。


「黒瀬はどうするんだ?家でプログラミング三昧?」


「たぶん、そんなところかな」


「それもそれで羨ましいけどな。好きなことに没頭できる時間があるって」


その時、教室のドアが小さく開く音がした。

顔を向けると、三上が恥ずかしそうにドアの隙間から顔を覗かせている。

きょろきょろと教室内を見回して、俺を見つけると小さく手を振った。


「あ、三上じゃん」


東城が気づいて声をかけた。


三上は安堵したような表情で教室に入ってきた。手には弁当箱を持っている。


「黒瀬先輩、お疲れ様です」


「お疲れ様」


「東城先輩もお疲れ様です」


「おう」


三上は俺の近くまで来ると、少し照れたような表情を見せた。


「あの、もしよければ、一緒にお弁当食べませんか?」


その三上の控えめな提案に、俺は少し驚いた。


「いいけど、俺は購買のパンだけだぞ」


「私のお弁当、多めに作ってきたので、よかったら」


三上は弁当箱を少し持ち上げて見せた。


「いいのか?」


「はい。お母さんが張り切って作ってくれたんです。そういえば、光先輩は?」


「友達と購買にでも行ってるんじゃないか?」


「そうですか。一緒に食べたかったのに残念です」


その時、東城が立ち上がった。


「俺は購買に行ってくるよ。お前たちはゆっくり食べててくれ」


そう言って、東城は教室を出て行った。


俺と三上は向かい合って座り、弁当を広げた。三上の弁当は色とりどりのおかずが丁寧に詰められていて、見ているだけで美味しそうだった。


「すごいな」


「お母さんが料理好きなんです。でも量が多すぎて、いつも困ってました」


三上は恥ずかしそうに笑った。


「一人で食べるには多いから、一緒に食べてもらえて助かります」


俺たちは静かに食事を始めた。

教室内には他のクラスメイトたちの楽しそうな声が響いているが、俺と三上の周りだけは穏やかな時間が流れている。


「明日から夏休みですね」


三上がぽつりと言った。


「そうだな」


「部活はどうなるんでしょうか?」


「さあ、どうだろう」


実際のところ、問題解決部の夏休み中の活動については、まだ何も決まっていなかった。


「私、ちょっと寂しいです」


三上の言葉に、俺は箸を止めた。


「部活がないと、毎日やることもないですし。友達もいないし・・・」


「俺も特にやることないなあ」


俺は正直に答えた。


「まあ、また一緒にゲームでもしようか」


「本当ですか?」


三上の表情が明るくなった。


「ああ」


昼休みが終わりに近づいた頃、東城が戻ってきた。


「どうだった?」


「美味しかった。ありがとう」


俺が三上に礼を言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「また今度、お願いします」


三上はそう言って、弁当箱を片付けた。



放課後、俺は問題解決部の部室に向かった。夏休み前の最後の部活動。天野と三上が既に来ている。


「お疲れ様」


「お疲れ様です」


二人が答える。


「夏休みの話なんだけど」


天野が口を開いた。


「部活はどうしようか?」


「どうしましょうね」


三上が答えた。


「完全に休みにするのもいいけど、たまには集まってもいいかも」


天野の提案に、俺は頷いた。


「それがいいな」


「じゃあ、週に一回くらい?」


「いいですね」


三上も同意した。


その日の部活動は、夏休み中の予定を話し合って終わった。

いつもよりも早く終わったので、俺たちは一緒に学校を出た。


校門で別れる時、天野が俺に声をかけた。


「和人くん、ちょっといい?」


「何?」


「今度の土曜日、時間ある?」


その天野の問いかけに、俺の心臓が早く打ち始めた。


「ある」


「久しぶりに、二人で出かけない?」


俺の頭の中で、何かが閃いた。これは、俺にとって大きなチャンスかもしれない。


「いいよ」


「ありがとう。楽しみにしてる」


天野は微笑んで、三上と一緒に去って行った。


その夜、俺は一人で考えていた。


最近の自分の変化について。

東城との友情、三上との関係、クラスメイトとの距離感の変化。


確かに俺は成長している。以前の殻に閉じこもっていた俺とは違う人間になりつつある。


もしかしたら、俺は天野の隣に立っていてもいいのかもしれない。


そう思えるようになった自分に、少しだけ驚いていた。



土曜日の朝、俺は念入りに身支度を整えた。普段着とは違う、少しおしゃれな服を選んだ。鏡の前で何度も髪型をチェックして万全の準備を整える。


今日は特別な日にしたかった。


天野と待ち合わせをしたのは、駅前の広場。

彼女はワンピースを着て、いつもよりも大人っぽく見えた。


「お疲れ様、和人くん」


「お疲れ様」


俺たちは電車に乗って、都心の方へ向かった。

俺が予約していたのは、少し高級なレストラン。


普段の俺たちには背伸びした選択だったが、今日は特別だった。


少し値段も張るが、プログラミングの案件で高校生にしては結構稼いでいる。

こういう特別なときくらい使ってもいいだろう。


「素敵なお店だね」


天野がメニューを見ながら言った。


「気に入った?」


「うん、すごく」


料理が運ばれてくると、俺たちは学校のことや夏休みの予定について話した。でも俺の頭の中には、今日の本当の目的があった。


食事が終わると、俺たちは夕暮れの街を歩いた。計画通り、夜景の見える公園へ向かった。


「綺麗だね」


天野が街の灯りを見上げながら言った。


「うん」


俺は天野の横顔を見つめていた。夜景に照らされた彼女の表情は、いつもよりも神秘的に見えた。


「天野」


俺が声をかけると、天野が振り返った。


「何?」


その瞬間、俺の心臓が激しく鼓動し始めた。


「俺、話したいことがあるんだ」


天野の表情が少しだけ緊張したようになった。


「どうしたの?」


俺は深呼吸をした。


「俺、天野のことが好きだ」


その言葉に、天野の瞳が揺れた。


「和人くん...」


「最初に天野と出会った時から、ずっと特別な存在だった」


俺は続けた。


「でも、最初は自分に自信がなくて、天野の隣に立つ資格なんてないって思ってた」


天野は静かに俺の言葉を聞いている。


「でも、最近思うんだ。俺も少しは成長できたのかもしれないって」


「うん」


天野が小さく口を開いた。


「俺、もっと頑張るから...!」


俺は言った。


「これからも努力して、天野の隣にいられるように頑張るから」


その言葉を言いながら、俺はどこか違和感を覚えていた。

まるで台本を読んでいるような感覚。


「だから、俺と付き合ってください」


俺の告白を聞いて、天野はしばらく黙っていた。

その沈黙の時間が、俺には永遠のように感じられた。


天野の表情は読み取れない。


「ありがとう、和人くん」


天野がゆっくりと口を開いた。


「私も、和人くんのことが好きだよ」


その言葉に、俺の心が希望に満ちた。


「本当に?」


「うん、本当に」


天野は微笑んだ。でも、その笑顔のどこかに影があった。


「でも」


その一言で、俺の希望は不安に変わった。


「でも?」


「ごめんなさい。今はお付き合いすることはできません」


「どうして?」


俺は混乱した。


「好きだって言ってくれたのに、どうして?」


天野は少し悲しそうな表情をした。


「私は欲張りだから」


「欲張り?」


「そう」


天野は続けた。


「和人くんの『頑張る』って言葉を聞いて、少し怖くなったの」


「怖い?」


「和人くんが、私のために無理をしてしまうんじゃないかって」


俺にはその意味がよく分からなかった。


「無理なんてしてない」


「本当に?」


天野が俺を見つめた。


「今日の和人くん、いつもとちょっと違って見える」


「違う?」


「うん。うまく言えないんだけど、いつもの和人くんとは違う感じがする」


天野の指摘に、俺は戸惑った。


天野は微笑んだ。


「和人くんが頑張ってくれる気持ちは嬉しい」


「だったら」


俺は情けない声で、すがるように答える。


「でもね」


天野は俺の言葉を遮った。


「私が欲しいのは、頑張ってくれる和人くんじゃないの」


「じゃあ、何が欲しいんだよ...?」


「自然な和人くん」


天野の答えに、俺はますます混乱した。


「自然な?」


「あのとき図書館でパソコンを直してくれた時の和人くん」


天野は振り返るような表情をした。


「あの時の和人くんは、私のためじゃなくて、困ってる人を放っておけないから行動してくれた」


「でも、あれも天野のためだった」


「そうかもしれないけど、でも和人くんらしかった」


天野の言葉に、俺は何も答えられなかった。


「私は欲張りだから」


天野は再び言った。


「和人くんに頑張ってもらうんじゃなくて、和人くんが自然にいられる関係が欲しい」


「それって、どういうこと?」


「いつか、きっと分かってくれる時が来ると思う」


天野はそう言って、俺から少し離れた。


「今日はありがとう。すごく楽しかった」


「天野、待って...!」


俺は天野を引き止めようとした。


「もう少し話そう」


「今日はこれで終わりにしよう?」


天野は優しく言った。


「また部活で会おうね」


そう言って、天野はその場を去っていった。


俺は一人、夜景を見上げながら立ち尽くしていた。


天野の言葉の意味が分からなかった。

好きだと言ってくれたのに、どうして付き合えないのか。

自然な俺って、一体何なのか。


俺の告白は、どこで間違ったのだろうか。


頑張ると言って、何がいけなかったのだろうか。


その夜、俺は眠ることができなかった。


天野の言葉を何度も反芻しながら、自分の告白のどこがいけなかったのかを考え続けた。


でも、答えは見つからなかった。



翌日の日曜日。

俺は予定通り、問題解決部の部室に向かった。


扉を開けると、三上が一人で座っていた。


「お疲れ様です、黒瀬先輩」


「お疲れ様。天野は?」


俺の問いかけに、三上は少し困ったような表情をした。


「光先輩は、今日はお休みです」


「そうか」


俺は椅子に座った。やはり、昨日のことが天野にとって負担だったのだろうか。


「黒瀬先輩、何かあったんですか?」


三上が心配そうに俺を見た。


「いや、何でもない」


俺は答えた。でも、三上は俺の変化に気づいているようだった。


「なんとなく、元気がないように見えますけど」


「そうかな」


「はい」


三上は頷いた。


「私にできることがあったら、何でも言ってください」


その三上の優しさに、俺は少しだけ救われた気持ちになった。


その日の部活動は、いつもとは違う重い空気の中で進んだ。天野がいない部室は、どこか寂しく感じられた。


帰り道、俺は昨日の告白を振り返っていた。


天野は俺のことが好きだと言ってくれた。でも、付き合うことはできないと言った。


自然な俺が欲しいと言った。


でも、自然な俺って何なのか、俺には分からなかった。


空を見上げながら、俺は自分の無力さを感じていた。



私は自分の部屋で、昨日の出来事を振り返っていた。


和人くんの告白の言葉を思い出すたびに、胸が締め付けられるような気持ちになる。


「俺もっと頑張るから、これからも努力して天野の隣にいられるように頑張るから」


その言葉には、和人くんの真剣な気持ちが込められていた。でも同時に、和人くんが私のために無理をし続けようとしていることも伝わってきた。


もしここで告白を受け入れたら、和人くんはきっとこの先もずっと私のために様々な努力を続けて、頑張って成長し続けるだろう。


そんな関係は嫌だった。


私が欲しいのは、お互いのだめなところも、いいところも、弱さも強さもすべて自然のままに受け入れ合える「本物」の関係。


和人くんに無理をさせ続けるような関係にはなりたくない。


きっと和人くんが自然な形でに前に進めるようになった時、その時に初めて一緒にいて和人くんが幸せになれるのだ。


でも、この理由を今和人くんに伝えるわけにはいかなかった。


そうしたらきっとまた、無理やり自然な自分になろうと努力をしてしまうのだろう。


そうじゃない。


少しずつ、少しずつ、お互いに歩み寄って近づいていきたいのだ。和人くんだけに私の方向に来てほしいなんて思っていない。


だから今は、待つしかない。


私は窓の外の夜空を見上げながら、和人くんのことを思っていた。


いつか、和人くんが本当の意味で自分らしくいられるようになった時、その時こそが私たちの本当の始まりなのだと信じて。



それから一週間が過ぎた。


夏休みが始まって、俺は一人で自分の部屋にいることが多くなった。


天野の言葉は、まだ俺の心の中でぐるぐると回り続けている。


「自然な和人くん」


その意味が、まだよく分からない。


でも、一つだけ確かなことがあった。


俺は天野のことを諦めたくない。


天野が何を求めているのか、今はまだ理解できないかもしれない。でも、いつか必ず分かるようになりたい。


そのために、俺はまた一歩ずつ前に進んでいこうと思う。


今度は、誰かのためではなく、俺自身のために。


机の上に置かれたスマートフォンが、小さく振動した。問題解決部のグループチャットに、新しいメッセージが届いている。


三上からだった。


『お疲れ様です。明日、よければ三人で映画でも見に行きませんか?』


少し考えて、俺は返信した。


『いいな。行こう』


すぐに天野からも返信が来た。


『私も行きます』


画面を見つめながら、俺は小さく微笑んだ。


まだ答えの見えない問題だらけだけれど、大切な仲間がいる。


そして、いつか必ず見つけてみせる。


天野が望む、本当の俺を。


夏の青空が、俺の部屋の窓から見えていた。


空はどこまでも高い。

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