第24話:それぞれの一歩
体育館の空気は、無数の息遣いと足音で満ちていた。
天井に張り巡らされた鉄骨が、蛍光灯の光を受けて複雑な影を床に落としている。
その幾何学的な模様を眺めながら、俺は自分の心臓の音に耳を澄ませていた。
ドクン、ドクン、ドクン。
まるで太鼓のリズムのように、胸の奥で何かが響いている。
緊張なのか、期待なのか、それとも別の感情なのか、俺にはよく分からなかった。
「東城先輩、人気者なんですね」
隣に座る三上が、観客席を見回しながら小さくつぶやいた。
その声には純粋な驚きが込められている。
俺は三上の横顔をちらりと見た。いつもの人見知りの表情とは違って、素直な感動が瞳に宿っている。
そんな彼女の率直さに、俺は少しだけ羨ましさを感じていた。
天野も三上の言葉に反応した。
「本当だね。みんな東城くんを応援してる」
天野の声には、感心したような響きがあった。でも俺には、その声の奥に微かな複雑さのようなものを感じ取れた。彼女もまた多くの人から愛されているはずなのに、そこには何か別の感情が混じっている。まるで、注目されることの重さを知っているからこその、共感めいた何かが。
俺がそんな天野の表情を観察していると、彼女がふいに俺の視線に気づいた。
「どうしたの、和人くん?」
「いや、何でもない」
俺は慌てて視線を逸らした。
でも天野は、俺のその反応をじっと見つめていた。
まるで俺の心の中を読み取ろうとするように。その視線の温度に、俺の頬が微かに熱くなる。
その時、コートの東城がこちらを見て手を振った。距離があるにも関わらず、彼の笑顔ははっきりと見て取れる。
三上は慎重に片手を上げて、小さく振り返した。
「頑張って、東城先輩」
彼女の声は観客席の喧騒に紛れるほど小さかった。独り言のような、でも確実に東城へ向けられた応援の言葉。その控えめな応援ぶりが、いかにも三上らしくて、俺は思わず口元を緩めた。
天野は三上ほど恥ずかしがることなく、上品に手を振り返した。その仕草は、いつもの彼女らしい自然な気配りに満ちている。
俺は──どうすればいいのか分からず、ただ小さく頭を下げることしかできなかった。手を振るのも照れくさいし、声を出すのはもっと恥ずかしい。
その俺の不器用な反応を見て、天野が小さく息を漏らした。
「和人くんって...」
途中で言葉を切った天野の表情には、困ったような、でもどこか愛おしそうな微笑みが浮かんでいる。
「何だよ」
俺が尋ねると、天野は首を振った。
「何でもない」
その時、三上が俺たちのやり取りを見ながら、何かを感じ取ったような表情をした。でも何も言わず、再びコートに視線を戻した。その横顔には、微かな寂しさが浮かんでいるように見えた。
試合開始のブザーが鳴った。
その音と同時に、俺たち三人の注意はコートに向かった。でも、それぞれの心の中には、さっきまでの微妙な空気の余韻が残っていた。
東城がスターティングメンバーとしてコートに立った時、三上が息を呑む音が聞こえた。
「緊張してるのかな」
彼女の心配そうな声に、俺も東城の表情をより注意深く観察した。確かに、いつもの明るさの奥に、微かな緊張が見て取れる。肩の線が少し固いし、いつもより表情が真剣だった。
「大丈夫よ」
天野が三上の肩にそっと手を置いた。
「東城くんなら絶対に大丈夫」
その天野の優しい仕草を見て、俺は改めて彼女の人柄の素晴らしさを実感した。
三上の不安を察知し、すぐに慰めの言葉をかける。
そんな自然な優しさが、天野の魅力の一つなのだろう。
こういう瞬間を見ていると、俺は自分がまだまだ彼女に釣り合わない人間だということを思い知らされる。
三上は天野の手の温かさに、少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございます、天野先輩」
「光でいいって言ったでしょ?」
「はい、光先輩」
三上の照れたような笑顔を見て、天野も微笑んだ。
その二人のやり取りを見ながら、俺は自分もこの輪の中にいることの幸せを感じていた。でも同時に、みんながどんどん成長していく中で、自分だけが取り残されているような不安も抱いていた。
試合が始まると、俺たちの感情は東城のプレイに完全に同調した。
最初のディフェンスで東城がボールを奪った瞬間──
「やった」
三上が思わず小さく声を漏らした。
その純粋な喜びに、俺は三上の成長を実感した。
最初は「陽キャが怖い」なんて言っていたのに、今では心から東城のことを応援している。
天野も立ち上がって拍手をした。
俺はそんな二人の反応を見ながら、自分も思わず拳を握りしめていた。
でも、声を出すのは照れくさくて、ただ心の中で東城を応援することしかできなかった。
そんな俺の控えめな反応を、天野が横目で見ていた。
そして、俺の心境を理解したような表情をしていたが、何も言わなかった。
試合が進むにつれて、東城のプレイはどんどん冴えていく。
彼の動きには迷いがなく、リハビリ前と変わらない、いや、それ以上の切れ味があった。そしてその度に、俺たち三人の感情も高ぶっていった。
特に第三クォーター終盤、東城が決定的な3ポイントシュートを決めた瞬間──
三上は小さく「すごい」とつぶやきながら、胸の前で手を握りしめた。
俺は──思わず「よし」と小さく声を出してしまった。
その俺の声を聞いて、天野がぱっと振り返った。
「和人くん、今...」
「え、あ、その...」
俺が慌てていると、三上も振り返った。
「黒瀬先輩、嬉しそうですね」
「そうか?」
俺が困惑していると、天野の表情が少しだけ嬉しそうになった。
「和人くんが感情的に反応してるの、すごく珍しい...」
天野は途中で言葉を切った。
でもその表情から、俺の変化を好意的に受け取ってくれているのが分かった。
試合はその後、東城のチームが勝利した。
終了のブザーが鳴った瞬間、三上が俺の袖を軽く引っ張った。
「やりましたね、黒瀬先輩」
その三上の興奮ぶりに、俺も思わず笑顔になった。
「ああ、やったな」
天野は俺たちのそんなやり取りを見ながら、満足そうに微笑んでいた。まるで二人の友情が深まっていくのを見守る、お姉さんのような表情で。でもその表情の奥には、どこか複雑な感情も混じっているように見えた。
◇
試合後、更衣室から出てきた東城を俺たちは待っていた。彼の顔は汗で光っているが、その表情には充実感が満ちている。
「お疲れ様でした」
三上が一番に声をかけた。その声には、心からの祝福が込められていた。
「おう、見に来てくれてありがとう」
東城は汗を拭きながら答えた。でも、その目は真っ先に俺を見た。
「特に黒瀬、本当にありがとう」
その瞬間、俺は何と答えればいいのか分からず、ただ俯いてしまった。
こんな風に感謝されるほどのことをしたのか、自分でもよく分からない。
すると天野が、俺の代わりに答えた。
「和人くんも、すごく喜んでたよ」
「そうなのか?」
東城が俺を見た。
「さっき、『よし』って声出してました」
三上が楽しそうに言った。
「マジか」
東城が嬉しそうに笑った。
「黒瀬がそんなに感情的になるなんて、珍しいな」
その言葉に、俺はさらに恥ずかしくなった。でも、東城の嬉しそうな表情を見ていると、悪い気はしなかった。むしろ、こんな風に誰かに喜んでもらえることの価値を実感していた。
「でも」
東城は真剣な表情になった。
「本当に、黒瀬のおかげだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は東城の目をまっすぐ見ることができなかった。でも、天野が俺の様子を見て、そっと俺の背中に手を置いた。
その天野の手の温かさで、俺は少しだけ勇気を得た。
「俺は何もしてない。東城が頑張ったからだ」
「そんなことない」
「黒瀬がいなかったら、俺は一人でリハビリを続けることはできなかった。お前が一緒にいてくれたから、不安も和らいだし、最後まで頑張れた」
東城は少し表情を引き締めて続けた。
「俺の部活ってスポーツ推薦で大学を目指してるやつも多いんだ。だから試合での勝利がそのままみんなの人生に関わってくる。エースとしてそこだけは守らないといけないんだ」
その言葉を聞いて、俺は東城が背負っている重さを初めて理解した。いつもの明るさの裏に、こんなにも大きな責任があったなんて。
「だから、怪我で復帰できるかどうか分からない時は、本当に怖かった。でも黒瀬がいてくれたおかげで、最後まで諦めずに済んだ」
そう言って、東城は俺の手を握った。その握手の力強さに、俺は東城の本当の気持ちを感じ取った。でも同時に、自分がそれほど重要な役割を果たしていたことに戸惑いも感じていた。
その時、三上が小さくすすり泣きの音を出した。
「どうしたんですか?」
天野が心配そうに三上を見た。
「なんか、感動してしまって」
三上は恥ずかしそうに目頭を押さえた。
「お二人の友情を見てたら、すごく嬉しくて」
その三上の純粋な反応に、俺も東城も思わず顔を見合わせた。
「三上も、俺たちの大切な仲間だ」
東城が三上に言った。
「最初は怖がってたくせに」
「それは...」
三上が頬を赤らめた。
「今でも近いとちょっと怖いです」
「正直だな」
東城が苦笑いした。
その時、天野がぽつりと言った。
「みんな、いい関係ね」
その言葉には、羨ましさと嬉しさが混じっていた。俺はその天野の表情を見て、彼女も俺たちの輪の中にいることを改めて実感してほしいと思った。でも、どう言葉にすればいいのか分からない。
「天野も含めて、だろ」
俺が言うと、天野の表情がぱっと明るくなった。
「そうだね」
◇
帰り道、俺たち三人は並んで歩いていた。夕日が校舎の屋根を染めて、長い影が道に伸びている。それぞれの心の中には、さっきまでの出来事の余韻が複雑に絡み合っていた。
「東城先輩、本当にすごかったですね」
三上が感動したような声で言った。
「最初は怖いと思ってましたけど」
その三上の素直な変化を聞いて、俺は自分の心境の変化を思った。
「俺も」
俺は正直に答えた。
「東城のこと、勝手に判断してたなって反省してる」
「どんな風に?」
天野が興味深そうに聞いた。その天野の問いかけ方には、俺の内面をもっと知りたいという気持ちが込められているように感じられた。
「いつも明るくて、何の悩みもないんだろうなって思ってた」
俺は続けた。
「でも、実際は違った。俺なんかよりもずっと重い責任を背負って、それでも明るく振る舞ってる」
その俺の言葉を聞いて、天野の表情が少しだけ曇った。まるで自分のことを言われているような、複雑な反応。
「確かに、みんなそれぞれ色々抱えてるものがあるよね」
天野の声には、実体験に基づいた重みがあった。
「そうだな」
俺は頷いた。
「俺も、もっと色んな人と話してみたい」
その言葉を口にした瞬間、天野の歩く速度が微かに遅くなった。俺のその変化を、彼女なりに受け止めようとしているのかもしれない。
「それはいいことだと思う」
天野が微笑んだ。でも、その笑顔の奥には、微かな不安のようなものも見え隠れしていた。
「和人くんなら、きっと色んな人と友達になれるよ」
天野の言葉に、三上も頷いた。
「でも、私たちが一番ですよね?」
その三上の言葉に、俺は少し驚いた。いつもは控えめな彼女が、こんなにストレートに気持ちを表現するなんて。
「もちろん」
俺は即答した。
その俺の答えを聞いて、天野の表情がほっとしたように和らいだ。まるで、俺が自分から離れていってしまうのではないかという不安を抱えていたかのように。
でも俺には、その天野の微細な感情の変化の理由が、まだ完全には理解できていなかった。
◇
翌日の昼休み、東城が俺の席にやってきた。
「黒瀬、昨日はありがとう」
そう言って、彼は俺の机にスポーツドリンクを置いた。
その瞬間、教室内の雑談が一瞬止まった。バスケ部のエースが、いつも一人でいる俺に話しかけている。それが、クラスメイトたちには意外だったのだろう。俺はその視線の集中を感じて、心臓が早く打ち始めた。
「お疲れ様」
俺は小さな声で答えた。
「いや、本当に助かった」
東城は声のトーンを落とさず、堂々と話を続けた。
「リハビリに付き合ってもらえなかったら、きっと復帰はもっと遅れてた」
その東城の態度を見て、俺は少しだけ勇気を得た。
「そうか」
俺も普通の声の大きさで答えた。
その俺の変化を、東城は嬉しそうに受け取った。
「そういえば、問題解決部の活動ってどうなんだ?」
「まあ、ぼちぼち」
東城と俺の会話を、クラスメイトたちが興味深そうに見ていた。特に隣の席の男子は、俺の変化に明らかに驚いているようだった。
「今度、バスケ部の後輩にも紹介してみるよ」
「え?」
「困ってるやつがいるんだ。勉強のことで」
東城は続けた。
「黒瀬なら、きっと力になってくれると思うから」
その東城の信頼の言葉を聞いて、俺の胸は少しだけ暖かくなった。でも同時に、その期待に応えなければいけないというプレッシャーも感じた。みんなが俺に期待をかけてくれる。でも、俺はそれに応えられているのだろうか。
◇
昼休みが終わって、東城が去った後、隣の席の男子が俺に話しかけてきた。
「黒瀬って、意外と普通に話せるんだな」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「そうなのか」
「いや、なんかいつも一人でいるから、話しかけにくいのかと思ってた」
「そう...だったのか」
俺は複雑な気持ちになった。確かに俺は、これまで自分から壁を作っていたのかもしれない。
「でも、東城と普通に話してるの見てたら、案外気さくなやつなんだなって」
その言葉を聞いて、俺は自分の中で何かが変わりつつあることを実感した。
でも同時に、もっと変わらなければいけないという焦りも感じていた。このペースで大丈夫なのだろうか。みんなはもっと早く成長しているのではないか。
放課後、問題解決部の部室に向かう途中、俺は今日の出来事を反芻していた。
東城との友情、クラスメイトとの新しい関係、そして自分に対する少しずつの変化。
確かに俺は成長している。以前の俺では考えられないような人間関係を築いている。
でも、それで十分なのだろうか。
天野は俺の返事を待っている。三上はどんどん明るくなって、人との関わりを楽しめるようになった。東城は仲間の期待を背負いながらも、それをプレッシャーではなく力に変えて結果を出している。
みんなが前に進んでいる。みんなが成長している。
俺はどうだろうか。
このペースで、天野と釣り合うような人間になれるのだろうか。もっと頑張らなければいけないのではないか。もっと早く、もっと確実に成長しなければ、みんなに置いていかれてしまうのではないか。
そんな思いを抱えながら部室の扉を開けると、天野と三上が既に来ていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
二人が答えた。でも、天野の表情は少し心配そうだった。
「今日、東城くんがお礼を言いに来てくれたんでしょ?」
「ああ」
俺は頷いた。
「どうだった?」
天野の問いかけには、俺の反応を気にかける気持ちが込められていた。
「まあ、普通に」
俺は曖昧に答えた。でも天野は、俺のその反応の奥にある複雑な感情を察知したようだった。
「クラスのみんなも、和人くんを見る目が変わったんじゃない?」
「そうかもしれない」
俺の答えを聞いて、三上が嬉しそうに言った。
「それは良かったですね」
「でも、なんだか落ち着かない」
俺は正直に言った。
その俺の言葉に、天野の表情が少し心配そうになった。
「どうして?」
「注目されるのに慣れてないから」
俺が答えると、天野は理解したような表情になった。
「でも、それも慣れよ」
天野は優しく言った。
「和人くんの魅力に、みんなが気づき始めただけ」
その言葉に、俺の胸は少しだけ暖かくなった。でも同時に、もっと頑張らなければいけないという気持ちも強くなった。
天野のその言葉は優しいけれど、俺にはそれがプレッシャーにも感じられた。魅力があると言われても、その期待に応え続けなければいけない。もっと成長しなければいけない。
「和人くんは、自分のことを過小評価しすぎてる」
天野の言葉に、三上も頷いた。
「そうです。黒瀬先輩は、もっと自信を持ってもいいと思います」
二人の励ましの言葉に、俺は少し照れた。
でも、その優しさが逆に俺を急かしているようにも感じられた。
みんなが成長している。みんなが前に進んでいる。
三上は人見知りを克服して、どんどん明るくなっている。東城は困難を乗り越えて、チームメイトの期待に応えている。天野は俺の返事を待ちながらも、いつも優しく支えてくれている。
俺だけが、取り残されているような気がした。
天野を待たせているわけにはいかない。
もっと頑張らなければいけない。もっと早く成長しなければいけない。
でも、どうすればもっと早く成長できるのか、俺には分からなかった。
そんな焦りが、俺の心の奥で静かに燃え続けていた。
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