第23話 後世の評価と残されたもの
私の短い生涯は、関ヶ原の戦いでの敗北と、六条河原での処刑をもって幕を閉じた。しかし、私の死後も、私が生きた時代、そして私が守ろうとしたものへの評価は、様々な形で語り継がれていった。歴史は、私を「天下を乱した奸臣」と評する者もいれば、「豊臣秀吉公への忠義を貫いた稀代の忠臣」と讃える者もいる。私は、そのどちらの評価も、甘んじて受け入れよう。
私の死後、天下は完全に徳川家康殿の手に落ちた。彼は、関ヶ原の戦いで勝利したことで、その権威を不動のものとし、三年後には征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた。そして、約二百六十年にも及ぶ、太平の世を築き上げた。私が最も恐れていた「天下の私物化」は、現実のものとなったのだ。
しかし、私が守ろうとした豊臣家は、すぐに滅んだわけではなかった。家康殿は、表向きは秀頼様を豊臣宗家として遇し、その身分を保証した。大坂には、今も秀頼様がおられ、母である淀殿と共に暮らしておられる。しかし、その実態は、家康殿の監視下に置かれた、形骸化した存在であったろう。私は、そのことを考えると、無念でならなかった。
私の遺体は、この六条河原に晒された後、私の忠臣たちによって密かに引き取られ、手厚く葬られたという。私の故郷である近江には、私の供養塔が建てられ、今も静かに私を見守ってくれているだろう。
後世において、私への評価は、時代によって大きく変化していった。江戸時代には、私は幕府に逆らった「逆賊」として語り継がれ、その非道ぶりが強調された。しかし、明治時代になり、王政復古の大号令が出されると、私は「忠臣」として再評価されるようになった。それは、封建制度の打破と、天皇中心の国家を目指す動きの中で、旧体制に抗った私に、新たな価値が見出されたからであろう。
また、私の人間性についても、様々な意見が交わされている。私は、太閤秀吉公にその才を見出され、その統治能力を遺憾なく発揮した。兵站や内政において、私は常に合理的かつ効率的な手腕を発揮した。その一方で、私は、感情をあまり表に出さず、武断派の将たちとの軋轢を生んだことも事実である。彼らは、私を「算盤奉行」と嘲り、その冷徹さを批判した。しかし、私にとって、それは天下泰平のため、そして無駄な犠牲を出さないための、当然の措置であった。私は、決して私利私欲のために動いたわけではない。
私の最も信頼する友であった大谷吉継殿は、私の死後も、その忠義の厚さで語り継がれることになるだろう。彼は、病の身でありながらも、私への友情と忠誠を貫き、最後まで私のために戦い抜いた。彼の死は、私にとって、生涯忘れ得ぬ悲しみである。彼こそ、私を理解し、私を支えてくれた、真の友であった。
そして、小早川秀秋殿の裏切りは、関ヶ原の戦いの行方を決定づけた最大の要因として、歴史に深く刻まれることになった。彼の行動は、武士としての「義」を問われるものとして、後世にまで議論を呼ぶことになるだろう。
私が残したもの。それは、豊臣秀吉公が夢見た天下泰平の世への、最後の抵抗の足跡である。私は、徳川家康殿の天下を、決して許すことはできなかった。私の行動は、天下の秩序を乱したと批判されるかもしれない。しかし、私には、私の信じる「正義」があった。
私が生まれ育った近江の地では、今も私のことを語り継ぐ人々がいるという。私が築いた佐和山城の麓には、私の菩提を弔う寺がある。そこには、私が生きた証が、静かに息づいているだろう。
もし、私が関ヶ原で勝利していたら、歴史はどう変わっていたであろうか。もしかしたら、豊臣家は存続し、その後の世も、全く異なるものになっていたかもしれない。しかし、歴史に「もしも」はない。
私は、自らの生きた時代を、そして自らの役割を全うした。私にとっての正義は、豊臣を守ること。そのために、私は全てを賭けた。結果は、敗北であったが、私の心には、一点の曇りもなかった。
私は、石田三成。私は、豊臣秀吉公に忠義を尽くし、天下泰平の世を願った。そして、徳川家康殿の天下統一を阻止しようと、最後まで戦い抜いた。私の人生は、激動の時代の中に埋もれていくであろう。しかし、私が守ろうとしたものへの思いは、決して消えることはない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます