第19話 敗走
大谷吉継殿の自刃、そして小早川秀秋殿の裏切りによる西軍の崩壊。関ヶ原の野は、もはや徳川家康殿の東軍の勝利の咆哮に包まれていた。笹尾山の本陣にいた私の元にも、東軍の兵士たちが迫り来る足音が、地響きのように伝わってきた。私は、敗北を悟った。だが、まだ、私の戦いは終わっていなかった。
「もはや、これまで…」
私の口から漏れた言葉は、乾ききっていた。指揮を執っていた私の周りには、もはや数えるほどの兵士しか残っていなかった。彼らの顔には、恐怖と絶望の色が濃く浮かんでいたが、それでも私に付き従おうとしてくれている。彼らの忠義に、私は感謝の念しか抱けなかった。
東軍の先鋒隊が、笹尾山の麓まで迫っていた。彼らの旗指物が、風にはためいているのがはっきりと見える。私は、もはやここで無駄に命を散らすわけにはいかないと判断した。生き延びて、秀頼様と豊臣家の未来のために、最後の力を尽くさねばならない。
「全軍に告ぐ!これより、佐和山城へ撤退する!各々、命惜しまず、生きて佐和山へ辿り着け!」
私の声は、震えていたかもしれない。しかし、私は、最後まで武士としての矜持を保ち、兵士たちに指示を出した。彼らが無事に逃げ延びられるよう、私は殿を務めるつもりだった。
私は、わずかな供を連れて、笹尾山を駆け下りた。東軍の追撃は厳しく、四方八方から鬨の声が聞こえてくる。私は、必死に馬を駆り、夜の闇へと逃げ込んだ。
関ヶ原の野を、私はひたすら西へと向かった。背後からは、容赦ない追撃の足音が迫ってくる。鉄砲の音が鳴り響き、時折、矢が私のすぐそばをかすめていった。命からがら逃げ延びる日々が始まった。
敗走の道は、想像を絶するほど過酷だった。日中は、東軍の追っ手の目を逃れるため、人気の少ない山中や田んぼの畦道をひたすら進んだ。時には、身を隠す場所もなく、草むらに身を潜めて、追っ手が通り過ぎるのを待つしかなかった。夜は、寒さに震えながら野宿を強いられた。疲労と空腹が、私の体力を蝕んでいく。
私の脳裏には、大谷吉継殿の顔が、幾度となく浮かんだ。彼の自刃は、私の心に深く刻まれている。彼が命を賭して守ろうとした豊臣の天下が、私の手によって崩れ去ってしまったという事実が、私を苦しめた。彼の忠告を聞き入れ、人質作戦を中止したこと、そして、彼が私を守るために、自らの命を捧げてくれたこと。その全てが、私の胸に重くのしかかった。
また、小早川秀秋殿の裏切りが、私を深く憤らせた。彼の裏切りがなければ、あるいは、まだ勝機はあったかもしれない。私は、彼の薄情さに、そして武士としての義を欠いた行動に、激しい怒りを感じていた。しかし、同時に、彼を信じきれなかった私自身の甘さも、痛感していた。
道中、私は、幾度となく死を覚悟した。ある時は、追っ手の騎馬隊に囲まれ、絶体絶命の窮地に陥った。その時、私の供の者が、私を逃がすために、自ら盾となって追っ手に立ち向かってくれた。彼の犠義に、私は涙を禁じ得なかった。彼らの命を無駄にしてはならない。私は、必ず生きて、豊臣の再興を成し遂げなければならないと、固く心に誓った。
しかし、私の周りの供の者たちも、次々と倒れていった。傷つき、疲労困憊の末、追っ手の手に落ちる者、あるいは力尽きて倒れる者。彼らの犠牲の上に、私は生かされている。その事実が、私の心を締め付けた。
食事もままならず、私は雑草や木の実を口にして命を繋いだ。飢えと渇き、そして絶え間ない追撃の恐怖が、私の精神を極限まで追い詰めた。しかし、私は、決して諦めなかった。
私の最終的な目標は、佐和山城であった。佐和山城は、私の居城であり、私の最も信頼できる家臣たちがいる。彼らならば、きっと私を匿い、再起の機会を与えてくれるだろう。
しかし、佐和山城へ向かう道は、険しかった。東軍の追撃網は厳しく、私は何度も危険な目に遭った。時には、山中に身を潜め、数日間、飲まず食わずで潜伏することもあった。その間、私は、夜空に輝く星を見上げ、太閤が築き上げた天下泰平の世を、もう一度夢見た。
私は、佐和山城へ向かう途中、近江八幡のあたりで、地元の農民に助けられた。彼らは、私の身分を知らず、ただ飢えに苦しむ私に、わずかな食料と水を与えてくれた。彼らの純粋な優しさに、私は、心が洗われるような思いがした。この民のためにこそ、天下泰平の世を取り戻さなければならないと、改めて決意を新たにした。
私は、自分の足でひたすら歩き続けた。足は棒のようになり、体は鉛のように重かった。しかし、私の心は折れなかった。私の胸中には、必ず生き延びて、家康殿の野望を打ち砕き、豊臣の天下を取り戻すという、強い執念が燃え上がっていた。
敗走の道のりは、まるで永遠に続くかのように思われた。しかし、ついに私は、遠くに佐和山城の城郭が見えた時、安堵の息を漏らした。だが、安堵は束の間であった。
私は、佐和山城に辿り着いたものの、城はすでに東軍の包囲下にあった。城は、私が不在の間に、わずかな兵力で懸命に防衛していたが、もはや落城寸前であった。私は、城内に入ることを断念せざるを得なかった。私の帰還は、城兵の士気を高めるどころか、かえって彼らを危険に晒すことになると判断したのだ。
私は、佐和山城の落城を見届けた。私の故郷であり、私の全ての思い出が詰まった城が、炎に包まれていくのを、私はただ見つめるしかなかった。その光景は、私に、もはや後がないことを告げていた。私の敗走は、まだ終わっていなかった。
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