第12話 小早川秀秋の動向
関ヶ原の盆地に西軍の布陣が完了したその夜、私は笹尾山の本陣で、ほとんど眠ることなく過ごした。戦場全体を見下ろす高台に陣取った私の目は、絶えず南東に位置する松尾山の頂に固定されていた。そこには、小早川秀秋殿の部隊が陣取っていた。彼の動向こそが、この天下分け目の戦の行方を左右する、最も大きな不確定要素であった。
秀秋殿は、太閤豊臣秀吉公の甥でありながら、太閤の死後、徳川家康殿との間で密約を交わしているという噂は、最早公然の秘密となっていた。彼の心中には、一体何が渦巻いているのか。太閤への恩義と、家康殿への義理、そして何よりも自身の保身。様々な思惑が彼の胸中で渦巻いていることは想像に難くない。
私は、彼の裏切りを警戒せざるを得なかった。もし彼が家康殿に寝返れば、西軍の側面、特に大谷吉継殿の隊が壊滅的な打撃を受けることになる。吉継殿の陣は、まさに松尾山からの攻撃に晒される位置にあった。
私は、吉継殿にこの懸念を伝えていた。彼は、私と同じく秀秋殿の裏切りを警戒しており、自陣の防備を固めることに細心の注意を払っていた。「三成殿、万が一にも、秀秋殿が敵に回ったとしても、我らは決して持ち場を離れませぬ」と、吉継殿は病の身でありながらも、揺るぎない覚悟を見せてくれた。その言葉は、私に大きな安心感を与えてくれたが、同時に、彼に大きな負担をかけていることへの申し訳なさも感じていた。
私は、秀秋殿が西軍に加わった経緯を改めて思い返していた。彼は、当初から西軍への参加に消極的であった。私が幾度も書状を送り、あるいは使者を送って説得に当たったが、彼の返答は常に曖昧であった。最終的に西軍に加わることを表明したのは、毛利輝元殿が総大将に就任したことが大きかった。彼は、毛利家の権威には従わざるを得なかったのだろう。
しかし、彼の態度は、終始煮え切らないものであった。彼は、戦場への出兵を命じられても、常に遅延し、理由をつけて行動を渋る傾向があった。大坂城にいる間も、彼は私から距離を置き、家康殿との連絡を密にしていたという情報も、私の耳に入っていた。
夜が深まるにつれて、松尾山から時折聞こえる物音に、私の神経は研ぎ澄まされていった。あれは、兵士たちが移動している音か?それとも、陣地の構築作業か?あるいは、家康殿の使者が密かに訪れているのか?全ての音が、私には不吉な前兆のように聞こえた。
私は、松尾山の秀秋殿の陣に、密かに忍びの者を送り込んでいた。彼らの報告は、どれも秀秋殿が動揺していることを示唆していた。彼は、家康殿からの再三の要請と、西軍からの圧力との間で板挟みになり、苦悩しているという。彼の内面では、激しい葛藤が繰り広げられているのだろう。
しかし、戦場において、優柔不断は命取りになる。彼の逡巡が、西軍全体を破滅に導く可能性があるのだ。私は、彼がどちらに転ぶにせよ、最悪の事態を想定して、手を打っておかねばならなかった。
私は、各隊の配置図を再び広げ、秀秋殿の裏切りを想定した際の対応策を練った。もし彼が裏切れば、宇喜多秀家殿の隊と、小西行長殿の隊が、吉継殿の隊と共に、その猛攻を受け止める必要がある。そして、毛利秀元殿を動かし、松尾山の秀秋殿の背後を突くことができれば、あるいは…
しかし、毛利秀元殿は、総大将の輝元殿の指示がなければ動かない。そして、輝元殿は、大坂城に籠もったままである。この状況で、毛利軍を動かすことは至難の業であった。私は、歯痒さを感じずにはいられなかった。
私は、松尾山の秀秋殿の陣に、最後の使者を送ることも考えた。彼に、太閤の恩義を再度説き、豊臣家への忠誠を誓わせる。しかし、それはもはや、無駄な試みであるような気がした。彼の心は、既に家康殿へと傾いている可能性が高かった。彼の裏切りは、この戦の運命を決定づけるであろう。
夜空には、星が瞬いていた。しかし、その輝きは、私には遠く、そして虚ろに見えた。私は、明日、この関ヶ原で、一体何が起こるのか、想像することもできなかった。ただ、覚悟だけは固めていた。
秀秋殿の動向は、私にとって大きな賭けであった。彼を信じるのか、それとも疑い、警戒するのか。私は、最後まで彼が豊臣の味方である可能性を捨てきれなかった。しかし、同時に、最悪の事態に備える必要があった。
私は、本陣の兵士たちに、警戒を怠らぬよう厳命した。特に、松尾山方面への監視を強化させた。一挙手一投足を見逃すまいと、私の目は、松尾山の頂を睨み続けた。
夜明けが近づくにつれて、関ヶ原の盆地には、深い霧が立ち込めた。その霧は、まるで、この戦の行方を覆い隠すかのようだった。私は、この霧の中に、秀秋殿の裏切りという、暗い影が潜んでいるのではないかと、不安を募らせた。
明日の戦いは、私の全てを賭けるものとなる。そして、その成否は、小早川秀秋という一人の男の決断にかかっているのだ。彼の選択が、天下の未来を決定づける。私は、静かにその時を待つしかなかった。
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