第10話 東軍の帰還

大坂城での日々は、焦燥感との戦いだった。毛利輝元殿を総大将に据え、西軍の陣容を固める作業は進んでいたが、徳川家康殿の東軍は、我々の予想をはるかに上回る速度で、東海道を西へと向かっていた。彼らが会津征伐を中断し、急ぎ引き返しているという報せは、日ごとにその確度を増し、私の心に重くのしかかった。


「馬鹿な……これほどの速さとは。」


私は、佐和山城で小西行長殿や大谷吉継殿らと地図を広げながら、家康殿の進軍経路と到着予定日を計算していた。通常の行軍速度であれば、畿内へ到達するにはまだ数日はかかるはずだった。しかし、伝えられる情報は、その常識を打ち破るものだった。家康殿は、まさに「韋駄天」のごとく、ひたすら西を目指しているのだ。


その報を聞くたびに、私の脳裏には、太閤豊臣秀吉公がかつて成し遂げた中国大返しの光景がよぎった。あれは、本能寺の変を知った太閤が、毛利との和睦を急ぎ、驚異的な速度で姫路へと引き返した伝説的な行軍だ。家康殿は、その太閤の戦法を模倣しているのか。いや、それ以上に、今回の家康殿の行動は、単なる速さだけでなく、彼の徹底した合理性と、天下への執念が透けて見えた。


彼は、会津征伐という大義名分を掲げつつ、その実、私を畿内で挙兵させることを誘発していたに違いない。私が動けば、彼は会津征伐を名目に、豊臣恩顧の大名たちを分断し、私を「天下の乱臣」として討つ大義名分を得る。そして、彼の主力は、すでに西国へと転進する準備を整えていたのだろう。全ては、彼の掌の上で転がされていたかのように思えた。


「これは、完全に家康殿の策にはまったということか…」


私は、苦い顔で行長殿と吉継殿を見た。吉継殿は、病の身でありながらも、その顔には深い思索の跡が刻まれている。彼は、冷静に状況を分析し、私に問いかけた。


「三成殿、もはや各地の兵を待つ時間はございませぬ。家康殿は、京へ向かうと見て間違いないでしょう。その前に、我らはいかなる策を講ずべきか。」


吉継殿の言葉に、私は深く頷いた。彼の言う通り、各地から集結中の兵力を待つ余裕はなかった。家康殿は、おそらく京に入り、そこでさらに兵力を増強し、我々を迎え撃つ構えを見せるだろう。あるいは、直接大坂城を目指してくる可能性も否定できない。


私は、焦燥感に駆られながらも、冷静に判断を下そうと努めた。家康殿の目的は、天下を掌握すること。そのためには、私を打ち破り、豊臣の権威を完全に失墜させる必要がある。彼は、おそらく関ヶ原という地で、天下の趨勢を決する大会戦を仕掛けてくるだろう。そこは、東西の要衝であり、兵力や地理的条件が均等であれば、勝敗は紙一重となる。


「各地の兵は、急ぎ京へ向かわせるよう、改めて指示を出す。そして、我らは…関ヶ原を目指す。」


私の言葉に、行長殿と吉継殿の顔に緊張が走った。関ヶ原は、天下分け目の戦場として、歴史に名を刻むことになるだろう。そこで雌雄を決する覚悟を固めたのだ。


私は、直ちに諸大名に書状を送った。家康殿の引き返しが予想以上に早いこと、そして関ヶ原での決戦を想定し、速やかに兵を進めるよう命じた。特に、毛利秀元殿や島津義弘殿といった、まだ大坂城に到着していない有力大名には、迅速な行動を促した。


しかし、この緊急事態においても、西軍の結束は完全ではなかった。一部の大名からは、「家康殿の進軍が早すぎる。無理な行軍は兵を疲弊させるだけだ」といった慎重論や、「もう少し兵力を集めてからの方がよい」といった意見が届いた。彼らは、家康殿の圧倒的な武力に恐れをなし、決戦を避けようとしているようだった。


特に、小早川秀秋殿の動向は、私の心を悩ませ続けた。彼は、太閤の甥でありながら、家康殿と密かに連絡を取り合っているという噂は、最早公然の秘密となっていた。彼の部隊は、西軍の中核を担う兵力であり、彼の裏切りは、戦況を決定的に不利にするだろう。私は、彼を完全に信用できないまま、彼に兵を進めるよう命じるしかなかった。彼の胸中には、一体何が渦巻いているのだろうか。太閤への恩義か、家康殿への義理か。それとも、ただ自身の保身だけを考えているのか。


夜が更け、佐和山城の天守から見る景色は、まるで私の心を表すかのように、重苦しい闇に包まれていた。遠くに見える篝火の灯りが、家康殿の進軍を象徴しているかのようだ。私は、このままでは、家康殿に有利な状況で決戦を迎えることになるという焦りを隠せなかった。


兵の準備、兵糧の調達、そして何よりも、このバラバラな西軍の心を一つにすること。私の肩には、あまりにも重い責任がのしかかっていた。しかし、私は決して諦めなかった。この戦は、私一人のためのものではない。太閤が築き上げた豊臣の天下、そして幼き秀頼様の未来がかかっているのだ。


私は、夜空に輝く月を見上げた。その光は、遠く東国で進軍する家康殿の東軍をも照らしているだろう。彼の目は、すでに天下を見据えているに違いない。


「家康殿…」


私は、心の中で彼の名を呟いた。あなたは、天下を獲るために、ここまで大胆な行動に出るのか。しかし、私もまた、天下を守るために、すべてを賭ける覚悟だ。


東軍の帰還は、単なる地理的な移動を意味するだけではなかった。それは、天下分け目の戦いが、避けられないものとなったことを告げる、明確な号砲であった。私は、この報を聞いた瞬間から、来るべき決戦に向けて、心の準備を整えなければならなかった。私の人生最大の戦いが、今、まさに始まろうとしていた。

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