第7話 人質作戦

挙兵の決意を固めた後、私は佐和山城で、来るべき戦いのための具体的な戦略を練っていた。東国へ向かう徳川家康殿の主力軍をいかに迎え撃ち、その野望を打ち砕くか。幾日も夜を徹して思考を巡らせる中で、私は一つの、しかし非常に重大な策を思いついた。それは、家康殿の妻子を人質に取る、というものだった。


その頃、家康殿の妻子は、大坂城内にいた。幼い秀頼様の御側に仕えるという名目で、人質として大坂に留め置かれていたのだ。これは、太閤豊臣秀吉公が、万一の事態に備えて家康殿を牽制するために講じた措置であった。今こそ、その人質が最大の効力を発揮する時だと、私は直感した。


もし家康殿の妻子を人質に取ることができれば、家康殿は心理的に大きな圧力を受けるだろう。彼は、私との直接対決を避け、戦を中断せざるを得なくなるかもしれない。あるいは、少なくとも、その進軍を遅らせ、戦況を有利に進めるための時間稼ぎができる。それは、まだ兵力の集結が不十分な西軍にとって、非常に大きな利点となるはずだ。


私は、この策を、佐和山城に集まった同志たち、宇喜多秀家殿、小西行長殿、そして最も信頼を置く大谷吉継殿に打ち明けた。私の説明に対し、秀家殿や行長殿は、その効果に納得を示した。特に秀家殿は、「それは良策にござる!家康の肝を冷やすにはこれしかあるまい!」と、積極的に賛同してくれた。


しかし、その中で、吉継殿だけが、沈黙を保っていた。その表情は険しく、いつもの穏やかさは影を潜めていた。私の提案が終わると、吉継殿はゆっくりと顔を上げた。彼の眼差しは、私を真っ直ぐに見つめていた。


「三成殿、その策、果たして武士の道に叶うものにござるか?」


吉継殿の言葉に、私は一瞬、息を呑んだ。予想だにしなかった反論であった。私は、吉継殿が常に私の意図を理解し、私を支持してくれるものと信じていたからだ。


「吉継殿、何を申されるか!これは、天下のため、豊臣家のため、そして何よりも幼き秀頼様をお守りするための、止むを得ぬ策にござる。家康の野望を挫くためには、手段を選んでおられぬ!」


私は、吉継殿の言葉に憤りを感じ、声を荒げた。しかし、吉継殿は、私の言葉に動じることなく、静かに首を横に振った。


「戦とは、武士が弓馬の腕を競い、命を懸けて天下の趨勢を決めるもの。しかし、人質を取るは、武士の道にあらず。ましてや、婦女子を盾にするなど、正々堂々たる戦とは言えませぬ。それは、我が軍の評判を著しく貶める行為となるでしょう。」


吉継殿の言葉は、私の心を深く抉った。彼の言うことは、武士としての名誉、そして倫理観に深く関わる問題であった。私自身、本来であれば、そのような手段を講じることは本意ではなかった。しかし、私は、家康殿の狡猾な策謀と、彼の圧倒的な武力を前にして、なりふり構っていられない状況にあると感じていたのだ。


「しかし、吉継殿!家康は、すでに太閤の遺訓を破り、天下を私物化しようとしておりまする!そのような不義の輩に対し、我らが武士の道ばかりに拘泥していては、秀頼様と豊臣家が滅ぼされてしまうではないか!」


私は、必死に吉継殿を説得しようとした。私の脳裏には、家康殿が天下を掌握した後の、豊臣家の悲惨な未来がちらついていた。


だが、吉継殿は、頑として意見を曲げなかった。「この戦は、豊臣家を守るための正義の戦であるはず。ならば、その大義を汚すような行いは、決してすべきではない。例え一時的に有利になろうとも、それはかえって我らの信用を失い、家康に口実を与えるだけとなりましょう。」


吉継殿の言葉は、重く、そして私の心を揺さぶった。彼の言うことは、まさに正論であった。武士の道、大義名分。それらは、私が最も大切にしていたものではなかったか。家康殿の不義を正すために、私自身が不義を行うなど、本末転倒ではないか。


秀家殿や行長殿も、吉継殿の言葉に押し黙った。彼らもまた、武士としての名誉を重んじる者たちであった。彼らの表情には、吉継殿の意見に同意する様子が見て取れた。


結局、この人質作戦は採用されなかった。私は、吉継殿の言葉に反論する術を持たなかった。彼の正論と、武士としての矜持が、私の打算的な思考を打ち砕いたのだ。


この時、私は吉継殿との間に、小さな、しかし確かな溝を感じていたのかもしれない。私は、天下を守るためには手段を選ばず、勝利のためにはどんな犠牲も厭わないという考えに傾いていた。しかし、吉継殿は、勝利の先に何を残すか、その戦の「質」を重視していた。


彼の高潔な精神は、私に大きな感銘を与え、同時に、私自身の視野の狭さを思い知らされた。私は、彼に「吉継殿の申される通りにいたしましょう」と、苦渋の決断を伝えた。その時、吉継殿は、いつもの穏やかな表情に戻り、私に深々と頭を下げた。


「三成殿のご英断に感謝いたしまする。これでこそ、正義の戦でござる。」


吉継殿の言葉に、私は言いようのない複雑な感情を抱いた。彼は、私の選択を「英断」と評してくれたが、私の心中には、策が一つ潰されたという焦燥感が残っていた。


しかし、この吉継殿の忠告は、後の戦局に大きな影響を与えることになった。家康殿の妻子の身柄は、そのまま大坂城に留め置かれた。もしあの時、私が強行して人質を取っていたら、戦の行方はどうなっていたのだろうか。


この人質作戦の不採用は、私の戦略に大きな変更を迫るものであった。私は、家康殿の心理を揺さぶる策を失い、正面からの武力対決にすべてを賭けることを余儀なくされた。だが、吉継殿の言葉は、私の胸に、たとえ苦境にあっても、正義の道を貫くことの重要性を深く刻み込んだ。


これから始まる戦は、より一層、武士としての名誉と、大義が問われるものとなるだろう。私は、吉継殿の言葉を胸に、そして彼と共に、家康殿打倒のために、改めて全力を尽くすことを誓った。


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