第5話 会津征伐の発令

慶長五年、年が明けても、天下の不穏な空気は一向に晴れることはなかった。むしろ、その澱みは深まり、私の心に重くのしかかっていた。徳川家康殿の権力は、日増しにその影を濃くし、まるで大地を蝕む巨樹の根のように、豊臣の礎を侵食し始めていた。


七将襲撃事件の後、私は佐和山城に身を置いていた。心身ともに疲弊していたが、休んでいる暇などなかった。城に籠もり、私は来るべき戦いに備え、情報の収集と分析に没頭した。家康殿が、この事件を単なる武断派の暴走として片付けようとしていることは明らかだった。だが、彼の背後にある意図を、私は決して見誤ることはなかった。


家康殿は、この事件を利用して、私を豊臣政権の中枢から完全に排除しようと企んでいたのだ。彼の思惑通り、私は奉行としての政務から遠ざけられ、半ば蟄居のような状態に置かれた。しかし、私はこの時を、雌伏の時と捉えた。嵐の前の静けさ、と。


その静寂を破るように、衝撃的な報せが私の耳に届いた。家康殿が、上杉景勝殿を「軍備増強と謀反の疑いあり」として、会津征伐を号令したというのだ。


私はその報を聞いた瞬間、血の気が引く思いがした。上杉景勝殿は、太閤秀吉公が特に目をかけていた大名の一人であり、その忠義は疑う余地もなかった。にもかかわらず、家康殿が景勝殿を討つという。これは、明らかに不当な言いがかりであり、真の目的は別にあった。


家康殿の狙いは、明白であった。一つは、豊臣恩顧の大名たちを分断すること。もう一つは、私を孤立させ、彼に逆らう者を徹底的に排除することだ。


家康殿は、会津征伐を名目に、豊臣恩顧の大名たちに参陣を命じた。これは、彼らが家康殿への恭順の意を示す踏み絵であった。もし参陣を拒否すれば、それは家康殿への反抗と見なされ、討伐の対象となる。もし参陣すれば、それは家康殿の天下取りに加担することになる。どちらに転んでも、彼らは家康殿の手中に落ちる。巧妙な罠であった。


そして、その罠は、私を追い詰めるためのものでもあった。家康殿が東へ向かえば、手薄になった畿内を私が動くことが可能になる。しかし、それは同時に、私が動くことを家康殿が予期している証拠でもあった。彼は、私が動けば、私を「天下の乱臣」として討つ大義名分を得る。


私は、この会津征伐の報を聞き、直感した。この機を逃してはならない、と。


佐和山城の一室、私は地図を広げ、家康殿の動きを綿密に分析した。彼が会津へ向かう道筋、そして彼に従う大名たちの配置。そして、私は、これまで水面下で進めてきた同志たちとの連携を、いよいよ公にしなければならない時が来たと判断した。


私は、密かに毛利輝元殿、宇喜多秀家殿、小西行長殿、大谷吉継殿ら、反家康の旗幟を鮮明にできる大名たちに連絡を取った。書状には、家康殿の専横が豊臣家の基盤を揺るがし、ひいては天下を乱すものであることを訴え、彼らの協力を求めた。


特に、大谷吉継殿には、入念に書状を送った。彼は、病に蝕まれながらも、常に私の真意を理解し、私を支えてくれる、数少ない友であった。私は、吉継殿に、家康殿の真の狙いが、豊臣家を滅ぼし、自らが天下を牛耳ることにあることを切々と訴えた。そして、今こそ、太閤の恩に報いるべく、立ち上がるべき時であると説いた。


吉継殿からの返書は、私の覚悟をさらに強くするものであった。彼は、私の意図を完全に理解し、たとえ病に倒れようとも、私と共に家康殿に対抗することを誓ってくれた。彼の言葉は、私の心を深く慰め、大きな勇気を与えてくれた。


しかし、全ての者が私の呼びかけに応じたわけではなかった。一部の大名たちは、家康殿の威光を恐れ、あるいは彼の甘言に乗り、私に協力を拒んだ。また、日和見を決め込み、どちらが優勢になるかを見極めようとする者も少なくなかった。


その中で、私は一つの大きな決断を下した。それは、毛利輝元殿を総大将として擁立することであった。毛利家は、中国地方を支配する大大名であり、その動員力は、家康殿に対抗しうる唯一の存在であった。輝元殿を総大将とすることで、私は「天下の乱臣」という汚名を返上し、「豊臣家を守る正義の旗」を掲げることができる。


輝元殿の説得は、容易ではなかった。彼は慎重な性格であり、戦を極度に嫌う傾向があった。しかし、私は彼に、家康殿が天下を掌握すれば、毛利家も決して安泰ではないことを力説した。そして、豊臣家への忠義を訴え、何よりも、太閤の恩に報いることを説いた。最終的に、輝元殿は私の説得に応じ、総大将として兵を挙げることを承諾してくれた。


家康殿が会津へ向かった隙を突き、私たちは一斉に兵を挙げる手筈を整えた。私は、佐和山城を拠点とし、畿内を中心に兵を集める準備を進めた。各地の同志たちにも、挙兵の時期を伝え、連携を密にするよう指示した。


しかし、私の胸中には、一抹の不安がよぎっていた。家康殿の会津征伐は、本当に隙なのだろうか?彼の真意は、一体どこにあるのか?もしかしたら、これは、私が動くことを誘い出すための、さらなる巧妙な罠ではないのか?


様々な思考が頭の中を駆け巡った。だが、もはや後戻りすることはできない。天下の形勢は、家康殿の専横を許すわけにはいかなかった。太閤が築き上げたこの豊臣の天下を、私の手で守り抜かなければならない。


私は、佐和山城の天守から、遠く東の空を眺めた。家康殿が率いる東軍は、まさに今、会津へ向けて進軍しているはずだ。その先に何が待っているのか、私にはまだ分からない。しかし、私の心は決まっていた。私は、家康殿打倒の狼煙を上げ、すべてを賭けて、この戦に臨む覚悟を固めた。この会津征伐の発令こそが、天下分け目の戦いの序章となることを、私は肌で感じていた。

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