第3話 五大老・五奉行の確執
太閤秀吉公が逝去されて以来、伏見城を取り巻く空気は、日に日に澱みを増していった。太閤の遺言に従い、幼き秀頼様を盛り立て、天下を安定させるべく、五大老と五奉行による合議制が敷かれた。形式上は、豊臣家を支える二つの柱が協力し合うという形ではあったが、その実情は、私の目には既に、危うい均衡の上に立つ綱渡りのように映っていた。
特に、徳川家康殿の動きは、私にとって看過できないものであった。彼は、太閤の御臨終の枕元で秀頼様への忠誠を誓い、他の大老たちと共に誓詞を交わしたばかりだというのに、その言葉の墨が乾く間もなく、豊臣恩顧の大名たちとの姻戚関係を次々と結び始めたのだ。伊達政宗、福島正則、加藤清正……彼らは、太閤の恩を忘れ、家康殿の甘言に乗り、その勢力下に組み込まれていく。太閤が厳禁とした「大名間の私的な婚姻」という法度を公然と破り、自らの勢力を拡大していく家康殿の姿は、私には傲慢そのものと映った。
私は、彼のそうした動きを厳しく非難した。五奉行の筆頭として、太閤の遺訓を守り、豊臣家の基盤を揺るがす行為を許すわけにはいかなかった。私は、大坂城の詰所で、家康殿に直接詰め寄ったことも一度や二度ではない。「御誓詞に背くおつもりか!」と、声を荒げたこともあった。しかし、家康殿はいつも、穏やかな笑みを浮かべながら、巧みに私の批判をかわすばかりだった。「これは、天下泰平のため、大名間の絆を深めるための良策である」と、言葉巧みに言い繕うのだ。その言葉の裏に隠された、底知れぬ野心と、私への嘲笑の念を感じずにはいられなかった。
彼の言葉は、まるで蜜のように甘く、しかしその実、猛毒を秘めている。それを理解しているのは、私だけではなかったはずだ。しかし、彼に異を唱える者は、私の他にほとんどいなかった。
前田利家様が生きておられた頃は、まだ均衡が保たれていた。利家様は、太閤の古くからの友であり、その人望は絶大であった。利家様が家康殿を牽制してくださったことで、家康殿も露骨な行動には出られなかった。しかし、その利家様も、太閤に追いかけるように病に倒れ、この世を去られた。私の心に、深い絶望感がよぎった。これで、家康殿を止められる者は、誰もいなくなった。
利家様の逝去後、家康殿はさらに大胆な行動に出るようになった。彼は、太閤の恩顧を受けた大名たちを次々と呼び出し、私に対する不満を煽り立てた。特に、かねてより私と反りが合わなかった武断派の者たちは、その家康殿の言葉に耳を傾け、私への敵意を一層募らせていった。
加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興……彼らは、朝鮮出兵の折、私が兵糧や物資の調達において、厳しい監察を行ったことを根に持っていた。彼らは、戦場で命を懸けて戦う武士の苦労を理解せず、机上の空論で全てを判断する私を「算盤奉行」と嘲り、その狭量さを罵った。私は、彼らのそうした批判を、太閤の天下泰平のため、そして無駄な犠牲を出さないための、当然の措置であると信じていた。だが、彼らは私の真意を理解しようとせず、ただ感情的に私を憎んでいた。
彼らは、家康殿の調略にまんまと乗せられ、私を「天下の乱臣」とまで言い募るようになった。彼らの言葉は、まるで刺々しい棘となって、私の心を蝕んでいった。私は、彼らの浅はかさと、家康殿の巧妙な策略に、深い憤りを覚えずにはいられなかった。
ある日の評定の場でのことだ。私が、家康殿の婚姻政策について、太閤の遺訓に背く行為であると強く非難した際、福島正則が立ち上がり、私に向かって言い放った。「三成殿は、いつから天下の政に口を出すようになったのだ!おぬしは、所詮、算盤を弾くのが役目の奉行ではないか!」彼の言葉に、周囲の武断派の者たちも同調し、嘲りの声が上がった。私は、彼らの言葉に耐え忍び、冷静に反論を試みたが、彼らの敵意は、もはや理性で制御できるものではなかった。
私は、この状況を打開するため、宇喜多秀家殿や、小西行長殿、大谷吉継殿といった、私に理解を示す者たちと連携を深めた。私たちは、家康殿の専横を食い止めるため、様々な策を講じた。しかし、家康殿は、私たちの一歩先を行っていた。彼は、太閤の遺言に従い、幼い秀頼様を大坂城から伏見城に移すことを提案した。これは、一見すれば秀頼様の安全を確保するための措置に見えるが、その実、秀頼様を家康殿の監視下に置き、豊臣家を完全に掌握しようとする策略であった。
私は、この提案に猛反対した。大坂城こそが、豊臣家の本拠であり、秀頼様がおられるべき場所であると主張した。しかし、他の大老たちは、家康殿の提案に賛同し、私の意見は退けられた。私は、自らの無力さを痛感した。豊臣家を守ろうとすればするほど、私の孤立は深まっていく。まるで、泥沼にはまり込み、もがけばもがくほど沈んでいくような感覚であった。
家康殿の権力は、日増しに強大になり、まるで巨大な樹木が根を張るように、天下の隅々にまでその影響力を及ぼし始めていた。私は、このままでは豊臣家が、家康殿の意のままに操られ、やがては滅ぼされてしまうのではないかと、強い危機感を抱いていた。
私の胸中に、一抹の不安がよぎった。太閤が築き上げたこの天下は、一体どこへ向かうのだろうか。私は、秀頼様をお守りし、豊臣の天下を守り抜くことができるのだろうか。しかし、私は決して諦めなかった。この確執の渦中にあっても、私は自らの信念を貫き通すことを誓った。来るべき戦いの日は、刻一刻と近づいている。私は、その日に備え、静かに、しかし強く、心の中で決意を固めていた。
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