第2話 太閤の逝去

慶長三年八月十八日、伏見城に集う我々の耳に、ついにその報が届いた。太閤豊臣秀吉公、御逝去。その言葉は、まるで真夏の空に突然響き渡った雷鳴のように、私の心臓を打ち抜いた。深い悲しみが、とめどなく胸中に押し寄せた。太閤への尽きぬ敬愛と、これまでの御恩を思えば、涙を禁じ得ない。だが、その悲しみは、すぐに避けられぬ未来への、冷厳な覚悟へと変わっていった。


太閤は、まさに天下の太陽であった。その光の下で、全ての大名が統治され、争いも収まり、民は安寧を享受していた。しかし、その太陽が沈んだ今、天下は漆黒の闇に包まれようとしている。いや、すでにその闇は、伏見城の壁をも透過し、じわじわと私たちを侵食し始めていたのだ。


太閤の遺言は、明確であった。幼きご当主、秀頼様を盛り立て、天下を安定させること。そして、五大老と五奉行が協力し、政務を執り行うこと。私は、その遺志を何としても全うせねばならないと、固く誓った。この誓いは、太閤への最後の忠義であり、また、豊臣家の未来を担う者としての、揺るぎない決意であった。


しかし、その決意とは裏腹に、私は既に、嵐の予兆を感じていた。太閤が息を引き取られた瞬間から、水面下で蠢いていた野心家たちの動きが、一気に加速するだろうことは、想像に難くなかった。特に、徳川家康殿の存在は、私の脳裏に常に影を落としていた。彼は、太閤の生前より、その巧みな手腕と忍耐をもって、着実に勢力を拡大してきた。太閤が重病に伏してからというもの、その動きはさらに顕著になっていた。まるで、獲物を狙う猛禽が、今まさに飛び立つ準備を整えているかのようだった。


太閤の御臨終の枕元には、五大老と五奉行が集められた。そこで、家康殿は、他の大老たちと共に、秀頼様への忠誠を誓い、互いに誓詞を交わした。しかし、その家康殿の瞳の奥に、私は、微かな、しかし確かな野心を読み取っていた。彼の言葉には、表向きの恭順の姿勢がにじみ出ていたが、その眼差しは、虎視眈々と天下を狙う猛獣のそれであった。私は、その誓詞が、いかに空虚なものであるかを、この時すでに悟っていたのだ。


太閤の葬儀が執り行われる中、私は、政務の混乱を最小限に抑えるべく、奔走した。太閤の遺言に従い、五大老と五奉行が連携し、円滑に政権を運営できる体制を確立することが急務であった。私は、他の奉行たちと連携し、諸大名への通達や、新たな政務の指針を定めようと尽力した。


だが、私の意に反して、家康殿はすでに動き始めていた。太閤が崩御されて間もないというのに、彼はまるで、その死を待ち望んでいたかのように、その真の姿を現し始めたのだ。彼は、太閤が生前、厳しく禁じていた大名間の私的な婚姻を、公然と奨励し始めた。伊達政宗や福島正則といった有力大名たちが、続々と家康殿の縁戚となることを表明した。これは、明らかに太閤の遺訓を無視し、豊臣政権の根幹を揺るがす行為であった。


私は、この動きを看過できなかった。度重なる家康殿の背信行為に、私の胸には怒りがこみ上げてきた。しかし、感情に流されることなく、私は冷静に対処せねばならなかった。私は、他の奉行たちと共に、家康殿に対して、これらの行為が太閤の遺訓に反することを厳しく非難した。しかし、家康殿は、表向きは反省の意を示しながらも、その行動を改めることはなかった。むしろ、私の非難を、彼自身の権力拡大のための口実として利用しているかのようであった。


加藤清正や福島正則ら武断派の者たちは、この家康殿の動きを黙認し、むしろ賛同する態度を見せた。彼らは、太閤の恩を忘れ、私のことを「奸臣」と呼び、ことあるごとに私を嘲笑し、誹謗中傷した。彼らの言葉は、まるで鋭い刃となって、私の心を切り裂いた。彼らの裏には、家康殿の巧妙な策略があることは明白であった。家康殿は、豊臣恩顧の大名たちを分断し、私を孤立させることで、豊臣政権を内部から崩壊させようと企んでいるのだ。


私は、この絶望的な状況の中で、ただ一人、豊臣家を守り抜くことを決意した。太閤の遺志を継ぎ、幼い秀頼様をお守りすることこそが、私の使命であると、改めて心に刻んだ。家康殿の野望を阻止し、豊臣の天下を維持するために、私は、たとえこの身がどうなろうとも、戦う覚悟を決めた。


太閤が逝去された今、天下は混沌の時代へと突入しようとしている。私は、その波乱の時代を乗り越え、豊臣の灯を絶やすまいと、決意を新たにした。これから始まるであろう激しい戦いの火蓋は、すでに切って落とされたのだ。私は、その炎の中に身を投じることを厭わなかった。私の目の前には、険しい道が待ち受けている。しかし、私は決して、この道を諦めることはない。

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