紙片に眠る刃

玄道

眠る虎──環

 夜十時。


 リビングのテレビが、淡々とニュースを流している。


『逮捕された会社員の三倉弘毅みくら こうき容疑者(二十六)は……』


 画面の中、アナウンサーが名と罪を読み上げる。

 ──五人殺しか。責任能力、認められるのかな。


『母親で無職の、高岡実優たかおか みゆ容疑者(三十)を……』


 ──自分の胎で育てて、自分の手で殺すのね。


 ──何か、違うんだよね。


 私は髪を乾かしながら、ぼんやり思う。

 三河環みかわ たまき、十七歳。

 人を殺したくて仕方がない女子高生。

 このことは、誰にも話したことがない。


 ドライヤーの風が髪を揺らす。


 鏡に映る自分は、透き通るような白い肌に、細く柔らかな黒髪を肩で揺らしていた。


 どこか儚げな印象だと、時々思う。


 大きな黒い瞳は、ガラス玉のように澄んでいる。


 困ったようなハの字眉が映り、ふいに微笑むと、その中に繊細さと明るさが同居しているのが自分でも分かった。


「気持ち悪、部屋戻るね」


「子供の観るもんじゃないわな」


 父は、いつも通りだ。騙すのは簡単。


 ◆◆◆◆


 二階の自室。

 本棚の鍵を外す。


『夢の中、今も』

『絶歌』

『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』

『オリジナル・サイコ』──

 実録犯罪の書籍が、ずらりと並ぶ。


 その隙間に、コールドスチール社製のナイフが一振り。


 ──こんばんは、みんな。


 今夜は、グレアムと逢い引きする。

 ふふ、人の心なんて無いわね、彼も。

 アンチモンはいらない。毒なんてつまらない。


 ──ああ、一度でいいから、人の肉に刃を突き立ててみたい。


 グレアムに別れを告げ、本棚に鍵をかける。

 参考書や文庫本、漫画たちが、彼らの隠れ蓑。


 ──おやすみ、紳士諸君。


 ◆◆◆◆


 翌朝、学校。


「もうさ、れん君なんであんな推せるのか分かんない!」

「あたしは今でもビョンホンだな~、環は?」

「知ってるでしょ、伊藤英明いとう ひであきよ」

「環、泳げないもんね~」

 ──海猿じゃないよ、蓮見聖司はすみ せいじ

「そ、王子様なんだ!」

 ──モリタートを歌う様が痺れるのよね。


「でさ、今日誰が当てられると思う?」

 ──次、保高ほだか先生の授業だっけ。


 保高は、端正な顔立ちと、柔らかな黒髪。

 

 穏やかな表情の奥に、時折鋭い光を宿す瞳。


 私は、あまり彼が好きではない。

 自分を抑えているというか、誰に対しても壁が厚い気がする。

 いつも防水加工のメモ帳を持ち歩く姿は、まるで刑事みたい。


「私かもね」


「環、現文は得意だからいいよね~」


 みんなが頷く。


「へへっ」


 ◆◆◆◆


「では、ここを……三河さん」


「『しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。』……」


『山月記』は好きだ。

 李徴のような男でも、獣になれば、血に抗えなくなる。

 そこに、人間性の限界を見る。


「『今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。』」


「そこまで、ありがとう。この場面で読み取れるのは、人の心がある苦しみからの解放で……」


 ──え? それで正しいの? 

 ──そっか。ふふ。


 予鈴が鳴る。


「今日は、ここまでです」


 ◆◆◆◆


「保高先生!」


 授業後の廊下。

 人のいない場所で、スーツ姿の若い男を呼び止める。


「ああ、三河さん。いつも授業態度は模範的で……」


「李徴は、虎になって幸せだったと思いますか?」


 即答だった。


「ええ」


「なぜです?」


 彼は、声を潜めて言った。


「誰にも言ってはいけませんよ……人を殺しても罰せられないからです」


 その瞬間、後光が差したように感じた。


「先生も、そう思われますか?」


「……生徒指導室、今なら人がいませんね」


 私は頷く。

 喉が、ごくりと鳴る。


「安心してください、ここは学校です。少し三河さんが心配なだけです」


「は、はい」


 ──気付かれた?

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