灰被りの犬
月風
灰被りの犬
第一節:滑空の獣たち
グライダーが唸りをあげる。風を裂いて、振動が骨に染みる。だが、エンジン音はしない。翼のない鳥、咆哮しない獣。俺たちを牽引している輸送機は、はるか前方にいるはずだ。今はただ、それに引っ掛けられたまま、空の上をぶら下げられている。
夜明け前の空は濃く、蒼黒く、雲はなく、星さえ見えない。
俺たちは懲罰大隊だ。精鋭部隊じゃない。栄誉もなければ希望もない。ただの使い捨てだ。グライダーには動力がない。墜ちるしかない機体に身を預けているのだ。
外装は雨に打たれ続けた木製で、床の板は軋むたびに割れそうだ。何度目の再利用だか分からない。座席は金属パイプを曲げて板をつけただけの椅子。クッションなんて存在しない。
俺の隣には、いつも泥を顔に塗っている“詐欺師”がいた。軍に入るときに身分を偽ったらしい。左前の席には、かつて将校を殴ってぶち込まれた元曹長。後ろの列には、軍の酒保で盗みを働いた野郎と、基地に酔っぱらって乱入してきた元パン屋がいる。他にも色んな罪状の奴がいるが、そこまで大きな違いはない。皆等しく司令部から言外に死ねと言われているのだ。
誰もが黙っている。祈る者もいない。ただ手を握りしめて、降下の瞬間を待っている。俺たちは戦場に送られる。だが、どこへかは分からない。輸送機のパイロットも知らない。司令部もたぶん正確には分かってない。ただ一つ確かなのは――我らの任務は、“敵の後方に落ちること”。それ自体が、戦果なのだ。
「切り離し三十秒前!」
機内に声が響く。誰の声でもない。無線機から流れるパイロットの音声だ。俺は片手でヘルメットを押さえ、もう片方で古びた旧式のライフルを握った。銃が武器になるのかも分からない。弾は五発、つまるところ弾薬クリップ一つ。配給はそれだけだ。補給など期待できない。手癖の悪い優秀な奴は多めに弾を持っているらしい。あとで分けて貰おう。
「十秒……」
誰かが吐いた。腐ったポテトのような酸っぱい臭いが一瞬漂う。だが誰も文句は言わない。喧嘩も、罵倒も、今はない。ただ死ぬ瞬間を静かに待っている。
「五、四、三……」
誰かが笑った。
「――二、一、切り離し」
重力が一瞬失われ、次の瞬間には地面が胸にのしかかってきた。グライダーは宙を滑る。風を裂く。高度が落ちる。どこに落ちるかは分からない。ただ一つ、言えるのは。この飛行には目的地がない。降りる場所など、誰も考えていない。俺たちは墜ちに行く。
第二節:墜ちる場所は選べない
時間の感覚はとうに崩れていた。飛び立ってどれほど経ったのか、誰にも分からない。数十分か、数時間か。体内時計は恐怖で狂っている。
景色が変わった。速度が落ち、高度が下がり、窓に映る色も変わった。そう、ここから先はただの落下だ。操縦席はない。操縦桿などという洒落たものは最初からついていない。この機体は、廃材を繋ぎ合わせたような木と布と鉄屑の塊。かろうじて滑空だけはできる――それだけの代物だった。方向を変える術もなければ、減速する機能もない。我々を運ぶこの空飛ぶ棺桶は、何かにぶつかるまで飛び続けるだけだ。
中には二十人足らず。誰も喋らない。時折、咳と嘔吐だけが聞こえる。神に祈る声もない。祈りなど誰も信じていない。窓の外――というより、ただ開いた穴から見える地上に、木々が広がっていた。針葉樹だ。濃い、黒い、鋭い無数の杭のように見える。
一人が呟いた。「ああ、これは死ぬな」誰も返さない。
そしてその通りに、死は来た。グライダーが木々の上に突っ込んだ。衝撃、破裂、圧縮された骨のような音。前部が潰れ、木が突き刺さり、誰かの体が引き裂かれた。体が浮き、そして叩きつけられる。血が飛び、誰かの悲鳴が聞こえ、すぐにそれも潰れた音で消える。
……生きている。
それが最初の思考だった。次に感じたのは、痛みだ。腕。肩。頭。全身が軋む。前席にいた兵士の一人が折れ曲がった座席に潰されていた。隣のやつは足が曲がらない方向に曲がっていたが、呻きながら生きている。俺の左にいた“冤罪の男”は鼻血を垂らしながら「くそったれ……」と呟いた。俺たちを蔑んでいたあの整備兵たちに頼んで、どうにかシートベルトをつけてもらうべきだった。
生き残ったのは十三人。死者二名。重傷者五名。残りは、傷だらけながら立てる者たちだ。俺たちは立ち上がり、壊れたグライダーから這い出る。そして見た。森。黒く、深く、どこまでも続く木々。ここがどこかなんて誰にも分からない。地図も、信頼できる情報もない。だが司令部にとって重要なのは、“我々がここにいる”という事実だけ。それだけで、価値は果たされたのだ。
第三節:影すら無く
グライダーは、どうにか胴体を裂かれずに木々の上へ引っかかっていた。地面からは、五メートル。中途半端に高く、中途半端に落ちきれない。
「これはもう、冗談だろ……」
誰かが呟いた。笑う者はいない。だがオンボログライダーの部品や機体の一部と一緒に落ちるよりはましだ。俺たちは這うように機体の縁まで移動し、下を覗いた。太い枝が何本か伸びており、落ちるにはまだ早いと死を先延ばしにしてくれそうだった。器用なやつから順に、枝に足をかけ、滑るように幹を伝って降りていく。足をくじいた者もいた。だが、それだけで済めば上等だ。
「全員降りたか、点呼!」
俺が言うと、ぽつぽつと番号と名を名乗る声が返ってくる。すでに死んだ者や重傷者はグライダーに残したままだ。我々には名簿も軍籍もないのだ。
兵装は、十年は前に退役した旧式の小銃と、戦前の設計図から再生産された短機関銃が中心だ。銃身は摩耗し、弾倉はガタつき、機関部は油切れ寸前。弾薬は規定量の半分以下。手榴弾は腐食して安全ピンが抜けかけている。多分起爆しないだろう。
我々は「員数外」だ。補給対象ではなく、装備も記録もない。死んでも戦死者に数えられず、生き残っても栄誉に与れない。正規軍から見れば、ただの処分待ちの穀潰しだ。それでも、こうしてここにいる。立ち上がり、銃を背負い、隊列を組む。俺たちは懲罰兵だ。国にも、軍にも、味方にも数えられない。だが、戦場では敵に撃たれるだけの兵士であることに変わりはない。
「集合! 今から俺たちがどこにいるのか、どうにかして調べる。地図を出せ、地形を見て位置を割り出す!」
俺の声に、数名が荷物からくしゃくしゃの地図を取り出す。雨に濡れたら一発で使い物にならないような安物の複製地図だ。精度は低い。それでも頼る他に手はない。
「とりあえず、敵を一人捕まえて場所を聞くのが手っ取り早い」
笑う者がいた。
「その前に殺されなきゃな」
冗談でも笑えない。
それでも、それしか手がない。俺たちは、落下地点から動き出した。地図の破片、風の向き、木々の種類、斜面の傾き――すべてを手掛かりに、この“戦場のどこか”を掴むために。
地図は使い物にならなかった。余程航路が逸れたのか、使えない地図を掴まされたのか、司令部にとってはどうでもいいことだろう。兵士たちは喧嘩腰で、ぼやきと罵声をぶつけ合いながらも、着実に前へと進む。恩赦の希望、それだけを心の片隅に握りしめて。
第四節:狩り
森は静かだった。この国の森はどこもそうだ。鳥は少なく、風は低く、空気は濁っている。爆撃と砲撃が続いた痕跡が、黙っていても鼻をつく。俺たちは散開して進んでいた。全員が全員、軍歴はバラバラ。戦術も信頼もあったものではない。だが、全員が共通して身に沁みているのは──音を立てた奴から死ぬということだった。
「前方、五十……いや、四十メートル」
斜面を登った木陰の先、監視を続けていた元憲兵崩れが声を低くした。上官を殴り倒した奴だ、まともな奴じゃない。俺は手信号を出し、左右から包囲するよう合図した。他の誰も言わないが、全員がこのチャンスを逃すまいと動く。敵兵を捕らえれば、自分の生存の可能性が上がる。それが、皆の計算だった。葉の間から、オリーブドラブの軍服がちらついた。連合軍の兵士──装備はしっかりしている。半自動小銃を手にし、歩哨のようにあたりを見回している。だが、こちらには気づいていない。
「三十メートル……二十……」
音もなく、我々は弧を描くように接近する。背後を取ったのは、かつて補給所の食糧を盗んで売り飛ばした衛生兵上がりのチビだ。銃の台尻を構え、合図を待っていた。
──今だ。
俺が手を下ろすと、チビが飛び出した。ごつん、という鈍い音。敵兵が一瞬目を見開き、膝から崩れた。すかさず二人が抑え込み、銃とナイフを奪う。猿轡代わりに油布を突っ込み、手足を縄で縛った。
「成功だ……」
誰かがつぶやいた。息を殺していた全員が、少しだけ息をつく。久しぶりの“勝利”。だが勝利の余韻も、数秒で終わる。
「さて──こいつにここがどこか聞き出すんだが、誰が通訳できる?」
沈黙。皆が顔を見合わせる。
「おい、昔大学で語学やってたって奴いたろ? 誰だっけ、あのアナーキスト野郎」憲兵に向けて無政府主義を説いてぶち込まれた奴だ、学はあるらしい。
「死んだよ。前の出撃でな。銃が暴発したんだ」整備不良の銃と工作精度が低すぎる弾のせいだ。
「……なんだよ。じゃあ、どうすんだよ」
連合軍兵士は、恐怖と混乱の目でこちらを睨んでいた。自分が何者に捕まったのか、まだ理解していないのだろう。
「殴れば言葉も通じるようになるって言ってた奴がいたな」
「そんな都合よくいくかよ。犬に喋れって言ってるようなもんだ」
誰かが小さく笑い、すぐに黙った。冗談の許されない空気だった。
俺は連合軍兵の肩を掴み、強引に立たせた。「地図をこいつ見せろ、指をさせればいい、場所だけ分かればいい」そう言っても、通じてはいない。だが、相手も分かっているような顔をした。地図を広げると、彼は震える指で、ある地点を指差した。俺たちはそれを囲んで見た。目指すべき方向が、ようやく見えた──かもしれない。
「よし。ここからは、歩くだけだ。全員武装確認、弾薬残量。負傷者は……動け」
「これ、どうする? 捕虜」
しばらく沈黙があった。
そして、誰かがぽつりと呟く。
「撃っておくか? 泣かれても面倒だし」
俺は振り返らずに言った。
「装備を鹵獲しろ、後は縛って放っておけ」
その言葉に、誰も反論しなかった。この若い連合軍兵は恐らく死ぬのだろう。獣か餓死か。ひょっとすると連合軍に見つかって助けられるかもしれないが、知ったことではない。
第五節
このクソったれな針葉樹林を、碌に物資が入ってない軽くてぼろい背嚢と、動くかわからない癖に異様に重い火器を持って、懲罰大隊は進む。僅か八人のみの大隊だ。本来、大隊の定員は四百名程度だから、充足率は驚異の2%だ。
ともかく、いずれにせよ補給のない俺たちは、当面の間、物資を敵に頼らなければならない。奪うにせよ、降伏して雛鳥のように飯を待つにせよ、敵部隊と接触しなくてはならないのだ。
雨上がりなようで、泥と水たまりの混じった地面を踏みながら進む。当然、悪態をつく奴もいる。
「なんだってこんな、神に見放されたみたいにクソなんだ」
元パン屋がため息とともに気だるげに言う。
「罪人だから最初から見放されてるだろ」
詐欺師が小馬鹿にしたように茶化す。そんな軽口にも、誰も乗ってこない。皆、知っている。自分たちの置かれた状況を。
進むにつれて、森はさらに深くなり、木々の間を抜ける風の音さえも、何かを隠しているように感じられる。何時間歩いただろうか。空は徐々に明るくなり、夜明けが近いことを告げている。日の光がわずかに差し込むが、森の奥深くまでは届かない。湿った地面には、動物の足跡らしきものが見えるが、敵兵の気配はまだない。
「おい、これ、本当に合ってるのか?」
元曹長が地図を広げ、俺に問いかける。破れた部分を指でなぞりながら、眉間に皺を寄せている。
「あの捕虜の言った場所だ。信じるしかない」
俺は答える。信じているわけではない。だが、他に頼れるものがないのだ。
俺たちは、あの男が指し示した地点――連合軍の補給線が近いとされている場所を目指していた。そこへたどり着き、何らかの「攪乱」行為を行うことが、俺たちに残された唯一の**「任務」**だった。それが、司令部が期待する「浸透部隊」の証拠となる。つまり、俺たちが死に場所へ向かう道筋だ。
「もし間違ってたら、どうすんだよ」
元パン屋がまた呟く。
「間違ってても、死ぬだけだ」
詐欺師が吐き捨てるように言った。その言葉に、誰も反論しなかった。
俺たちは歩き続ける。疲労困憊で、腹は減り、喉は乾く。だが、止まることは許されない。恩赦という幻影を追いかけ、俺たちはさらに深い森の奥へと足を踏み入れた。
第六節:砕けた防衛線
川を下って半日。腹も減ったし体も冷えている。だがどこまで歩いても同じ風景、同じ匂いだ。湿った針葉樹林の底に、希望は転がっていない。
前方、木々の合間に構造物が見えた。瞬間、全員が足を止めた。動く影──いや、数名の人影がゆっくりとその廃れた建物の周囲をうろついている。銃を携えている。敵だ。しかも疲弊している。数は……十名ほどか。
「やるか?」
問うたのは俺ではない。だが答えはわかっている。やらなければ飢える。やらなければ、凍える夜を屋根なしで迎える。
数十秒後には分かれて散開し、静かに包囲を狭めていた。相手が気づく前に撃ち込む。静寂を切り裂いた最初の発砲で、敵の一人が膝から崩れ落ちた。その瞬間、狂ったような銃声が森林に響き、撃ち合いとなった。敵は散り散りに反応したが、統制を失っている。指揮官はいないか、あるいは既に死んでいる。こちらの攻撃で数を減らし、残る者も林の影で撃ち返してくるのみ。すぐに片がつく。
だが、終わってみれば、我々も一人を失っていた。彼は額を撃ち抜かれて即死した。顔は泥に突っ伏し、表情も見えない。ただ、もがくように伸ばされた片腕が、そこに命があったことだけを示していた。
「……六人か」
そう誰かが言ったが、それきりだった。死者の名前を呼ぶ者はいない。土に還るのが先か、飢えて朽ちるのが先か──どのみち皆、時間の問題だ。
敵の死体を漁る。弾薬、乾パン、濡れたマント。そして、血で濡れた外套の内ポケットに、一枚の折りたたまれた紙があった。広げてみれば、それは正確な地図だった。軍用の印があり、地形と拠点、経路、標高差まで書かれている。今持っている帝国製の地図が子供の落書きに見えるほどに。
「……これは」
全員が息を飲む。生き延びる道が、ようやく少しだけ見えた。たとえそれが地獄に至る道であっても、目印のない闇の中よりはマシだ。
血で濡れた紙を乾かしながら、我々は沈黙のまま、砕けたトーチカと焦げた家屋に身を寄せた。壁には銃痕、床には乾きかけた血痕、欠損した死体も転がっている。だが、今夜は屋根がある。そして、地図もある。それだけで、今の我々には十分だった。
第七節:地獄に咲いた幸運
敵の死体は朝にはハエが集っていた。無論味方の死体も例外ではない。割れた頭蓋、引き裂かれた腹、飛び散った臓物──その全てにハエがたかり異臭を醸し出す。先ほど生命線が入っていた有難いポケット様も近く付きたく無いほどの異臭と虫に包まれていた。
正確無比な地図と、数丁の健在な銃、そして分厚い革鞄に詰められた弾薬。乾パン、携帯燃料、止血帯、雑多な薬品──そこそこ戦える軍がそこそこの戦闘力を持って使っていた形跡。どうやら、この連中は敗残部隊ではなく、物資を集積地から運搬する途中で壊滅した補給小隊だったようだ。どおりで装備が無駄に整っていたわけだ。
「運がいい……のか?」
誰かがぼそりと呟く。否定はない。こんな地獄のような状況で、今この瞬間だけは、確かに運が味方していた。もっとも、懲罰大隊の6人にとっては、運など始めから頼りにはしていない。それでも、何か一つ掴めば、次の地獄までは歩ける。
地図の裏面には、いくつかの番号が走り書きされていた。それを見た誰かが、敵兵の装備から出てきた小型の無線端末をいじり始める。だが通信する術はない。電源も切れており、もう使えるものではなかった。連合語を読めるものもない以上、時間の無駄だ。
「この地図の印、ここから北西……五キロ。連合軍の補給所がある」
「無人か?」
「わからん。けど、敵味方問わず、使うものは同じだ」
誰かが口の端を吊り上げて笑う。まともな戦術も、計画も、秩序もないこの部隊に残されたのは、殺して奪うという本能だけだった。たとえその補給所に敵がいたとしても、銃声で答えを出すしかない。そしてもし無人なら、それは天啓に近い。
ボロ布のように擦り切れた軍服をまとい、錆びたヘルメットをかぶった6人の懲罰兵は、翌朝早くに出発した。荷物は倍に膨れ、誰もが背中に死体を一つくくりつけているような重さを抱えていたが、顔には先ほどまでなかった感情があった。目的がある。略奪以外の。地図の赤い丸が、次の生存への鍵になるかもしれない。それが罠でも地雷原でも、歩かねばならない。
なぜなら──我々には後ろが無いのだ。
死んでいった仲間のため、国のため、家族のため。そんな綺麗で美しい理由のためじゃない。泥臭く、意地汚く生きたいという生存本能が突き動かしているのだ。自分が一番大事でそれ以外は等しく価値がない。部隊の皆同じ想いだ。
第八節:盗賊の夜
星も月も曇天に隠れた夜だった。懲罰大隊の5人は、森の縁でしゃがみ込みながら丘の上を見つめていた。連合軍の補給所。低いフェンス、簡易倉庫、見張りはまばら。緩慢に歩く哨兵のシルエットが、ランタンの灯りに黒く浮かぶ。
「……静かに行く。発砲は最後まで我慢しろ」
一番年嵩の男が囁いた。返事はない。ただ、頷きが闇の中で揺れる。それから、音もなく動き出した。俺たちはもはや兵士ではなかった。もうそう名乗る資格もなかった。ただの泥棒、血と泥に染まった脱落者たち。
だが、今夜の動きは見事だった。営巣の門何度もをくぐった人間にしかできない這い寄り方で、詰まるところ筋金入りの人間のゴミの動きで、影から影へと移動し、隙を突いてフェンスを越えた。物音ひとつ立てず、倉庫に辿り着く。バールでこじ開けた扉の先には、奇跡のような光景が広がっていた。銃弾の木箱、ガソリンのタンク、乾パンと飲料水のクレート、医薬品、通信装備、清潔な軍服。
「……全部、持てるだけ」
囁きながら、3人が倉庫内で動き出し、残り2人は外で見張った。トラックの荷台に手際よく積み込む。慣れた動きだった。盗賊という言葉がふさわしい。
だが、運はそこで尽きた。連合語の怒号、見つかった。叫び声。銃の安全装置が外れる音。即座に発砲。夜が破れる。
「撃て!」
見張りの1人が先に撃ち、もう1人が叫ぶ。敵兵が慌てて建物から飛び出してくる。混乱して、散開せず、目の前の光に引き寄せられてくる。絶好の的だった。盗賊たちは、荷物を運びながら銃を放った。敵に果敢に撃ち込む一方で盗品を大事に抱えていた。一人が箱を抱えながら反動で肩を揺らし、血を流し敵兵が倒れる。
「急げ! トラックに積め!」
怒号と銃声の中、倉庫の入口に立った若い兵が叫ぶ前に撃たれ、後ろに吹き飛んだ。だが、反撃もあった。掩蔽のない荷台で弾がはじけ、一人が脚を撃たれて崩れ落ちる。続けてもう1発。
「……ぐっ」
呻く彼の顔は蒼白だった。腹が裂けていた。彼を救おうと躊躇するものは居ない。背後からの銃声。誰も振り返らない。
「乗れ! 行け!」
運転席に乗り込んだバカがハンドルを回す。トラックが叫び声のようなエンジン音を上げて走り出す。弾が車体を叩き、ミラーが割れた。だが、走った。荒れた斜面を下り、森へ突っ込む。後ろでは炎が上がる。敵は物資を守ることも、復讐することもできなかった。
「……一人、減ったな」
荷台の上で、誰かが呟いた。誰も返さない。物資は奪った。車両もある。医薬品も、清潔な水もある。それでも、6人だったものは5人になった。とは言え達成感は湧いてくるものだ。
「さて……次はどこを襲う?」
誰かが冗談めかして言う。その小粋な冗談に呼応する笑いはなかった。トラックは闇の中を走り続けた。
第九節:鋼鉄の抱擁
日が沈んで久しい森の中で、俺たちのトラックは立ち止まっていた。立派な太くて良い材木になったであろう木に衝突し使い物にならなくなった訳だ。針葉樹の梢が風に軋む音だけが、黒々とした空に響く。皆疲れて絶望しているのだ。
そのとき――
ノイズ混じりの微かな音が、壊れかけた無線機から漏れた。
「こちら第11親衛機甲部隊……アントノフを突破中……支援部隊は座標N-27を目指せ。繰り返す、こちら第11親衛機甲部隊……」
隊員たちが顔を上げた。言葉の意味を理解するのに、誰もが数秒を要した。
「……味方の部隊か?」
誰かがそう呟いた。俺は無線機のつまみを調整しようとしたが、送信機能は既に死んでいた。受信だけが、かろうじて生きている。一方通行の声だ。それでも、俺たちは耳を傾けずにはいられなかった。
あらゆる関節がきしみ、身体が重い。死体のように進む俺たちにとって、その声は幻のようだった。だが、方位磁針と地図を合わせれば、座標は――ここから北西に12キロ。歩ける距離だ。
「向かうか?」
誰ともなく言った。誰も答えなかったが、誰も否定しなかった。足を引きずりながら、俺たちは歩き始めた。焚火もない、灯りもない。だがその先に、救いの手が待っている気がした。
第11親衛機甲部隊がどんな部隊なのかは知らない。だが帝国軍において親衛という単語はとても重く、その名を冠する部隊は最新鋭の装備と厳しい規律、優秀な兵士が配属されることは知っている。まさしく精鋭部隊、敵地にグライダーで突っ込む捨て駒とは違う。常に司令部から損害を避けるよう運用され帝国陸軍の看板として振る舞う。同行できれば人間を名乗るに十分な食事と休息を得られることは確約されるだろう。そして性質上この種の部隊が長時間敵地に留まることは無い。
長い沈黙のなか、誰かが地図を広げ、指先で座標N-27と思わしき場所をなぞった。鹵獲地図だ味方の座標指定などない。だが連合軍の防護陣地の場所はわかる。
「行けるな」
その言葉に、俺たちは無言のままうなずいた。いや、うなずいたような気がしただけかもしれない。とにかく、歩き出した。道もない森の中を。靴底は泥に沈み、枝が顔を打ち、闇の中で身体は何度もよろけた。懲罰大隊に配られる粗末な軍靴は、すでに防寒の役も果たしていなかった。こんなことなら死んだ連合兵から奪えばよかった。そう言えばあの木に繋いだ若い連合兵はどうなっただろうか?心は痛むことはないがあのブーツは貰えばよかった。
呼吸は白く、凍った肺を吐き出すように何度も何度も吐く。それでも、俺たちは前へ進んだ。この森の向こうに、「人間の世界」がある。温かいスープ、柔らかな毛布、規律のある言葉と命令、清潔な野営地。
第11親衛機甲部隊が本物なら――いや、偽物であるはずがない。「親衛」の名がつく以上、帝国陸軍司令部はそれに最新装備を与え、最高の補給と情報を渡す。欺瞞の為に親衛の文字を使うことはあり得ない。俺たちとは違う。同じ戦争にいて、まるで別の階級にいるような連中だ。
不意に、前方に光が見えた。白く、やや揺れている。だが焚き火ではない。人工の灯――それが何より信じられなかった。全員が立ち止まり、木の陰から目を凝らした。地面には轍が走り、枝が不自然に折れていた。重車両の通った証拠だ。
「近いな」
誰かが言った。俺たちは気づかれないように静かに、しかし急ぎ足で向かった。やがて、銃声が聞こえた。遠くで、小さな衝突が起きているようだ。しかしそれは俺たちのものではない。無線の言葉――「アントノフを突破」とあった――あれは本当だったのだ。
木々の隙間から見えたのは、塹壕ではなかった。照明灯の下に停車する装甲車、見慣れぬ形の歩兵戦闘車、そして帝国陸軍最新鋭の重戦車、帝国の国章をつけた兵士たち。迷彩の色が違う。背筋が伸び、肩章には「親衛」を意味する盾の刺繍。俺たちとは、まるで別の軍に見えた。
前衛の兵がこちらに気づき、銃を構えた。
「停止!所属を述べよ!」
声が凛としていた。俺たちのくぐもった汚らしい罵倒の混じった口調とはまるで違う。俺は両手を上げ、口を開いた。
「第32懲罰空挺大隊、敵地より徒歩にて移動中。無線を受信し、合流を試みた」
声が震えていたかもしれない。だが、兵士は銃を下げた。無線で連絡を取っている。やがて上官と思われる男が現れた。試験運用中の個人無線さえ配備されている事に驚いた。我々に配備されていたのはボロボロで使い捨て前提かつ受信しかできない実質ラジオみたいなものがグライダーに乗っていただけだ。まぁそれも着陸時に潰れたが。
「お前らが懲罰部隊か」
静かに言った。声に侮蔑はなかった。ただ、少しだけ驚いたように聞こえた。
「こっちへ来い、暖かい飯がある。順に衛生チェックを受けろ」
その一言に、誰かが膝から崩れ落ちた。俺たちは、そこに座った。誰も泣かなかった。だが、誰もが安堵していた。そして俺は思った――人間は、こんなにも温かかっただろうか、と。まともな扱いも人間も周りにいなかったせいだろう。
だが、ここには確かな希望があった。救われたのだ。
どうやら我々は前線の遥か後方ではなく結構な前線近くに落ちていたらしい。どうりで地図が使い物にならなかったわけだ。
第十節:命の値段
暖かいスープの匂いが、鼻腔をくすぐった。金属製の器に注がれたそれは、茶色く濁り、沈殿物が混じっていたが、俺たちにはご馳走だった。
「なんだこれ、肉が……入ってるぞ」
誰かがつぶやいた。
「本物の肉だ」
もう一人が笑うように言った。笑い声は小さく、ぎこちなく、喉の奥でこぼれるだけだった。だがそれでも、俺たちは皆、それぞれの器を抱え込み、夢中で口を動かしていた。クソみたいな罵倒も今はない、目の前の食事に夢中なのだ。生きている。そう思える瞬間だった。
テントの中は薄暗く、端にはストーブが焚かれている。蒸気が立ちのぼり、焚き木のはぜる音が時折、静寂を裂いた。久しぶりに感じる「内側」の空気だった。
そのときだった。テントの出入り口がバサリと開いた。一陣の冷気と共に、ひとりの男が入ってきた。親衛隊の制服。濃紺の軍帽。肩章には赤い縁取りと銀色の階級章。胸にはあの盾型の「親衛」徽章が輝いていた。男は沈黙したまま、俺たちを一瞥した。取り調べに来たのだろうか。鋭く、冷たい視線。だがそこには怒りも敵意もない。
俺が何かを言おうと口を開くよりも早く、男はマントの下から短機関銃を取り出した。帝国軍最新鋭のサブマシンガン。その銃口がこちらに向けられたとき、誰一人として動けなかった。殆どの奴は食事に夢中で男を見てすらいなかった。
音は小さく、鋭かった。数発の発砲音がテントに反響し、次の瞬間、隣に座っていた兵士の頭が裂けた。赤黒いものが俺の器に飛び込んできた。悲鳴はなかった。次々に、撃たれていった。人が、ただの土塊ように崩れていく。椅子から転げ落ち、スープを抱いたまま倒れ、銃声と肉の破裂音だけが響く。
俺は立ち上がろうとしたが、膝に何かが食い込んだ。焼けるような痛み。見下ろすと、太ももから血が噴き出していた。再び銃声。腹部に鈍い衝撃。息が詰まる。目の端で、最後の一人が射殺されるのを見た。それでも、親衛隊の男の顔には何の感情も浮かんでいなかった。
俺の視界は急速に滲み、黒く閉じていった。耳鳴りの中で、誰かが何かを言った。
「お前らには贅沢すぎる晩餐だったな」
灰被りの犬 月風 @uiwefguiwef
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