第2話 その力、俺のために使えよ

神代玲くんに「好きにすれば」と言われたあの日から、私の世界は180度……ううん、ぐるんと一周して、まったく新しい色に塗り替えられた。


(よしっ!)


朝、鏡に向かって、いつもより少しだけ念入りに髪をとかす。メガネの位置を直して、きゅっと口角を上げてみる。……うん、やっぱり笑顔はぎこちない。でも、メガネの奥の瞳には、昨日までなかったはずの光が、ちかっと灯っている気がした。


私の、記念すべき「推し活」生活、スタートだ!


「――というわけで、今日のファン学概論は、来たる月末の『学内パフォーマンス評価会』に向けて、効果的なファン力の送り方について学びます」


教壇に立つ先生の言葉に、クラスの空気がピリッと引き締まる。

『学内パフォーマンス評価会』。

それは、アイドル科の生徒たちが全校生徒の前でパフォーマンスを披露し、その場で集まった「ファン力」の量によってランキングがつけられる、この学園で最も重要なイベントの一つ。


ここで結果を出せるかどうかは、アイドルたちの未来に直結する。もちろん、私たちファン科の生徒にとっても、自分の「推し」をどれだけ輝かせられるか、腕の見せ所ってわけだ。


「いいですか、皆さん。ただ闇雲に『好きー!』と叫んでも、ファン力は効率よく届きません。アイドルの個性、楽曲のコンセプト、その日のコンディション。すべてを理解し、的確な『コール』や『レスポンス』に変換してこそ、プロのファンと言えるのです!」


先生の言葉に、周りの子たちが「はいっ!」って目を輝かせながら頷いてる。

私は、こっそりノートの隅にメモを取る。


(的確なコール……レスポンス……)


今までの私なら、「私には関係ない世界の話だ」って、心を閉ざして聞いていただけのはず。

でも、今は違う。

先生の一つ一つの言葉が、全部、神代くんを輝かせるためのヒントに聞こえるんだから、不思議だ。


(神代くんのパフォーマンスに、どんなコールが合うだろう? 彼の歌声は、切なくて、胸を締め付けるような感じだから……静かに聴き入って、曲が終わった瞬間に、割れんばかりの拍手と賞賛のファン力を送るのがいいのかな? ううん、でも、ダンスはすごく情熱的だし……)


ぐるぐる考えていると、頬が熱くなってくる。

ダメだ、ダメだ。彼のことを考えただけで、また体の中のエネルギーが暴走しそうになる。

私は慌てて、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。


(今はまだ、力を解放する時じゃない。コントロールできるようになるまでは、隠し通さないと)


そう。私の最初のミッションは、この暴走エネルギーを飼いならしつつ、神代玲くんという最高の「推し」を、世に知らしめること!


放課後、私は早速、昨日と同じ旧館の音楽室に向かった。

もちろん、ちゃんと作戦は立ててきたんだから!


その名も、『神代玲くんプロデュース計画ノート』!


表紙に、震える手で彼の名前を書いた、世界に一冊だけの秘密のノート。

中には、昨日見た彼のパフォーマンスの分析が、ぎっしり書き込んである。


【神代玲くんの魅力分析】

・歌声:★★★★★(星5つ!切なさと力強さが同居する国宝級の歌声)

・ダンス:★★★★★(星5つ!指先まで魂が宿る情熱的なダンス)

・ビジュアル:★★★★★(星5つ!クールな銀髪と儚げな瞳の破壊力!)

・オーラ:★★☆☆☆(星2つ…でも素の状態のはずだから、ファン力が乗れば無限大!)

・ファンサ:☆☆☆☆☆(星ゼロ…というかマイナスかも…)

・愛想:☆☆☆☆☆(同上)


……こうして客観的に見ると、彼の課題はあまりにも明確だった。

要するに、パフォーマンスは神レベルなのに、コミュニケーション能力が絶望的なんだ。


(だから、ファンがつかないんだ……。でも、そこがいい! 私が、私がその魅力をみんなに伝えればいいんだ!)


心の中でメラメラと炎を燃やしながら、音楽室のドアをそっと開ける。

昨日と同じように、彼はいた。

たった一人、ストイックにダンスの振りを確認している。流れる汗が、彼の綺麗な首筋を伝っていく。


ドクン。


心臓が、正直に反応する。

(うぅ、今日も格好いい……!)


でも、見惚れてる場合じゃない。

私はぎゅっとノートを胸に抱きしめて、一歩、足を踏み出した。


「か、神代くん!」


私の声に、彼の動きがぴたりと止まる。

ギロリ、とこちらを睨む、冷たい視線。ひぃっ! 分かってはいたけど、やっぱり怖い!


「……またお前か」

「は、はい! 小鳥遊紬です!」

「名前なんて聞いてない。昨日も言ったはずだ。俺に構うな、と」

「そ、それは分かってるんですけど! でも、私、どうしてもあなたに伝えたいことがあって!」


ズイッと、私はプロデュースノートを彼の前に突き出した。

彼は怪訝そうな顔で、ノートと私の顔を交互に見る。


「……なんだ、これ」

「私の、研究の成果です!」

「は?」

「あなたのパフォーマンスを、もっともっと輝かせるための提案が書いてあります! 例えば、ここのターンの時なんですけど!」


私は夢中でページをめくり、走り書きしたメモを指さした。


「ターンの後、一瞬だけ止まって、客席に視線を送るんです! たったそれだけで、見てる人は心臓を射抜かれます! あと、サビのこのフレーズ! あなたの声の一番魅力的な高音が活かせる部分だから、マイクを少しだけ離して、地声の響きを混ぜると、もっと切なさが伝わるはずです!」


一気にまくし立てる私に、神代くんは完全に呆気に取られている。

あ、やばい。また、キモいって思われたかも……。


「……なんで」


ぽつり、と彼が呟いた。


「なんで、お前にそんなことがわかる」


え?


彼の瞳から、いつもみたいな冷たさが、ほんの少しだけ消えている。

そこにあるのは、純粋な疑問の色。

初めて見せる、ほんの少しの心の揺らぎ。


その瞬間、私の心臓が、きゅん、と可愛く鳴った。


(もしかして……聞いてくれてる?)


「そ、それは……ファンだからです! あなたのことを、誰よりも真剣に見ている、ファンだから!」


私が胸を張ってそう言うと、彼はふいっと顔をそむけた。

でも、その耳が、ほんのり赤くなっているのを、私は見逃さなかった!


(か、可愛い……! ギャップ萌えって、これのこと!?)


私のファン力が、また体の中でうずき出す。いけない、いけない。平常心、平常心。


「……フン。口だけなら、なんとでも言える」


神代くんは、照れ隠しみたいに、またいつものクールな表情に戻って言った。


「そんなに言うなら、証明してみせろよ」

「へ?」


証明?

どうやって?


彼が、私の目を真っ直ぐに見て、挑戦的に口の端を上げた。


「月末の、パフォーマンス評価会。毎年、俺のステージに来る客はゼロだ」

「……!」

「もしお前が、そのステージを観客でいっぱいにできたら――」


ゴクリ、と私は息を飲んだ。

彼の言葉の続きを、心臓をバクバクさせながら待つ。


「――お前の言うこと、少しは聞いてやってもいい」



――お前の言うこと、少しは聞いてやってもいい。


その言葉は、私にとって、世界で一番甘い悪魔の囁きだった。


(き、聞いてくれる!? 私の、プロデュース案を!?)


でも、その直後。

ガーン! と頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。


(え、え、え? 観客で、いっぱいにする……って、どうやって!?)


毎年観客ゼロの神代くんのステージを、満員に?

そんなの、不可能に決まってる!

そもそも、私には友達がいない。誰かに「見に来て!」って頼むことすらできないのに!


「む、無理です! そんなの、絶対に!」

「無理なのか。じゃあ、この話は終わりだな」


神代くんは、あっさりと私に背を向けた。

その背中が「ほらな、やっぱり口だけだった」って言っているみたいで、私の胸にちくりと痛みが走る。


(……嫌だ)


このまま、終わらせたくない。

せっかく、ほんの少しだけ、彼との距離が縮まった気がしたのに。

ここで諦めたら、私はまた、ただの地味で臆病な小鳥遊紬に戻っちゃう。


「ま、待ってください!」


私は、ほとんど無意識に、彼の制服の裾を掴んでいた。

びくっと、彼の肩が揺れる。


「……離せ」

「い、嫌です! やります! やらせてください!」

「……本気で言ってるのか」

「本気です!」


振り向いた彼の瞳に、今度こそ、はっきりと驚きの色が見えた。

私は掴んだ裾を離さずに、必死に彼を見上げた。


「私、あなたのステージを、たくさんの人に見てもらいたいです。あなたのすごさを、みんなに知ってほしいんです。だから、やります! 絶対に、ステージを満員にしてみせます!」


私の宣言に、音楽室がしんと静まり返る。

神代くんは、何も言わずに、ただ私の顔をじっと見ている。

その視線が、なんだかすごく熱い気がして、私の顔までカッと熱くなる。


「……その手、いつまで掴んでるつもりだ」

「へっ!? あ、ご、ごめんなさいっ!」


私は慌てて手を離した。

触れていた部分が、じんじんと熱い。心臓が、さっきからずっと全力疾走してるみたいにうるさい。


「……月末まで、あと三週間だ」


ぽつり、と彼が言った。


「せいぜい、足掻いてみろよ」


そう言い残して、彼は音楽室から出て行ってしまった。

一人残された私は、その場にへなへなと座り込んでしまう。


「はぁ……はぁ……言っちゃった……」


とんでもない約束をしちゃった。

でも、後悔はなかった。

むしろ、胸の中は、メラメラと燃えるようなやる気でいっぱいだ。


(三週間……。三週間で、観客ゼロのステージを満員に……!)


無理難題なのは分かってる。

でも、やるしかないんだ。

だって、私は彼の、世界で一番のファンになるって決めたんだから!


その日から、私の本当の戦いが始まった。

まずは、情報収集からだ。


「あの、すみません……」

「……はい?」


休み時間、勇気を振り絞って、クラスで一番情報通っぽい派手なグループの女の子に話しかけてみる。

相手は、きょとんとした顔で私を見た。

そりゃそうだよね。今まで一度も話したことないんだから。


「えっと……今度の、パフォーマンス評価会のことなんですけど……」

「あー、評価会ね! もちろん、うちらは全員でハヤト様のステージに行くよ!」


ハヤト様。

それは、アイドル科のトップに君臨する、来栖ハヤト(くるすはやと)くんのことだ。王子様みたいなキラキラの笑顔と、甘い歌声で、ファン科の生徒のほとんどを虜にしている、学園の絶対的王者。


「ハヤト様のステージ、今年も一番大きい第一ホールだよね!」

「当たり前じゃん! 去年なんて、ファンが殺到しすぎて、入れない子が出たんだから!」


(第一ホール……。キャパシティは、確か500人……)


レベルが違いすぎる。

ちなみに、神代くんが去年割り当てられたのは、一番小さい視聴覚室だったらしい。それでも、観客はゼロだったって……。


(どうしよう。やっぱり、普通のやり方じゃダメだ……)


昼休みも、放課後も、私は学園中を歩き回って、神代くんの情報を集めようとした。

でも、帰ってくる答えは、いつも同じ。


「神代玲? ああ、あの万年最下位の?」

「暗いし、無愛想だし、何考えてるか分かんないよね」

「才能はあるらしいけど、ファンがいないんじゃねぇ」


悪評ばかり。

誰も、彼の本当の魅力に気づいていない。


(違うのに……。みんな、彼の本当の姿を知らないだけなのに……)


悔しくて、唇をぎゅっと噛みしめる。

どうすれば、みんなに興味を持ってもらえる?

どうすれば、一度でいいから、彼のステージに足を運んでもらえる?


考えれば考えるほど、分からなくなる。

時間だけが、どんどん過ぎていく。


そんなある日の放課後。

途方に暮れて廊下を歩いていると、前から、ものすごいオーラを放つ集団がやってきた。


キラキラ、キラキラ……!


(うわっ……!)


思わず目を細めてしまうほどの輝き。

その中心にいるのは、やっぱり、来栖ハヤトくんだった。

太陽みたいに明るい金色の髪。優しげに細められた瞳。周りには、いつもファン科のエリートたちが取り巻きのように控えている。


私みたいな地味な生徒は、壁のシミにでもなって、やり過ごすのが一番だ。

そう思って、そそくさと壁際に寄った、その時。


「――ん?」


ハヤトくんが、ぴたりと足を止めた。

そして、その視線が、まっすぐに私を捉えた。


え? 私?


「君、ファン科の子だよね?」

「は、はいっ!」


突然話しかけられて、心臓が跳ね上がる。

なんで、学園のトップアイドルが、私なんかに……?


ハヤトくんは、にこっと王子様スマイルを浮かべると、私の目の前まで歩いてきた。

いい匂いがする……。


「君から、なんだか面白い力を感じるな」

「へ……?」

「なんていうか……すごく純粋で、バカでかいエネルギー。まだ全然、制御できてないみたいだけど」


ドキッ!!


な、なんで、この人が、私の力のことを……!?

私の顔が、さっと青ざめていくのが自分でも分かった。


「面白い。ねぇ、君、名前は?」


ハヤトくんが、私の顔を覗き込むように、少し屈んだ。

その綺麗な顔が、すぐ目の前にある。

普通なら、きゅんとしちゃう場面なんだろうけど、今の私には、彼の笑顔が少しだけ怖く見えた。


この人、何か気づいてる……?


「……そいつに構うな、ハヤト」


不意に、低くて冷たい声が、二人の間に割り込んだ。

ハッと顔を上げると、そこに立っていたのは、神代くんだった。

いつからそこにいたんだろう。彼は、ハヤトくんと私の間に、割って入るように立ちはだかった。


「……玲か。珍しいな、お前が誰かを庇うなんて」


ハヤトくんは、面白そうに目を細める。

神代くんは、相変わらずの無表情で、ハヤトくんを睨みつけていた。


「こいつは、俺のファンだ」

「……は?」


ハヤトくんも、周りの取り巻きたちも、そして私自身も。

全員が、ぽかん、と口を開けて固まった。


い、今、なんて……?

私の、ファン……? ううん、違う、俺の、ファン……?


「へぇ……お前に、ファンがねぇ。しかも、こんな……」


ハヤトくんの視線が、私を上から下まで値踏みするように見た。

(こんな、地味な子が、って言いたそうだ……)


でも、神代くんは全く動じなかった。


「行くぞ」


彼は、私の腕をぐいっと掴むと、そのまま歩き出した。

え、え、え!?


「ちょ、ちょっと、神代くん!?」

「うるさい。黙ってついてこい」


有無を言わさぬ力強さに、私はなすすべもなく引きずられていく。

後ろから、ハヤトくんの面白そうな声が聞こえた。


「そうか、そいつがお前の“秘密兵器”ってわけか。月末の評価会、楽しみにしてるよ、玲!」


秘密兵器って、何!?

わけがわからないまま、私は神代くんに腕を引かれて、人気のない中庭まで連れてこられた。


乱暴に腕を離されて、よろめく。

心臓が、まだドキドキ言っている。


「あ、あの、神代くん……助けてくれて、ありがとう……?」

「……勘違いするな」


彼は、気まずそうに、そっぽを向いた。


「別に、助けたわけじゃない。あいつに、お前の力のことを探られるのが面倒だっただけだ」

「え……? 私の、力……?」


どういうこと?

まさか、神代くんも、私の力のことに気づいてるの?


「……お前、自分のファン力がどれだけ異常か、分かってないだろ」


図星だった。

私の顔から、血の気が引いていく。


「昨日、お前が俺のパフォーマンスを見てた時、旧館の電気が一斉に飛んだ。俺を庇おうとした瞬間は、廊下の照明が破裂した。……あれ、全部お前のせいだろ」


バレてた。

私の、一番隠したかった秘密が、全部。


「ご、ごめんなさ……」

「謝るな」


私の言葉を、彼が遮った。


「その力、面白いじゃん」

「……へ?」


彼は、初めて、私の目を見て、ニヤリと笑った。

それは、いつもみたいな自嘲的な笑みじゃなくて、少しだけ、本当に楽しそうな、いたずらっ子みたいな笑みだった。


「その規格外の力、俺のために使えよ」


その一言で、私の心臓は、完全にキャパオーバーになった。

ズッキュゥゥゥン!!!


(い、今、なんて……!? 俺のために、使え……!?)


そんなの、プロポーズみたいじゃん!

いや、違う! 違うけど、でも!


「月末の評価会、絶対に成功させろ。お前のその力を使えば、不可能じゃないだろ?」


神代くんの挑戦的な瞳が、私を射抜く。

彼は、私の力のことを知った上で、私に賭けてくれてる。

私を、「秘密兵器」だって、言ってくれた。


もう、無理難題だなんて、思わない。

無理かどうかじゃない。やるんだ。

彼が、私を信じてくれるなら。


「……はいっ!」


私は、今までで一番大きな声で、返事をした。


「絶対に、成功させます!」


地味で最強なファンと、孤高の天才アイドル。

不可能への挑戦が、今、本当に始まった。


この後、私がとんでもない作戦を思いついて、学園中を巻き込む大騒動になるなんて、この時の私は、まだ知る由もなかった。

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