久我家の実情



 馬車の呼び鈴で目を覚まされた。


 全ての人が眠りから覚め、身支度を終えた時刻。朝を知らせる鐘が鳴っていた。


 久我琴音くがことねはゆっくりと息を吐いた。数回、瞬きをすると、ようやく頭が働き始める。


 どうやら馬車の中で転寝うたたねをしてしまったらしい。連日の徹夜が原因だろう。


 昨晩、ようやく任務が完了し、馬を飛ばして帝都ていとに着いた時には、もうすっかり陽も落ちていた。そこから、大慌てで報告書を書き上げ、提出した頃には、夜が明けていたのだ。


 端的に言うと、体を酷使した後の徹夜明けである。


 こんな職場、久我くが家の事情がなければすぐにでも辞めてやると息巻いていたのだが。


 髪を軽く整えてから御者に礼を伝える。ステップを下りながら久我伯爵はくしゃく家の邸宅に視線を向けた。


 外からは見えないが、荒れ果てた庭は陰気な雰囲気を感じさせるには十分過ぎた。邸宅そのものはかろうじて手が入っており、白亜の壁は貴族が暮らす邸宅らしさが残っている。


 いつまでこんな無駄に出費がかさむ邸宅を残すつもりなのだろうか。


 琴音の養子に入った久我家は日輪国にちりんこくが建国したときから存在する由緒正しき伯爵家だ。


 そうも言っていられないのが、久我家の財政状況だった。近代化のあおりを受けて、借金をかなりしているからだ。


 そう、かなり、だ。


 先々代の当主が浪費癖ろうひぐせがあったため、何十年と銀行から借りざるを得なくなっており、利息だけでもどれだけふっかけられているかわかったものではない。


 数年前に眩暈を堪えながら兄と二人で全ての借金の洗い出しを行ったが想像以上だった。


 どれほどの額があるか簡単に言うと、身の丈に合わない邸宅を手放して、家財も全て――もちろん、四頭立ての箱馬車も手放して、使用人全員に暇を出して、ようやく首が回り始める程度には大きな額の借金である。


 睡眠不足の原因の一つも、久我家の借金のせいだ。並みの貴族であれば領地収入だけで生活できるはずなのだが、自分が軍人として働かざるを得ないのである。


 琴音は歴史だけは感ぜられる門を押し開ける。石畳にはびこった雑草を足先でかき払いながら玄関へと向かう。


 勝手知ったる我が家とは言い難いが、邸宅の中へと入る。するとようやく使用人が現れ「旦那様がお待ちです」と二階へ行くように促された。


 螺旋階段を上り、奥まった部屋の扉が開くと柔らかい日差しがあたる机だけが目に入った。


 やられた、と悔しく思うと同時に、いつも通りか、と納得する気持ちが沸き上がってくる。養父は琴音を嫌っているせいか、こうした意味のない嫌がらせをよくするのだ。

 徹夜明けで思考が鈍っていた。

 

 幼稚ようちな養父に呆れてしまう。待ったところで意味がないが、養父の面目めんもくを潰すのもよくはないだろう。


 定刻まで待って宿舎しゅくしゃに戻るのが最善だ。


 琴音はソファに腰かけて足を組む。


 さてどうしたものか、と目を閉じた瞬間、すぐさま目を開く羽目になった。空気を震わせる怒号が響いてきたからだった。



「我が家の何処に、散財する余裕があるのですか!」



 男性にしてはやや高めの声音こわねが邸宅の壁を揺らす。「母上! 私と琴音がどれ程努力しているかはご存じでしょう!」とすぐさま怒鳴り声が聞こえてきた。


 琴音は立ち上がって廊下をうかがい見る。華美な洋服を身にまとった養母と兄が廊下を足早に歩きながら言い争っていた。


 養母の胸には見覚えのないエメラルドのブローチが輝いており、言い争いの原因はそれらしい。今シーズンの流行はエメラルドらしく、養母は子供達の汗水を見栄に使ったのだ。兄からしてみれば憤慨ふんがいしても仕方のないことだろう。


 カメリア公国の貿易は伊達辺境伯が中心に行なっており、最近では安価で手に入れられるようになっていると聞いていた。


 放っておいても良いことはない。琴音は廊下へ出て、二人の背後から「ごきげんよう、お養母さま、お兄様」と声をかける。二人が振り返ってから一礼をして「ご挨拶が遅くなり申し訳ございません」と付け加える。


 養母はちらりと琴音を一瞥いちべつすると鼻を鳴らして何も言わずに去っていった。買い物にいくのか、それとも夜会に出るのか、どちらにしても兄には頭の痛い話に違いない。



「見苦しいものを見せてしまったな。給金が入った途端、ああして無駄使いをするものだから……」

「いくらお兄様と言えども金策きんさくには苦労されるのですね」

「金策に苦労していると言うよりも、いや、いい。それで、お前は今日は何しに帰ってきたんだ?」

「お養父様にお呼ばれいたしまして、少々早く来てしまったようです」

「……父上ならば、母上と共に演劇を見に行くと言っていたが」


 琴音はにっこりと微笑んで「一度、痛い目を見るべきですね」と天気の話をするように平然と穏やかに告げる。ふふふ、と上品な令嬢よろしく笑ってはいるが、目は一切笑っていなかった。



「悪かったな……詫びにお茶でも淹れさせるから付き合ってくれ」

「お兄様からのお誘いでしたら、喜んでお受けいたします。手土産を持参すればよかったです」



 血の繋がりこそない二人だが、借金まみれの伯爵家と散財癖のある両親を抱えて今日まで家を存続させてきた仲だ。簡単にできた繋がりではなく、両親の稚拙な嫌がらせなどあきれるだけですむ話だった。


 兄――久我勇次くがゆうじは近くに控えていた執事に紅茶の用意をするように伝える。


 勇次は琴音の外套がいとうを奪い「早く行くぞ」と言って階段を降りていった。何でもないことのように外套を持っていかれてしまい、琴音はすぐに反応ができなかった。何度か瞬きをしたあと、琴音は正気に戻って慌てて兄の背中を追いかける。


 琴音がついてきているかは気に止めずに、勇次は自室へと入っていってしまった。「お兄様、待って」と琴音は声を張り上げて勇次の部屋へと入る。


 勇次は既に書斎机の後ろに置かれた上着かけに琴音の外套をかけていた。部屋の扉が閉まるとネクタイを緩めて長椅子に腰かける。足を投げ出して着ていた上着を長椅子に投げた。



「また行儀の悪いことをなさって。執事に叱られてしまいますよ」

「俺よりも母上を叱ってくれよ。あのエメラルドがいくらすると思ってんだ」



 毎シーズンの流行に合わせて高価な装飾品を購入するのは、一般的な貴族としてごく自然なことではある。一般的とは言い難い久我家の財政状況では耐えきれるはずがない。お嬢様気質が抜けきらない養母に振り回されている勇次には心底同情する。琴音の給金はほとんどが兄の懐に入っているが、その程度では心労が減るわけではない。


「そこまで頭を痛めるのであれば、邸宅を手放して田舎に引きこもってはいかがですか? 領地の管理も幾分か楽になるでしょうし」

「それで納得する両親なら、俺に妹が出来てねぇよ。紹介者があいつだから、お前に不安はなかったけどな」



 頭をかきながら悪態をつき、勇次は上着を持って立ち上がった。上着かけに上着をかけて再び長椅子に腰かける。



「んで? お前は本当は何しに来たんだ? 帝都に戻ってきたばっかりだろ。休めてんのか?」

「問題ありません。報告書の提出も早朝終わりましたから、数日は自由に過ごせます」



 琴音は眉を寄せる。横髪を触りながら「やはり、断るわけにはいかないですね」と呟いた。勇次の眉間にしわが寄り「また危険な任務か?」と忌々しげに言った。



「危険手当ての額から察するに相当に。借金のことを考えるのであれば、受けるべきとは思っていますが。それよりも、任務地の貴族が問題なのです」



 新緑の瞳と白雪の髪を持つ伯爵令嬢の琴音だが、見た目に反して刀を握れば負けなしと言われるほどの実力がある。皇族主催の御前ごぜん試合にも出場する彼女だが、出自は元庶民しょみんの小娘。由緒ある貴族からは白い目で見られることも少なくない。貴族相手の任務では、やりにくさを覚えることもあるのだ。


「国境付近に出向くだけでも気が重いのですが」

「あ? 国境でお前が出るような事件あったか?」

「私も詳しくは。現地にて説明、となっているのです」



 琴音は扉に視線を向ける。未だに執事がお茶を持ってくる気配はなく、扉越しに誰かが盗み聞きしている気配はない。



伊達だて家の領地です」

辺境伯へんきょうはくかよ。それは流石に……」



 伊達家は辺境伯の爵位を与えられた久我家と同じく由緒正しき名家だ。今日に至るまで、国境に領地を持ち隣国からの侵略を退け続けた一族であり、知将ちしょうを多く従えている。対人相手であれば軍部に依頼をする必要は一切ないが、頼らざるを得ない状況らしかった。



「歓迎されないだろ。やめておけ。任務内容も現地で、って口封じする気満々だろ」

「だからこそ、伯爵令嬢である私に白羽しらはの矢が立ったのでしょう。簡単に殺せない相手をご所望、というところでしょう」

「お前、上司変えた方がいいぞ」



 「それはお兄様も同じでしょう。お友達、辞められた方がよろしいかと」と琴音が言うと勇次はげんなりした様子で首を縦に振った。」


 琴音が所属している軍部には人智じんちの及ばぬ現象に対応するために作られた部隊が存在する。

 

 長年断ってきた外つ国との交流を再開したことで近代化が大きく進んだ。その結果、街灯が整備され、石畳が敷き詰められ、短い距離ながら蒸気機関車が走るようにもなっている。それにともない、人々が恐れ敬ってきた人智の及ばぬ現象のほとんどが解明されつつある。


 餅は餅屋。人智が及ばぬもの相手には人智が及ばぬ者に。


 そう言った経緯で結成された特殊任務を遂行する部隊――特務隊。


 国内一危険な人外達による精鋭部隊である。


 それが久我琴音が所属する部隊だった。


「日輪国特務隊所属――久我琴音大尉。暫し帝都を離れ、任務遂行に尽力して参ります」



 ーーきっと、誰かが助けを求めている。

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