雨宿りに緞帳は開く

ナナシマイ

 ほつほつと降る雨があまりに優しすぎて、疲れてしまった。

 立ち止まったクレアリナのことなど気にするようすもなく、白い人影たちが次々と追い抜いていく。クレアリナも彼らを気にしない。

 手にした白い傘は今までに感じたことのない触り心地をしており、それでいて、たとえばこの白が自分の骨なのだと言われたら納得してしまいそうな肌なじみがある。

 小さすぎず大きすぎず。一人一本、傘の中。雨から護るように、雨を楽しめるように。

(もう、怖いものなんてないのよ)

 あとはもう、死者の間へ向かうだけなのに。

 誰も彼もが白い服と傘を身に着けて。枯れた森や廃墟のあいだを死者たちが歩いていく。

 クレアリナも同じなのだ。つい先ほど生を終えたばかりの。

 ここにいる死者はみな、自分の傘の中で、それぞれに独りだった。

 雨音は静かに旋律を刻み、そんな彼らの歩みを促す。

 孤独でも構わないのだと。

 死へと向かう者たちを優しく包み込むように、雨はほつほつと降っている。

(でも)

 だからこそ、クレアリナは、孤独な者たち・・の中にも、居られなかった。


「道に迷ったのか」

 誰かに話しかけられることが久々すぎて、ふいに聞こえた声に、クレアリナはびくりと肩を震わせた。

 ちゃ、と。

 一歩引いた足が水を踏んだ。傘の柄をぎゅっと握る。クレアリナが今立っている軒下は雨のほとんどを凌ぐことができるが、朽ちた屋根のどこからか、わずかに雨が入り込んできていた。目深に持った傘に、新しい水滴が付く。

「……一本道なのよ? 迷うわけがないわ。ちょっと疲れてしまったから、休憩しているだけ」

「ほお、それは失礼した」

 二回目の声が予想外に近い。クレアリナは警戒しつつ傘を少しだけ持ち上げる。

(黒、い……?)

 革靴に長ズボン、ジャケット――視線を上げていくにつれて、その異様さに疑念が強まる。

 傘を持ってはおらず、両手にはそれぞれステッキとシルクハット。死者の白い装いとはかけ離れている。波打つ髪と綺麗に揃えられた髭は雨雲のような薄灰色で、それがなぜか鮮やかに見えた。

「ではお嬢さん、よい旅を」

 柔和な笑みを湛えた唇が突き放すような言葉を落とし、疑念は確信へ変わる。

「あ、あなたは……死者じゃない、の――……っ!」

 問いかけてから、失敗したと気づく。

 ここは死者の間へと続く道。その中にいながら死者でないとすれば、それは人間とは別物のなにかだ。

 世界には、死者の魂を弄ぶような悪しき存在もいるという。

 案の定、紳士の装いをしたその男は、ほの暗い灰色の瞳を愉しそうに光らせたではないか。

「……雨宿りの子だな」しかし続いた言葉は、質問の答えではなく、クレアリナ自身に向けられたもの。「それも、自分が死者だと認識したうえで行脚を外れているのか。死期を間違えたか……?」

 彼の言葉の意味はほとんどわからなかったが、ただひとつ。

 この男は、この雨の道の成り立ちを知っている。

「もしかして、死神なの?」

「死神、ねえ……孤独を抱える者にとっては、たしかにそのようなものかもしれんな」

「じゃあ――」

「だがここでのおれの役割は、孤独死を安らかな思い出にすることであって、その歩みに干渉することではない」

「勘違いしないで。生き返りたいわけじゃないの。死ぬことだって、受け入れてたわ。でもね、ああしてみんなで歩いていると、なんだか自分のいるべき場所ではないような気がしただけ」

 思ったよりすらすらと言葉が出てきて、どうして生前はこのように喋れなかったのかと思う。もし、他人との会話があと少しだけでも上手にできていれば、自分は死なずにいられたのだろうか。


 クレアリナが死を選んだのは、孤独に耐えきれなかったからだ。

 災害で家族を失ったとき、クレアリナは一人で生きていくには若く、しかし孤児として施しを受けるだけの環境に馴染むには微妙な年齢だった。自我が、強すぎた。

 自分の食い扶持を稼げるようになってすぐ孤児院を出たが、クレアリナを取り巻く環境がよくなることはなかった。いわゆる思春期の時代に必要な愛情を受けられなかったからか、彼女は自由な身の上になっても他者との関係をうまく築くことができなかったのだ。

 仕事でも、私生活でも、クレアリナはずっと独り。生活はたちまち立ち行かなくなる。

 自分が生きる価値などないと思っていた。だがこうして雨の中を歩いていると――他の孤独な死者とともにいることすらままならないとすると、死ぬ価値もなかったのかもしれない。


 この男は、どこまで見透かしているのだろう。

 死者たちの歩みに違和感を覚えたというクレアリナの言葉を受け、彼は観察するように目を細める。

 それを興味のひと言で片付けてしまえるかどうか、人間であるクレアリナには判別しかねた。ただの気まぐれかもしれないし、あるいは複雑に運命の絡みあった、人ならざる者による世界の調整・・なのかもしれない。

 だからこれは賭けだった。

「私はきっと、どこまでいっても独りなのでしょうね。辛いのはもうたくさん。この絶望を、あなたのように力を持つひとに理解できるかしら」


 クレアリナのこの強気な姿勢が、ついぞ、孤独を護る者の心に響くことはなかったと知るのは、遠い未来のこと。


「ほお。孤独の聖人に、孤独を説くか」

「せっ――」

(聖人ですって……!?)

 この瞬間はただ、どこにいても孤独を拾うしかない自分の境遇をひっくり返してくれるきっかけが欲しかった。

 そういう意味で、人ならざる者との出会いはこのうえない幸運だったに違いなく、クレアリナの饒舌は無意識のうちにそのきっかけを掴もうとはたらいた結果なのかもしれない。

 とはいえ、群れをなす竜や妖精でもなく、一つの事象に対しひとりしか存在しない聖人だとは。

「驚くことではあるまい? おれたちは事象に宿るものだ。その成り行きを見守ることは自然だろうよ」

 そうして引き当てたものが孤独という事象を護る聖人であったのは、皮肉だろうか。

(けれど、この機会を逃すわけにはいかないわ)

 永遠にも思えるほど長く生きる聖人の多くは、人間の生き様を眺め、また深く関わることを好むという。そのような存在に目を留められたなら、現状を変えられるかもしれない。

(下手に萎縮するんじゃなくて、私に価値があるかもしれないと、思ってもらわなくちゃ)

「……それなら、私の孤独は、あなたの娯楽になる?」

「ずいぶん大きく出たものだ」

 この雨の道で長いこと孤独死を見守ってきたであろう聖人は、嘲りの声さえ穏やかだった。

 やはり張りぼての虚栄では意味をなさないか――そう思ったのもつかの間。

「まあいい。たまの暇つぶしくらいにはなるだろう。どこへ行っても孤独だというのなら、まずはそれを見てみるか」

「どこ、へ……行くつもりなの」

「さあて……」

 愉しそうに行き先を挙げていくのを聞きながら、早まったかと思う。

 しかし、クレアリナを待つ場所はどうせ死者の間しかないのだ。今さらどこへ連れて行かれようと、これ以上に事態が悪化することはないはず。

 そう自分に言い聞かせても、恐ろしかった。

 このわずかな時間に何度、死に対する思いが変化したことか。こんなにも簡単に自分の意思が揺らぐことに、クレアリナは心底がっかりした。人間の範囲など、所詮その程度。

 ほつほつと降り続く雨はやみそうにもなく、ずっと、ずっと、この道を濡らしてきたのだろう。

「なに、雨の帳が下りているあいだのひと休みと思えばいい。おまえは雨宿りをしていたのだろう?」

 それなのにまるで根拠のない気休めを嘯くこの男は、やはり人間の理解など及ばぬところにいる生き物なのだ。

 とはいえ隙のない紳士の誘いを、誰が断れようか。

「ええそうね。この優しすぎる雨を凌げるなら……どこへだってゆくわ」

 大仰に差し出された手に、クレアリナはすがるしかなかった。あるいは、そうするしかなかったのだという言い訳を得られることに、安堵した。

 雨の帳が下りているあいだ。ほんの一幕だけ。

「おれは孤独の聖人、タゼセナッドだ」

「私はクレアリナ。ただの人間よ」

実る花クレアリナ、か。過ぎた名を付けられたものだな」

 だから破滅の道を転げたんだろう。

 気遣いのかけらもみせることなく人の名前を貶した口で、孤独の聖人――タゼセナッドはこう告げた。

「さて、悲劇か喜劇か……おまえの孤独を観せてもらおうか、お嬢さん?」

 とたん視界は暗転した。

 遠くで、ほつほつと雨の降る音だけが、聞こえている。

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