五、彼女について

 薔薇の花が咲いたのは、あの夜から十日ほど経ってからのことだった。

 からりとした風に乗って、白い花の甘い香りがやしきの中へ流れ込んでくる。立夏を過ぎて小満しょうまんを迎え、夏の気配が日に日に濃くなっていくのを感じる。窓から注ぐ日差しが眩しい。私は窓の開口を狭め、カーテンを引いた。

 あの夜――私が不可思議への劣情を告白し、それを恋慕として受容したあの夜から、私と彼女の関係はなにも変わらなかった。少なくとも私の目には、彼女は平生へいぜいの通りに見えた。よく考えればそれは当然だ。心を乱していたのは私だけだったのだ。彼女は、私の想いを否定も拒絶もせず、尊いとさえ言ってくれた。けれど、私の想いを受け入れてくれたわけではない。

 要するに、私は失恋したのである。

 失恋を自覚しても、不思議と苦しくはなかった。分不相応の恋だったのだ、叶わなくて当然である。寧ろ、以前と変わらぬ日常に安堵する気持ちの方が大きかった。それは、私にとってなによりの幸福であった。


 ⊿⊿⊿


 昼食を終えてから自室に篭っていた私は、喉の渇きを覚え水差しに手を伸ばした。しかし水差しは空だった。あと二、三時間もすれば夕食だが、それまで我慢出来るだろうか。私は少し迷って、台所へ向かうことにした。

 水差しを手に居間の扉を開けた瞬間、形容し難い悲鳴が聞こえた。声の発生源らしい台所へ駆け込むと、割烹着姿のばあやが床にへたり込んでいる。すっかり放心しているようだった。その手には、白い便箋と封筒が握られている。

「どうなさったのですか。どこかお加減でも――」

 ばあやは私を認めると、「お嬢様が」と言った。これは只事ではない。しかし、今日の不可思議には特に変わった様子はなかった。朝も昼も、美しい所作で食事をし、感想までばあやに述べていた。一体、不可思議の身になにが起こったというのか。

 ばあやはハッとしたように目を見開き、わなわなと肩を震わせた。そして、

「渕崎様!」

 私の名を呼び、よろめきながら立ち上がった。

「聞いてくださいな、渕崎様!」

 まるで溜まった鬱憤うっぷんでも爆発させるように、ばあやは声を荒らげた。なにやら腹を立てているらしい。不可思議と関係あることなのだろうか。私がなにがあったのですかと問うより早く、ばあやは捲し立てる。

「お嬢様ったら、本当に縁談を断っておしまいに! またとないご縁でしたのに、もったいないったらありませんわ! ああ……あたくしが生きている間にお嬢様の花嫁姿が見られると思っていたのに、なんということでしょう……。渕崎様、聞いていらっしゃるのですかッ!」

 ばあやはいつにも増して興奮しているようだった。ばあやには申し訳ないが、私の頭の中は不可思議の縁談のことで占められてしまった。

 彼女が、不可思議が縁談を断った? いくら酒の席での口約束とはいえ、父親――不可思議の父は帝国陸軍大佐の身分である――の決めた縁談を娘の一存で破断に出来るものだろうか。にわかには信じ難い。

「この度の縁談は、その……不可思議さんの一存でお断り出来るようなものだったのですか」

「旦那様がご友人とお約束なさったことですから、本来なら反故ほごになど出来ようはずがございません。ですが……奥様と、お相手の方のお姉様が、猛反対なさったのだそうで」

「と、いうと?」

「なんでも、そもそも奥様はこの縁談についてあまり前向きではなかったのだそうですわ。お嬢様が気乗りしないと仰るのをお知りになって、旦那様を、お――お叱りに、なったと」

「………………え?」


 聞けば、不可思議の父は入り婿なのだそうだ。地方の士族の出である不可思議の父を引き立て、現在の地位まで押し上げたのは先代である。不可思議の父は、四方堂に頭が上がらない。平素は奥向きに徹しているという不可思議の母も、今回ばかりは黙っていられなかったらしい。不可思議の母は夫を渾渾こんこんと諭したという。

 曰く、娘の意思を無視した縁談を認めるわけにはいかない。まして、酒の席の軽はずみな口約束で娘の人生を決めるなど言語道断である。文明開化から何十年経ったと思っているのか。時代錯誤も甚だしい――。

 私は不可思議の母に会ったことはないのだが、どうやらかなり先進的な女性のようだ。ばあやから聞いて得た印象とは少し乖離かいりしている。

 不可思議の母に諭されて、不可思議の父は考えを改めたのだという。

 時を同じくして、この縁談を知った先方の娘――つまり縁談相手の姉だ――もまた、この縁談に激しく異を唱えたのだそうだ。なんでも、縁談相手の姉というのは熱心な女性解放運動家らしかった。親の決めた縁談に娘が従わされるということを、他人ながら見過ごせなかったようだ。意外だったのは、縁談相手は破談に異存はないということだ。どうやら、不可思議との縁談を心から歓迎していたわけではなかったらしい。


 結局――不可思議の縁談は、白紙となった。

 ばあやは大層嘆いていたのだが、最終的には不可思議が望まぬ結婚をしないで済んだのだと納得したようだった。

 水差しに水を貰った私は、自室に戻るべく居間を通って廊下に出た。居間の扉を閉めたところで、廊下の角から少女が現れた。不可思議だ。珍しく洋装である。髪も結いている。昼食のときには薄物うすものを着ていたのに。ぱちり、目が合う。丈の長いスカートを揺らしながら、彼女がこちらへ歩いてくる。

「清一郎さん」

 美しく弧を描いた唇。甘い声で名前を呼ばれるだけで、鼓動はとくとくと加速していく。失恋したのだとわかっていても、身体反応までは抑制出来ない。平生を装って、私は少女に対峙する。彼女は私を見上げると、小さく笑った。

「そんなに身構えなくとも、無体を働いたりはしませんわ」

「う、失礼しました」

「お気になさらないで。その様子ですと、ばあやからお聞きになったのでしょう? わたくしの、縁談のこと」

「……はい」

「素直な方」

 口元に小さな手を当てて、少女は微笑む。

 これで、よかったのだろうか。きっと、よかったのだろう。意に沿わない縁談から解放されたのだ。けれど、次がないとは言い切れないことが気掛かりだった。

 不意に、不可思議はくすくすと笑う。

「清一郎さんは、本当にお優しいですね」

「え?」

「また、わたくしのことを気遣ってくださっているでしょう」

「い、いや……その」

「清一郎さんのそんな一途なところ、わたくし、好きですわ」

「な、なっ……⁉」

「本心ですからね」

 頬がじわりと熱を帯びていく。

 彼女の言葉に他意はない。ないに決まっている。だから、期待してはいけない。なのにどうして、こうも胸が高鳴る。

 耐えきれなくて、私は強引に話題を変えた。

「こ、今回の縁談は、その」

「母には感謝しないといけませんね。父は、母から強く言われたら、弱いのです」

「それは、やはり……」

 入り婿であることが関係しているのだろうか。

「うふふ。父は母にべた惚れなのですわ」

「……え?」

「わたくしの両親は、大恋愛の末に結ばれたと聞いています。意外でしょう?」

 不可思議の両親の代なら、見合い婚が主流だっただろう。ならば、随分と苦労が多かったのではないか。そう問えば、彼女は小さく頷いた。

「だからなのでしょうね、最終的に父は折れてくれました。母なんて、いいひとがあれば知らせなさい、だなんて」

 心臓が軋む。もしも彼女が恋をすることがあったなら、それこそ私はお払い箱だ。

「――ですからね、清一郎さん」

 少女は、可憐な笑みを私に向ける。


「もし、まだわたくしのことを憎からず思っていてくださるのなら、――あなたがわたくしに恋を教えてくださいましね」


 うっとりとするほどに甘い声だった。

 思いがけない言葉に、私は強い眩暈を覚えた。


 ⊿⊿⊿


 それから、どうやって庭まで出て来たのか、よく覚えていない。気が付いたら私は、邸から出て、咲き乱れる薔薇の前に立っていた。

 彼女の言葉を反芻する。

 彼女の真意がわからない。

 もし――もしも、言葉の通り、受け取ってもよいものなら、私は。

 いや、いや、自惚れてはいけない。両頬を叩いて自分をいましめる。

 薔薇の青々とした葉がそよ風に揺れ、さわさわと音を立てる。甘い香りが鼻先を掠める。それをそっと吸い込む。彼女の顔が脳裏に浮かんだ。

 この薔薇は、庚申こうしん薔薇の変種なのだそうだ。庚申薔薇は、本来紅い。それが、なんらかの理由で白い花を咲かせるようになったのだという。

 ロサ・キネンシス・ミュステリウム――この薔薇の名前だ。

 彼女と同じ意味の名前を持つこの薔薇を、より一層愛おしく思う。

 風に煽られて、はらりと花弁が舞う。そのうちの一枚が、優しく瞼に触れた。まるであの夜、この瞼に降った不可思議の唇のように。

 ――いっそ私を、あなたのものにして欲しい。

 花弁をそっと摘み、唇に押し当てる。

 どこまでもすがしい香りがした。

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彼女という名前の薔薇は白く ららしま ゆか @harminglululu

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