四、可惜夜

 どうしようもない気持ちが込み上げて、目が熱くなった。両目からこぼれる涙を、袖口で拭う。拭っても拭ってもあふれてくるから、袖口だけでは足りなくて、前腕を宛てがった。シャツの袖が濡れていく。

「擦っては駄目」

 不可思議はたもとから取り出したハンカチーフで優しく目元を拭ってくれた。それでもなお、次から次へと涙はあふれ、頬を伝う。馬鹿になった蛇口のようだ。こんな情けない自分が嫌で、それがまた涙を呼ぶ。

 少女の小さな手が私の手首を掴む。その力は、簡単に振り払えそうなほどか弱い。けれど、私にはそれが出来なかった。薄膜の張った瞳が、じっと私を見つめる。抗うことなどどうして出来よう。少女の手が、今度は私の背を撫でる。とんとんと、幼い子どもをあやすように。その仕草があまりに優しくて、だからかえってしゃくり上げてしまう。

「大丈夫よ、ゆっくりと息をして」

 彼女の声に従おうとするも、喉は痙攣したまま息が通らない。空気を求めて唇が震えるばかりだ。

「ごめんなさいね」

 不意に囁いて、彼女は私の身体をぎゅっと抱き締めた。

「ふっ、ふかし、ぎ、さ……っ?」

「泣くことを我慢しなくていいのよ。ここにはわたくししか居ません。誰にも内緒にしてあげる。それに、どんなあなたでも、わたくしは否定したりしないわ」

 柔らかな声音、あたたかな体温、甘い香り――。

 肩口に顔を埋めると、花のような香りがより強く感じられた。そうっと、息を吸う。肺が膨らむ。惜しみながら、細く、長く息を吐く。再び息を吸う。身体の中に、彼女の香りが満ちていく。

 いつの間にか、正常な呼吸が出来ていた。

 ふと、我に返る。

 今、私は、不可思議に抱き締められている。彼女の小さな身体は私の上体に密着していて、あろうことか、私の両手は縋るように彼女の背を掻き抱いていた。

 恐る恐る、彼女に回した腕を解く。彼女がゆっくりと私を解放した。そして、私の顔を覗き込むと

「よかった。もう大丈夫ね?」

 そう言って、安心したような微笑みを浮かべた。

「もっ、申し訳ありません! 失礼をお許しください」

「まあ。謝らないといけないのはわたくしの方ですわ。緊急事態とはいえ、許可も得ずに抱き締めたりしてごめんなさい。……許してくださる?」

 平身低頭詫びる私に、少女は反対に頭を下げた。

「許すも、なにも――」

 私は彼女に許しを与えられるほど、高尚な人間ではない。

 不可思議の瞳から逃れるように、私は視線を外した。唇を噛む。血の味がした。

「清一郎さん」

「は、はい」

「わたくし、あなたに嘘を吐いたりたばかったりはいたしません。信じていただけます?」

「そ、れは、勿論」

 何故、そんな当たり前のことを聞くのだろう。不可思議の真意を測りかねていると、彼女は両手で私の頬を包んだ。やんわりと、それでいて有無を言わさぬ仕草で正面を向かせる。あどけないかお。薄く微笑んだ彼女はまるで天人のように見えた。思わず見惚れてしまう。

 少女はほんの少し目を細めて、

「あなたは否定なさるのだろうけれど……あなたはとても、とても綺麗だわ」

 心臓が熱くなる。それはあっという間に全身に拡がって、うなじまでじんじんと痺れるほどだ。悪寒とはまた違う震えが、背中を走り抜ける。勘違いしてしまいそうで、恐ろしい。

「よ、……よしてください。あなたは、私の――自分のことを美化しておいでです」

「わたくしが本当のあなたのことを知らないからだと仰るのね。なら、教えてくださらない? 本当のあなたを、わたくしに見せて頂戴」

「な、そん、っ……!」

「言ったでしょう。わたくしは、どんなあなたでも否定したりはしない、と」

「う、……うぅ」

 不可思議に見つめられると、平常心ではいられなくなる。彼女のどこまでも澄んだ瞳にはすべてを見通す不思議な力がある。そう、信じてしまいたくなる。

「自分は……自分は、」

 ――抗えない。

 いとけない魔性にてられて、私は――眼前の、どこまでも無垢な少女に降伏した。


「あなたを――お慕い、申しております」


 墓の中にまで持っていかなければいけない秘密。

 それを、今、私は吐き出してしまった。

 視界が滲む。止まったはずの涙が、再びあふれる。涙腺はすっかり決壊してしまった。目尻からこぼれた雫は、頬を伝って顎の先へと流れる。拭う気にもなれない。崇高な夢を抱く不可思議に比べ、私はなんと矮小なのだろうか。その差を思うと、また涙が込み上げる。ズボンの腿の部分に染みが広がっていく。

「ごめんなさい。また意地悪をしてしまいました」

 不可思議は、こんな私をわらうでも憐れむでもなく、ただ慈しむような眼差しを向けている。華奢な手を差し伸べて、少女は私の頬を撫で、指の腹でそっと目元を拭った。

 皓々こうこうと注ぐ月の光が不可思議を照らす。それはまるで後光か光背のようだった。

「――わたくしは、」

 少女は私の頬を優しく撫でながら、薄い唇に微笑みを浮かべた。

「恋というものを知りません。恋を知らぬまま一生を終えるのだと……思っていました。だから、あなたの想いにお応えすることは、きっと叶いません。けれど」

 少女の美しい顔に影が指す。月に雲が掛かったのだ。

「わたくしは――あなたのことを、誰より愛おしく思っておりますわ。今までに出会ったどんな方より……清一郎さん、あなたをです。そして、あなたがわたくしに捧げてくださったこの想いを、一等美しく、尊いものと思うのです」

 詩歌をそらんじるように、彼女は囁いた。

 そのようなはずがない。あってはならない。私はかぶりを振る。

「いいえ、いいえ! そのようなことを仰ってはいけません! この感情は――およそ恋などとは呼べはしない、ただの……ただの浅ましい欲望に過ぎないのです!」

 私は少女の前に額突ぬかづいた。

 どうか、踏みにじって欲しい。

 二度とあなたに焦れぬように、身の程知らずの醜い劣情を。

「清一郎さん。あなたは、わたくしを愛しいと思ってくださるのでしょう? その想いのどこが浅ましいというのでしょうか。少なくとも、わたくしにとっては――尊いものに他なりませんわ」

 恐る恐る、顔を上げる。不可思議は跪く私と目線を合わせるように身を屈めて、慈愛に満ちた眼差しを向けていた。

「もしそれでも否定なさるのなら、わたくしにも考えがあります」

 不可思議は、か細い指で私のおとがいを掴み上を向かせる。薄い唇が、ゆっくりと弧を描いた。

「これ以上否定など出来ぬよう、わたくしがあなたを躾け直して差し上げます。よろしくて?」

 

 ⊿⊿⊿


 彼女は、みっともなく床に転がる私を見下ろして、ただ微笑んでいた。いつもと同じ、美しいかお。なのに今は、冷たく感じる。その視線は静かに私を責めさいなむ。

 不可思議の眼差しから逃れたい。けれどそれは叶わない。身動ぐことすら許されない。私の両手首は小さな掌によって封じられている。拘束と表すにはあまりにか弱い力で、私は床に縫い止められていた。さながら標本箱の中の虫のようだ。不安と緊張とが胸をざわめかせる。

 思わずごくりと唾を飲み込む。次の瞬間、少女は形のよい唇からくすりと笑みをこぼした。そして、問う。

「恐ろしいですか? わたくしが」

 甘い声。柔らかな表情。まっすぐに注がれる微笑みに、私は小さく首を振って応える。

「本当に? こうして――くびを絞めることだって、出来るのですよ」

 少女の細い指が喉仏に触れる。それだけでもう息が苦しい。不可思議の開かれた掌は首を覆い、指先にゆっくりと力を込めた。

 背中がじっとりと汗ばんでいく。背骨の中をなにかが這う。不可思議の視線が絡み付く。身体の奥が熱を持ち、じわりじわりと全身まで拡がっていく。

「あ、……ッ!」

 頭の芯がぼうっとする。息が苦しいはずなのに、何故だかとても心地が好い。意識が宙を漂いはじめる。唇の端から吐息が漏れる。

「う、……はぁ」

 不意に、不可思議は私の首から手を離した。空中に放り出されたようで、このときはじめて怖いと思った。咄嗟に彼女の手を掴む。少女は、満足気に笑みを濃くした。

「なんてお顔をなさっているの。こんなに目を赤くして……まるで迷子になった幼子のよう」

 不可思議は、私の両手の拘束をくと、そのまま流れるように私の頬に触れた。その仕草がこの上なく優しいから、一切を委ねてしまいたくなる。

「っ、不可思議、さん……」

「なあに?」

 小さく首を傾げる少女の、なんて清廉なことだろう。私は掛けるべきことばを見失ってしまった。

「……あなたは……わ、私の」

「はい」

 彼女の眼差しには、咎めの色など含まれていなかった。そこにあるのは、ひたすらにあたたかい、すべてを許すような微笑みだった。騒がしかった鼓動が、ゆるやかに平静を取り戻していく。

「――本当に、認めてくださるのですか」

 私の、この醜い恋心を。

 もし否定されでもしたら、私はどうなってしまうだろう。生きていかれないかもしれない。不安がみるみる膨れていく。

「まあ。最前からそう申していますのに、伝わりませんでしたか?」

 不可思議はやはりくすくすと笑って、私の自罰を一蹴した。華奢な肩口から長い髪がこぼれる。星の瞬きを集めたそれは雨粒のような光を放っていた。雲が流れ、再び月明かりが差し込む。

「わたくし、怒っているのですよ。あなたがご自分のことを卑下なさるのは、百歩譲ってよしとしましょう。内心の自由は等しく保証されるべきですからね。けれど」

 月の光を背に、少女は僅かに語気を強める。

「あなたは、わたくしの心情まで否定なった。わたくしが美しいと――尊いと思った、あなたの愛情こそを、です。たとえ清一郎さん、あなたご自身であっても、それを否定することはわたくしが許しません」

 なんて美しいのだろう。呼吸をすることされ忘れてしまいそうなほど、彼女は凛として、気高い。神々しくすら感じられた。

 私は頬に宛てがわれた小さな手に、そっと手を伸ばす。すべらかな皮膚。その甲に、掌を重ねる。節の目立たない、華奢な手だ。ただこうして重ねるだけですっぽり覆えてしまう。

「もしご自分を肯定出来ないのなら、あなたを肯定するわたくしを信じてくださいな。それとも……わたくしでは、信じるに足らないかしら?」

 おどけるように、少女は言う。けれどその瞳はどこまでもまっすぐに私を射抜く。だから私は感極まって、また目頭が熱くなった。

「あらあら。我慢しないでとは言いましたが、こうも泣き通しでは乾涸ひからびてしまいますわ」

「申し訳ありませ、……っ」

「いいのですよ。半分は、わたくしが意地悪をしたせいですからね。けれど困りました、清一郎さんが干物になってしまわれたらどうしましょう」

 不可思議は、どこか楽しげに私を見下ろす。そして、名案を思い付いたようにぱっと顔を明るくして――少女は私に覆い被さるようにゆっくりと身を屈めた。

 甘い香りが鼻先を掠める。衣擦れの音がいやに大きく聞こえる。心臓が高鳴る。彼女に鼓動が聞こえてしまいそうだ。

 視線を彷徨わせていると、ふと彼女の着物の袖が目に留まった。袖口の反対側、振りの部分から、長襦袢が覗いている。暗がりの中でも、白く染め抜かれた蜘蛛の巣の柄がはっきりと見えた。

 私はとっくにからめ取られていたのだ。

「清一郎さん」

 耳元で不可思議は囁く。甘く、とろけるような声。吐息が耳殻を撫でる。私はそれだけで、どうにかなってしまいそうだった。

 少女はくすりと笑んで、

「――口付けベーゼを、しても?」

 どこまでもあたたかい声音で尋ねた。

 ひと際大きく心臓が跳ねる。

 私は今度こそ頷いた。

 目を閉じる。

 睫毛の先が彼女の吐息で震える。

 閉じた瞼の裏側に、月の光が溶けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る