エピローグ

 あれから、煙草の箱は空のままだった。どれだけ待っても、補充されなかったし、「彼女」の姿も二度と現れることはなかった。

 ある夜、なんとなくあのセブンスターの空箱を取り出してみた。朱色の走り書きは、時間の経過とともにさらにかすれ、今ではほとんど読めない。それでも、指先でなぞれば、確かにそこに誰かが何かを遺していった痕跡だけは感じられた。

 日常は何事もなかったかのように続いている。あの日からマスクを手放せなくなってしまったが。

 世界は、失われた一つを気にもとめず、ただ前に進んでいく。自分もまた、その流れに逆らえず生きている。

 けれどふとした瞬間に、誰かの後ろ姿を見かけるたび、心がざわつく。それはあの日見た“あの人”ではないかと、あり得ない希望に一瞬だけ身体が反応する。そして、違うとわかるたびに、自分の記憶もまた、煙のように少しずつ崩れていくのを感じる。

 名前すら知らない人のことを、果たして「忘れていない」と言えるのだろうか。いや、思い出したいと願い続けている限り、それは記憶と呼べるのかもしれない。

 ベランダに出ると、夜の空気が冷たく感じた。

 あの「キキョウ」の煙草の箱は、今も変わらず机の引き出しにしまってある。

 空のままで、何も語らず、ただそこにある。

 いつかもう一度、あの箱に何かが戻る日が来るのだろうか。

 ──あるいは、もう永遠に来ないのかもしれない。

 ただ一つ決めたのは、「晦様(つごもりさま)」の正体を必ず突き止めるということだ。

 何者なのか、なぜあんなものを遺していったのか、なぜ俺だったのか──答えはどこかにあるはずだ。

 記憶が薄れていくなら、その代わりに事実を掴みにいく。願いではなく、意志で手繰り寄せる。煙が晴れるその日まで、俺は歩みを止めない。

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