第20話 たい焼きダンクの美学
今日は絵に描いたような快晴だった。
朝から眩しい光が地面を照らす。
雲ひとつない空は、どこまでも広がる青いキャンバスのようだ。
微かに風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと揺れている。
街の路地にも、清々しい空気が満ちていた。
通りの向こうでは新聞配達ドローンの音が遠ざかり、開店準備をするパン屋からは焼きたての香りがふわりと漂ってくる。
そんな朝の街角を、ソラはご機嫌な足取りで闊歩していた。
しっぽをピンと立て、小さな足でとことこ、軽やかに歩く。
誇らしげに纏った空色のベストが、光を受けてきらりと輝いていた。
「ラドリー、見て見て!」
隣を歩いていたラドリーが、小さく肩をすくめた。
「……何をだ」
「空とボクのベスト! ね、同じ色じゃない? 今日の空とぴったりだよね!」
ソラは足を止め、指差すように空を見上げた。
ベストの色は、まさに今日の空と同じ澄みきったスカイブルー。
何度も空と自分の胸元を見比べては、にやにやと満足げに笑っている。
「……気のせいだろ」
ラドリーは涼しい顔で軽く答えると、周囲の通行人の視線をやり過ごすように歩を進めた。
「気のせいじゃないって! 完璧に同化してるよ! もはやボクは、空の一部になってる!」
ソラは両手を高く挙げ、まるで空に羽ばたこうとでもするかのようにスキップする。
その愛らしい姿にすれ違う人々がちらりと目をやり、時折、微笑ましそうに目を細めた。
「……うるさい。あんまり目立つと変な連中に目をつけられるぞ」
「でもでも、今日は特別な日だもん! たい焼きの日なんだから!」
「そんな記念日、聞いたことないぞ……」
ラドリーの呆れた声にも、ソラはめげることなくしっぽを揺らし、得意げに言った。
「ボクの中では今日がたい焼きの日なの! 晴れてて、お腹もすいてて、街に出る用事もある。たい焼きを食べるしかないっていう日! つまり、たい焼き日和!」
「無理やりすぎる……」
だがラドリーは、それ以上文句を言わなかった。
ソラの背中越しに見える青空と、澄みきった歓喜の声を前にして、苦笑するしかなかったのだ。
青天白日——空色の瞳に、純白の毛並み。
ソラの姿は、まるでその言葉を体現しているかのようだった。
二人が目指したのは、商店街の一角にあるたい焼き屋「はねつき堂」。
ソラが密かに、たい焼きランクSと認定している名店だ。
パリッとした羽根付きのたい焼きに、ぎっしり詰まったあんこ。
焼き上がるたびに甘い香りが立ちのぼり、遠くからでもその存在がわかるほどだった。
「着いた~! あ、今日も焼きたてだって!」
ソラは鼻先をくんくんと動かしながら、「焼きたて」と書かれた札を見て目を輝かせた。
店内に入ると、まだ朝の時間帯とあって空いていた。
窓際のテーブル席に腰を下ろし、注文を済ませる。
ソラは「ホットミルクひとつ、椀で!」と元気よく頼み、ラドリーはコーヒーを注文した。
間もなく、ふんわりと甘い湯気を立てるたい焼きが二つ、お皿にのって運ばれてきた。
それぞれの前に飲み物も置かれる。
白い湯気の立ち上るホットミルクと、香ばしい苦みの漂うコーヒーだ。
「ここからが、今日のメインイベントです!!」
ソラは襟を正し、たい焼きを両手でそっと持ち上げた。
まるで宝物を扱うように慎重に。
そして静かにホットミルクのお椀へと、たい焼きの頭から——
「ダ———ンク!!!」
さも神聖な儀式でも始めるかのように、たい焼きをミルクに沈めた。
ラドリーはしばらくその様子を黙って見ていたが、ふと呟く。
「……それ、そんなにすごいことなのか?」
「すっごいんだよ!? もう革命的って言ってもいいくらい! この、あんこの甘さとミルクのまろやかさが——」
ソラは真っ直ぐ目を合わせ、やけに真剣な顔で続けた。
「——ふんわりと、やさしく混ざり合ってね? しかも羽根のカリカリ部分がちょっとふやけて、絶妙にしっとりカリになるの! それがいいの!」
「……しっとりカリ?」
「そう、しっとりカリ。食べてみればわかるから!」
勧められるまま、ラドリーはソラのたい焼きを受け取り、じっと見つめたあと、恐る恐るひと口。
「……」
「……どう?」
「……いや……不味くはないが……」
「美味しいって顔だよ、それ!」
「……まあ、俺は普通の食べ方が好きかな」
全否定するほどではないが、好みが分かれる食べ方だ。
とりあえず、軽く流しておく。
「『たい焼きダンク』はボクが編み出した、究極のたい焼きの食べ方なんだよ! 旧世界の人たちもドーナツをコーヒーに浸してたでしょ? だからこれはもう、文化なの! 伝統のはじまり!」
「文化な……随分とスケールが大きくなったな」
「もちろんだよ! 文化って、ちょっとした幸せから始まるんだから!」
ソラはもうひとつのたい焼きを手に取り、誇らしげに語る。
「しかもね、ちゃんと作法もあるの! まず頭からダンクして、お腹の真ん中までは餡とミルクのマリアージュを楽しむの。それでね、そこから先は普通に食べて皮の香ばしさを味わうの。最後は尻尾のカリカリ部分でフィニッシュ! これが『たい焼きダンクの流儀』! 美学だよ!」
力強く言い切ると、満足げな顔で再びたい焼きをお椀に沈めた。
その仕草を見ていたラドリーは、小さく息をついて呟いた。
「……もはや儀式だな」
たい焼きをふやかして大喜びしている猫型ロボット。
ふざけているようで、どこか心が緩む時間。
その中心にいるのは、空色のベストを着た、空っぽで——でも楽しいことでいっぱいのソラだった。
「だが、あんこが熱いから火傷にも注意が必要だし。ドーナツダンクより文化として定着するのは難しいんじゃないか? そもそもお前、猫舌じゃないのかよ」
「ボク、防御力特化型だからへーき!」
「……そうか」
ラドリーは少し呆れながらも、黙ってコーヒーを口に運ぶ。
褒められた食べ方ではないが、本人が真剣なら、それでいい気もした。
「……帰りに、もうひとつ買ってくか?」
「ほんと!? やったーっ!!」
ソラは満面の笑みでたい焼きを見つめ、うっとりと呟いた。
「ふふふ……文化、広めなきゃだね」
「……たい焼き一つで幸せになれるなら、まあ、悪くない文化かもな」
「うん!」
たい焼きでお腹も心も満たされたソラの胸には、あんこのように甘くてあたたかい、小さな幸せがぽかぽかと灯っていた。
たい焼きは沈み、ソラの心は浮かぶ。
今日もこの世界は、ちょっと不思議で、とびきり優しい色に満ちている。
こうして「たい焼きダンク文化」の第一歩が、世界の片隅でそっと歩き出した。
その記念すべき瞬間に立ち会ったラドリーは、最後まで小さく首を傾げていたのだった。
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