第6話 “運命”なんて、信じたくなかった

サトシの口から「婚約者がいる」と聞いてから、エミリーはなぜか寝つけなかった。


リリーはホテルのベッドでスヤスヤと眠っている。

でもエミリーは、10年前に見たサトシのあの静かな瞳を思い出していた。


あの瞳は――今も変わらないようで、でも、少し違っていた。


翌日、サトシと二人だけでランチをすることになった。

リリーには、ホテルのキッズクラブを予約した。あの子もきっと、少し疲れてる。


代々木公園の近くの、小さなイタリアンカフェ。


テラス席で風を感じながら、サトシは静かに語り始めた。


「会社、辞めようと思ってたんだ」


「え?」


「入社した時は、やりたいこともあった。でも、数年後に突然“社長の娘と付き合ってくれないか”って言われて。

“君を評価してるんだ”とか、“この先の役員コースに乗れる”とか言われてさ。……断れなかったんだ」


「じゃあ、愛してるわけじゃないの?」


「……わからない。彼女はいい子だよ。気を遣ってくれるし、家族とも仲良くしてくれてる。でも、それが恋なのかどうか……」


「でも婚約したんでしょ?」


サトシはコーヒーを一口すする。そして、ぼそっと言った。


「気がついたら、婚約してた。向こうの家族と食事をして、指輪を渡されて、写真撮られて、SNSで“おめでとう”が飛び交って……」


「逃げられなかったの?」


「逃げなかったのは、俺だよ。……日本じゃさ、空気を読まないと生きづらいんだ」


風が、二人の間を吹き抜けた。


エミリーは言葉を飲み込むのに時間がかかった。

でも、ようやく出た言葉は、まるで10年前の少女に戻ったみたいだった。


「サトシくん、10年前も、そんなに我慢してたの?」


サトシは目を伏せ、微笑むような表情で、首を小さく横に振った。


「10年前は、自由だったよ。君と一緒にいた時だけは、周りの目なんて気にならなかった。コスプレだって、秋葉原だって、全部新鮮で楽しかった。……君が帰ったあとも、よく思い出してたよ。ロンドンの子って、なんか、風みたいだったなって」


エミリーの胸が熱くなる。


(あの時間は、私だけの記憶じゃなかったんだ……)


でも、その優しさが、今は逆に苦しかった。


「じゃあ、今の婚約も、仕方ないから受け入れてるってこと? “運命”だからって?」


サトシは答えなかった。

代わりに、風に揺れる街路樹の音だけが、静かに響いていた。


そしてその日の夜。


エミリーはホテルの部屋で、リリーの寝顔を見つめながら、1通のメッセージをサトシに送った。


「サトシくん、もし“運命”を変えたいと思ったら、私はここにいるよ。」


送信ボタンを押してから、しばらくスマホを見つめていた。


返信は……こなかった。




次回:第7話「“その結婚、間違ってるよ”」

すれ違う二人。だけど、言わなきゃいけない。たとえ傷つけても。

10年前、何も言えなかった自分を、もう繰り返さない――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る