いれもの【ホラー×AI書評】
ここプロ
いれもの
私にはもうすぐ一歳になる娘がいる。
元夫との間に生まれた子供だ。夫はこの子が生まれてすぐ、女を作って出て行った。育児のストレスで荒れる私が嫌になったらしい。
そう言われても仕方のないくらい荒れていたのは確かだ。当時の私にはそれほど余裕がなかった。でも、娘を愛していたのは本当だった。だからこそうまくできない自分に苛立っていたのだと思う。
しかし別れてからは少し事情が変わった。夫へ期待する余地がなくなった分、吹っ切れた私はいい意味で「ほどほど」の育児をするようになった。生後半年くらいから、娘を見て笑顔になれる自分が増えた。娘もよく笑ってくれるようになったと思う。
そうは言っても私はシングルマザー。お金の不安があった。娘を実家に預けてパートに出ることはできたが、それでも節約は欠かせない。
そういった事情で、私はフリマアプリをよく利用していた。そこで育児用品を買うのだ。小さい子供のおもちゃや育児グッズは使える期間が限られるため、出品数が豊富で値段も安い。お金がないことを理由に、娘に不自由な思いをさせたくなかった。
娘を寝かしつけた後——あの日の私も、フリマアプリで新規の出品を覗いていた。
そんな中で一つの商品が目にとまった。
おもちゃと育児用品のセットだった。
絵本やおもちゃ、ぬいぐるみなどはちょうど娘くらいの歳の子が喜びそうなものが並んでいた。付属の抱っこ紐も使いやすそうで、写真を見る限りじゃ状態もよく思える。
おまけに値段はびっくりするくらい安かった。送料まで考えたら、リサイクルショップに売った方がマシだと思えるくらいの値段だ。
注意書きの欄にも、故障や汚れがあるとかの記載はない。
“大切に使ってください”
そんな一言が書かれているだけだ。
私は即決で購入ボタンを押した。出品者とのやり取りは全くなく、三日ほどして荷物がうちに届いた。
ダンボールを開けると、丁寧に梱包されたおもちゃやぬいぐるみが出てきた。フリマサイトで見た写真そのものの綺麗な状態で、子供が遊び倒した後とは思えない。
抱っこ紐も使った痕跡がほとんどなく、新品同様の状態に見えた。しかも発売から一年も経っていない最新のモデルだ。形や腰に当てるサポーターはふわふわで、重さが分散されるように設計されている。
こんなにいいものがなぜあんな安く出品されていたのか。
その時の私は疑問に思わず、ただラッキーとしか思っていなかった。
フリマアプリで買ったものはどれも娘に好評だったが、特に喜んだのがぬいぐるみだった。
ドッジボールくらいの大きさのクマのぬいぐるみ。日中はいつもぬいぐるみを抱いていて、ベビーベッドにあげるときも一緒でないと機嫌が悪かった。
お出かけのときも娘はぬいぐるみを持ち歩いた。これがあると抱っこ紐の中でよく眠ってくれるため、私はぬいぐるみに感謝した。育児のパートナーができたと思ったくらいだ。「飽きた時が怖いなあ」って呟いたことさえある。
けど予想に反して、娘は一才を迎えてもぬいぐるみを手放さなかった。絵本やおもちゃは成長につれて触らなくなったのに、このぬいぐるみだけは特別なようだった。時々声をかけたりなんかして、まるで兄弟のように接しているように見えた。
そんな娘に異変が起きたのは2ヶ月ほど経った時のことだ。
ベッドで寝ていた娘が突然「まま、ままぁ……」と泣き出したのだ。
仮眠を取っていた私は飛び起きてベビーベッドに向かった。
いつもなら私がきたら泣き止むのだが、この日は様子がおかしかった。
私の顔を見た娘が、「ままぁ……!」と言って余計に泣き出したのだ。
「はいはい、ママですよー」と明るく言ってみるがまるで効果がない。それどころか余計にひどく泣く娘。おむつに異常はなく、熱もない。
大好きなたまごボーロを持たせるも、泣きじゃくる娘はそれを投げてしまい、壁に当たって砕けた。
そのうち娘は泣き疲れて眠ってしまった。
次に起きた時は何事もなかったが、そんなことが週に何回か起きるようになった。
正直……私はいつ、あの「ままぁ」が始まるんじゃないかと不安に思うようになった。
あの状態になった娘はあやしてもまるで効果がない。泣き疲れてくれるまで付き合うほかにできることがない状態は、心身にかなりくるものがあった。娘が寝た後、鏡を見た自分の目に隈ができていたのに気づいたことがある。
これがイヤイヤ期というやつだろうか。そうなら早く終わってほしい。
私の期待に反して、娘が泣き出す頻度はどんどん増えていく。それにつれて私も余裕がなくなり、感情的な言葉を吐き出してきまうことも増えた。
そんな状況にあった、ある日の深夜のこと。
パートと育児でクタクタになった私は、娘が寝付くのを待たずにソファに体を預けていた。
目の奥と頭が重い。少しでいいから寝かせて。そんな気持ちだった。
しかしベッドの中の娘は許してくれず、いつものように「ままぁ……」とぐずりだす。
私は拳をぎゅっと握った。それから表情を作って「ママですよ」と言ってベッドを覗き込む。
私に向ける娘の顔は怯えていた。
そして震える声で
「ちがう、ちがう」
と言って首を振った。
——その時、私の中の何かが壊れたのかもしれない。
ガラスに映る私の顔は涙を流しながら笑っていた。
私は声にならない叫びをあげて、床にうずくまった。すると、その日はたまたまベッドに乗せ忘れたぬいぐるみが目に入った。
娘が大事にしているぬいぐるみ。育児を助けてくれたパートナー。
それがなぜだか憎らしく見えて、私はぬいぐるみを壁に投げつけてしまった。
叩きつけられたぬいぐるみが床に落ちる。その時、カツン、カツン……と何かが落ちる音がした。
床に落ちたのはぬいぐるみの目玉だった。透明に透き通った球体は冷たく、水晶のようだった。
それを拾って冷静になった私は「ごめん……」と呟いて、うつ伏せになったぬいぐるみを拾い上げた。
クマの右目が取れている。そして。
その穴から、人間の髪の毛のようなものがこぼれ出ていた。
あの後のことは正直あいまいだ。
私は絶叫し、娘は酷く泣き、近所の人が駆けつけてアパートのドアを叩いた。実家から両親が来て大騒ぎをし、そのまま娘と実家へ。泣き腫らしたまま朝を迎えた……確かそんな流れだったと思う。
ぬいぐるみはアパートに残してきており、朝になると悪い夢でも見たのではないかと期待した。しかし迎えにきた両親もぬいぐるみは見ており、あれは確かに髪の毛だったと言った。
私はたまに使っていたSNSの育児掲示板にこのことを相談した。ノイローゼのことはともかく、髪の毛のことは「気持ち悪い話をしないで」「その話はカテゴリ違い」と多くのユーザーから責められた。
そんな中で“Hoikusi”さんだけが私の話にちゃんと反応してくれた。Hoikusiさんは子供はいないみたいだけど、その名の通り現役の保育士をしているらしく、掲示板でも前向きで明るいコメントをよく返してくれる人だ。フォロワーもたくさんついている。
そんな彼女(多分女性だと思う)だけは私の話を親身になって聞いてくれた。そして「専門家に相談した方がいいかもですね」と、知り合いの神社を紹介してくれた。
私は藁にもすがる思いでその神社に連絡を取った。
電話に出た若い男の神主さんは、事情を聞くと「神社に来られますか? なるべく早いうちに」と落ち着いた声で言った。
そのことを両親に相談すると、父はすぐに職場へ休暇の旨を伝えた。そしてその日のうちに他県にある神社まで車を運転してくれた。
私と、抱っこ紐の中で眠る娘は神社の広間に通された。その後ろに段ボールを抱えた父が続く。
中にあるのは例のぬいぐるみだ。解決のために現物が必要になるかもしれないと電話口で言われ、父がアパートに寄って持ってきてくれたものだ。
私たちが座布団に腰を下ろすと、お茶を運んできた巫女さんと入れ替わるように若い神主さんが入ってきた。
神主さんは笑顔で挨拶をしたが、抱っこ紐の中の娘を見た瞬間、少しだけ眉を顰めたのに気がついてしまった。
神主さんはまずダンボールを開け、中のぬいぐるみを手に取った。そして髪の毛を観察するように触れると、今度は外れた目玉を光に透かした。
何かを確信したように「なるほど」と呟く神主さん。そして抱っこ紐の中にいる娘を一目見て、
「今日、すぐに来ていただいたのは幸いでした。
まだ間に合います」
と、まっすぐ私の目を見て言った。
私を安心させるためだろう。「大丈夫です」ともう一度念を押した上で、神主さんは娘にかかっている“呪い”の性質について話した。
簡潔に言えば、この呪いは“生きている人間に死者の魂を乗り移らせる呪い“だった。
死者の残した体の一部を、なるべく長い時間、乗り移らせたい対象に所持させる。純度の高い水晶玉を一緒にしておくと、その効果を大幅に増幅させることができる。ネットなどでも、オカルトの類として記載を見かける呪いらしい。
降霊術に近いが、憑依される者(依代)の同意を得ずに可能であることから“呪い”と分類されている。その分、長い時間と相当に強い念が必要で、成功するのは相当まれなことだという。
ぬいぐるみの中の髪の毛は細く、おそらく小さな子供の髪の毛だろうと神主さんは言った。
ぬいぐるみを出品した誰かは、亡くなった我が子の魂を現世に甦らそうと、この呪いにすがったのだろう。
狂気にも近い願いを込めて。
「そ、それで娘は元に戻るんですか!?」
神主さんの説明を遮るように私は叫んだ。
あの夜、娘はママである私を見て「ちがう」と泣いた。
それはもう、亡くなった子供の魂に乗り移られているということじゃないのか。
神主さんは「手元に来て2ヶ月ならば、娘さんは元に戻せます」と断言した。ただし長く持てば持つほど解呪は困難になる。すぐ来ていただいたのが幸いだと言ったのはそういう意味だということだった。
泣きそうな私に、神主さんはもう一度「大丈夫です」と穏やかに微笑んだ。
私は全身の力が抜けたように「ありがとうございます」と力のないお礼を言った。
——きっとこのぬいぐるみを出品したお母さんは、幼くして亡くなった我が子のことを諦められず、こんなことをしたのだろう。その気持ちはわからないでもない。
けど私だって娘が大事だ。同情はしても許すことはできない。
私はフリマアプリの取引アカウントに目を落とした。
ぬいぐるみを出品したアカウントはあれから何も取引していない。
今も呪いが成就するのを待っているのだろうか。そう考えると腹が立つ。
仮に他人の娘に我が子の魂を入れたところで、自分が一緒に暮らせるわけじゃないのに。
「あーあ。でもよく確認もせず、安物の育児セットになって飛びつくもんじゃないですね」
私は独り言のつもりでそんなことを言った。すると神主さんはダンボールにぬいぐるみを戻そうとする手をピタッと止めて
「育児……セット? ぬいぐるみだけではなかったのですか」
と尋ねた。
「え、あ、はい。他にも絵本とかおもちゃがありました。
いつも使ってるこの抱っこ紐もそうで……」
……抱っこ紐?
神主さんと私の声が重なった。その瞬間、神主さんは「ハサミを持ってきてください!」と巫女さんを呼んだ。
手渡されたハサミで、ふわふわした肩パッドを切り裂く神主さん。
布の裂け目から、カツン、と音を立てて小さな水晶玉が床に転がった。
追いかけるようにしてこぼれ出たのは、痛んだ茶色の長い髪の毛だった。
ぬいぐるみからは赤ちゃんの髪の毛。
私が使ってる抱っこ紐から出てきた髪の毛は、おそらくその母親のもの?
——娘が「ちがう」と泣いたあの夜、私は。
ガラスに映った私の顔は……
涙を流しながら笑っていた
頭を抱えて震える私に、神主さんは静かに深呼吸を挟んでこう言った。
「今すぐお祓いに取りかかりましょう。
お母さん、あなたもです」
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