第16話 ミイラとモロヘイヤ

 ファロス灯台のてっぺんは、小ぢんまりとした空間だった。


 石畳の床と壁。四方に小窓が開けられ、地中海とアレクサンドリアの赤レンガの街並みが拝める。交差する大街道、豆粒サイズの帆船に荷馬車の群れ。


 和やかな潮風が通り抜けて、雲と一緒に鳥たちが上空で飛んでいる。


「ようこそ灯台の頂上へ」


 ボワッ。


 炎が燃える。火の粉とすすが周囲をかすめる。


 灯台の明かり。火の祭壇にゆらりと浮かぶシルエット。黒いマント。ラーリよりやや高い背丈。無花果いちじくのような丸っとした頭部。顔面はフードの中に隠れ、暗闇から獰猛どうもうそうなだけが光っている。


 ネフティスという男は、この世のものとは思えぬ雰囲気があった。地獄の底から這いあがってきた、死の神アヌビスの化身。そんな表現がぴったり来る。


「あなたですね!」

 ラーリが珍しく大声を上げた。

「窃盗じゃないですか! わたしたちの工房から盗った宝石を返してください!」


「ときに──」

 たくさん宝石がついた腕輪。その腕が二人に向けられる。金属同士のすれる音が響く。


「この国の女王陛下とは物好きで、まるで男に色目を向けるかのように孔雀くじゃくいしを塗りたくる。実に滑稽こっけい。そう思わんかね」


 まるで謎掛けだ。


 ネフティスは何度か頷き、つかつかと明かりの周囲を回り始めた。


「この世界はエジプトの民のもの。ギリシャより来られし偽の女王は、我らの主敵にあって、倒すべき存在」


 ラーリが冷や汗を垂らす。


(マキモイだわ!)

 ラーリの後ろでカミラが小さく叫んだ。


(まあキモイ?)

(違う! μάχιμοιマキモイ! 王朝の転覆をはかる秘密結社よ!)

(テロ組織ってことですか)

 政治に疎いラーリは、首をかしげる。


(ラーリ、あなた中部出身でしょ。これくらい知っておきなさいよ。

 マキモイはエジプトの理想を掲げる政治グループ。多くは平和な人たちだけど、ごく一部の熱狂的なマキモイが、アレクサンドリアで暴動を起こすって聞くわ)

(簡単に言うと、話が通じないんですね)


「でも、これで一つ謎が解けたわね」

 珍しくカミラが確信めいて言った。

「灯台に来いと言ってみたり、職人たちから宝石を盗んでみたり。どんな手癖の悪い無頼漢ぶらいかんかと思ってみれば、暗闇の中でしか身動きの取れない、ただの斥候せっこうじゃない。くすくす」


 パーン!


「カミラ!」


 ネフティスがカミラをぶった。彼女が勢いよく床に倒れる。頬が赤く染まる。

「何するんですか! カミラはわたしと同じ染料職人です! 政治と何のかかわりがあるって言うんです!」


「お口が過ぎたようだな。ギリシャの小娘など、我々からしてみれば敵同然。今すぐ首を切り落としてもいいんだぞ」

 懐から、長く光る刃がスラリと伸びる。

 金髪の髪が無理やり引き上げられる。白くて細い首に、ナイフがう。


「……ラーリ」

 カミラの蚊の鳴く声。震え声。さっきまでの威勢はどこにもない。瞳に透明の液体が溢れる。


「あなた方の目的は何ですか!」

「アレクサンドリアの混乱。エジプトの奪還。エジプトの誇りは色にあり。神の力と守護は壁画の色彩に宿る」


(ああ──)

 だんだんと分かってきた、とラーリは思った。


「つまり、すべては革命を成功させるため、アレクサンドリアの染料師たちを探し出して殺し、この街から色をなくすってことですね!

 カミラを放してください! あなた方は誤解しています。染料は魔術じゃない。ましてや、染料師は魔女ではありません!

 この街から色をなくしたところで、あなたがたの革命は成功しませんよ!」


「成功は神次第。我々は神の器なり」


「じゃあ、どうやったら返してくれるんです?」


「──さて」

 ネフティスは含み笑いをする。カミラの首を掴んだまま、上着の裾から袋に入った、青い砂を取り出した。袋は二つ。袋が床に広げられる。

 地中海より緑に寄り、モロヘイヤの葉より空に近い色。さらりとした粒状。


「宝石の粉だ」

 ネフティスは低い声で言う。


「天が貴様を生かすとき貴様は生き、天が貴様の魂をとるとき、貴様の息はとだえる」


「挑戦状ってことですか」


「無論。一方はガラスの粉。一方は孔雀くじゃくいし。どちらか一方だけを飲み干し、見事生命をつなぎとめていれば、貴様の勝ちとしよう」


「ラーリ、どういうこと?」

 カミラが震え声で訊ねる。


 訊ねられた彼女。これまでで最も深く頷いた。

 肩掛けのケープが跳ね上がる 風圧で炎がゆらめく。空気がかき混ぜられる。


 ラーリは深色の瞳をしっかりと向け、敵に向かって言い切った。


「よくわかりました。〝友達を返してほしくば命をかけろ〟そういう意味ですね。いいでしょう。その挑戦、受けて立ちますよ!」


「えっ? なに?」

 狼狽する令嬢に、ド田舎染料師は笑顔で言った。

「覚えておいてくださいカミラ。孔雀石は猛毒です。口に含めば最後、その人の命をとる」


「うえぇえ!?」


「でも安心してください。私が死んでも、先に冥界めいかいの門で待っててあげますから。あと、わたしのしかばねはできるだけミイラにしてほしいです。マスクに変な似顔絵を描かないでくださいよ。約束ですからね」


「ラーリ……」


 まるでお別れの言葉みたいじゃないか。

 ライバルの染料師がいなくなるなんて、せいせいする。

 今まで通り、わたくしがエジプト一の染料師。元に戻るだけ。

 何を気にする必要があるの。

 こんなド田舎のヘタレ職人なんて、


 ヘタレ職人なんて──


「うう……」

 カミラが──


 泣いた。


 泣きながら彼女は叫ぶ。

「変な似顔絵を描くわよ! 絶対に描くから! それが嫌なら、ラーリ、こんな男に負けないで! 勝ちなさい!」


 ラーリの笑み。

 彼女は短い黒髪を揺らし、自信満々に親指を立てた。 

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