第2話 リライトリライト異界
「……あれ?」
上野の地図では、袋小路に幽霊がいたということになっている。一筆書きの五芒星はいかにも幽霊とは縁遠そうなのんきさだ。手書きの星が鎮座している座標は、先ほど電話までして確認した店の先だったはず。だというのに、該当箇所は袋小路になどなっていなかった。
民家の建ち並ぶ狭い路地を目の前にして、俺は呆然と立ち尽くす。
(間違えたか?)
なにせ初めてきた場所だ。
不安になって来た道を戻り、書店の看板を確かめるため顔をあげた。
頭上の斜め上に、先ほど同様しっかりと看板がついている。
ついては、いるのだが。
「……は?」
どうにも違和感が拭えない文字が看板の真ん中に記されていた。
一瞬異国の文字かなにかの呪文かと思ったのだが、妙に見覚えがある。
これは……
「鏡、文字……?」
文字を左右反対にするあれだ。書くのは難しいし一瞬面食らうが、読めないわけではない。この看板は縦書きだから、横書きよりは読み辛いが、所詮一瞬の違和感だ。
しかし文字が妙に見えるってのは脳の障害としてよく聞くから、さっきとは別の不安が俺を襲った。
字が読めなくなるのってなんだっけ。脳梗塞? 脳卒中だったか?
っていうかそういう脳疾患にかかった場合、鏡文字に見えるケースってあったか?
「なんだ……? どうなってんだ……?」
すぐ近くに個人経営の電器店がある。あそこは輸入雑貨屋だったはずだ。電器店は、町の反対側を示す看板が駅前にかかっていたのを覚えている。
(反対側……鏡文字……左右反転……?)
脳みそが荒唐無稽な予測を弾き出すが、確かめる術はない。上野の地図は目的地と駅からの道順のみが記された、どこに出しても恥ずかしくないほどのポンコツ地図だからだ。町の反対側がどうなってるかなんて俺にはわかるはずもない。
戸惑う俺を置き去りにして、電器屋の店頭に並ぶテレビはやたらとテンションが高い。テレビショッピングだか店頭商品の紹介だかわからないが、エアコンの宣伝文句を高らかに読み上げているらしかった。
「!たしまり取ち勝を学語いなた満に準基勝優準会大てしと柱信電たれらめ認に機売販動自りおてれさ縮短に子勢の来従は力磁費消 !すましくつした満で子原な潔清を部深最ンコアエ !くらくらもれ入手おで場輪駐ータルィフ動自」
「何言ってんのかわっかんねぇよ……!」
頭がおかしくなりそうだ。
聞いたことのある言葉の羅列のようでいて、座りの悪い音の羅列が脳みそを不快感で満たす。音まで反転してやがるらしい性格の悪さに辟易してしまった。
「くそったれが……気色悪ぃことしやがって……!」
周囲を見まわし、害になりそうなものがないか確認する。
幽霊がらみかどうかはまだ断定できないが、これは明らかに異常だ。
そう考えると、この町に降りた時から俺は罠にかかっていたのだろう。
人に会わないにも関わらず溢れ出していた人の気配は、チョウチンアンコウのアカリと同じ、獲物を誘い込む擬似餌だったのだ。
「ナメたマネしてくれるじゃねぇか……!」
舌打ちしながらポケットへ突っ込んだスマホに手をかける。誰かに連絡したほうがよさそうだ。
『ごん゛……ごん゛……』
声が聞こえた途端、全身の毛が逆立つような錯覚に陥った。
鼻腔を突き抜ける鉄の臭い。実家で食わされた刺身を思い起こさせる生臭さがあたりに立ち込める。
否応なく死を連想させる真っ赤な臭気とともに、水の中で無理やりしゃべっているような声がここにきて久方ぶりのマトモな日本語で俺の鼓膜を震わせていた。
『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』
「は……」
ゴボゴボ、ゴボゴボと、空気が割れるような音が言葉の端々に入っている。
原因は喉に詰まった血だろう。ひどく痰が絡んでいるかのような不快な声。
『ごん゛に゛ぢわ゛、ごん゛に゛ぢわ゛ぁ゛あ゛ァ゛ァ゛……』
それを発しているのは、真っ赤な肉の塊だった。
肉塊ではあるが、人の形をしている。きちんと人のシルエットを保った、真っ赤な肉。皮を剥ぎ取られたか、あるいは――体を、裏返されたかのような。
どうしてそんな姿でしゃべれているのか理解に苦しむ。
『だい゛、だい゛じょ゛ぅ゛う゛ぶ、ぶ、でじゅ゛、があ゛? う゛ぢ、ぢ、う゛ぢぃ゛、に゛ぃ゛、ぎま゛、ぎま゛ぁ゛じゅ゛がぁ゛?』
ただ、肉の塊というのも十分異常なのだが、それよりも見過ごせない点があった。
皮を剥かれたにしろ体を裏返したにしろ、人のシルエットを保つならば当然保っていなければならない、パーツの条件。
目が二つに鼻と口が一つずつ……そういう常識的な配置が、この肉塊にはなされていないのだ。
『う゛ぢ、う゛ぢ、う゛ぢぃ゛、に゛ぃ゛い゛ぃ゛? ぎま゛、じゅ゛ぅ゛う゛がぁ゛あ゛?』
ガチガチと歯を打ち鳴らす音が響く。合間に血泡が溢れ出て、地面を汚す。ゴボゴボと空気の割れる音がする。
全て口からだ。口以外の動きはない。
だって、それの“顔”に当たるべき部分には、口しかなかった。
頭部いっぱいに広がる、縦向きの口。
そこに、やっぱり縦向きに人間のような歯が並んでいる。喋る度に血を撒き散らし、ゴボゴボと不愉快な音をかきならす不気味な口は、ゲームかなにかに出てくる人食いクリーチャーのようだ。
「は……はっ……!」
言葉が出ない。全身から嫌な汗が噴き出て、俺の目は腐肉から一瞬たりとも反らせなくなってしまった。
霊と相対した時のような、鳥肌の立つ感覚が無い。
こいつは幽霊じゃない。
幽霊じゃないなら、なんだ?
地図とは違う道も鏡文字も逆さまの音声も、この化け物も、全てが俺の知る常識から逸脱している。どう対処したらいいのか、いくら考えても答えが出ない。
そもそもこいつはどうしてこんな下手くそな発音で俺に話しかけてきた?
『う゛ぢ、う゛ぢ、う゛ぢぃ゛、に゛ぃ゛い゛ぃ゛? ぎま゛、じゅ゛ぅ゛う゛がぁ゛あ゛?』
もう一度不気味な声で喉をゴロゴロ鳴らし、化け物が歯を打ち鳴らした。
腐肉が突然上半身を折り曲げ、顔を俺に勢いよく近づけてくる。
血みどろの臭気が気持ち悪くて一歩引いた瞬間、俺の顔があったあたりで、ガチンをまた化け物が歯を打ち鳴らした。
「――っ……!」
俺が、俺の顔があった場所に化け物の歯がある。
なにも考えず突っ立ってたら、俺は今頃化け物に顔を食われていただろう。
「な、なんだテメェ……! な、なに考えて……!」
虚勢を張る声が震える。完全にキャパオーバーだ。マジで人食いクリーチャーだってのか?
冗談じゃねぇぞ、そんなB級ホラー展開、上野のおすすめ映画だけで十分だっつーの。
『お゛ばな゛じ、じま゛じょ゛、お゛ば、ば、な゛、じぃ゛い゛ぃ゛い゛ぃ゛……!』
また、化け物が歯を打ち鳴らす。そうして、鉄の臭気をまき散らしながら、一歩こちらに近づいてきた。
全身に鳥肌が立つものの、これは幽霊がいるからじゃない。
純粋に、生命の危機を感じた、本能の警鐘だ。
「クソがっ!」
俺は咄嗟に近くの植木鉢を引っ掴んで、そいつに思い切り投げつけていた。
「その見た目でナンパ成功するわけねぇだろキモいんだよ!」
こいつは幽霊じゃない。幽霊じゃないなら、撃退方法が解らない。手近なもので反撃したものの、有効かどうかは未知数だった。
これで植木鉢が素通りしてくれれば、俺がわからないだけで実は幽霊ってことになるんだが――
バリンッ!
甲高い音をたてて植木鉢が割れる。
やはり幽霊じゃない。実体があるのだ。
実体があるなら余計に――どうしていいのか、わからなくなる。
唯一の救いは、俺の攻撃が化け物に利いた事だった。
『あ゛ぁ゛ あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛!』
人のシルエットを保っているだけあって頭は急所だったらしく、口だけ野郎は無様な悲鳴をあげてその場に転がった。デカい口から血反吐を吐き出し、のたうち回っている。
植木鉢で攻撃できてよかった。
震える足を無理矢理動かし、精一杯の虚勢を張る。
「そこでのたうちまわって死ねクソ野郎が」
捨て台詞を残して駅の方向へ走る。走ろうとした。
俺の足を、化け物が掴みやがったのだ。
『ま゛っ゛でぇ゛ぇ゛え゛! ま゛っ゛でぐだざぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛い゛! ま゛っ゛でぐだざぁ゛あ゛!だずげでぐだざぁ゛あ゛ぁ゛!』
「――っ……! きっ、たねぇな……! 触るんじゃねぇよ!」
俺の声は、半分悲鳴に近かったと思う。
幽霊なら祓をしておしまいだ。ケンカを売ってくるチンピラなら殴っておしまいだ。
だけど実体があって、幽霊でもないクリーチャーに対してどうしたらいいのかなんてわかりっこない。
血でベトベトになった手が靴も靴下も汚していく。気持ち悪い。それ以上に、こいつと同じ空間に一瞬たりともいたくない。視界にこの不条理な化け物を納めていたくない。
俺は無我夢中でもう一方の足を振り回し、化け物の足を蹴りつけた。
ガスッ、ガスッ、と肉を蹴る感触が足に伝わる度、鉄の臭気をまとう赤が周囲に飛び散り、地面に倒れた腐肉が波打つ。
またいつ歯を打ち鳴らして俺に食いついてくるのかわかったものじゃない。
口を開ける暇を与えないよう、ひたすら化け物を蹴り続けた。
『だずっ! げでっ! お゛ば、お゛ばな゛じじま゛じょ゛っ゛、お゛ばな゛ぁ゛じぃ゛い゛ぃ゛!』
「離せっ! 離せよっ! クソっ! 気持ち悪ぃなっ! クソっ!」
口だけの顔面を蹴り付けると、歯がガチリと大きな音を立てて噛み合う。
口の周りはだめだ。足に食いつかれたら逃げられない。
攻撃を頭頂部に限定し直す。こんな訳のわからない空間で、訳のわからない化け物に食われて死ぬなんて、冗談じゃねぇ。
「くそっ、くそっ! くそっ! くそっ!」
ただただ必死だった。人の形をした肉が、ベコベコにへこんでいく。頭の形が歪み、口から垂れ流す血の量が多くなっていく。
手の力が弱まってきて、足を掴む手をもう少しで振りほどけそうだ。
まるで、死ぬまで人を蹴っているような感覚に陥る。気分が悪い。鉄の臭いが気持ち悪い。死にたくない。食われたくない。
――食われて死ぬのは、ゴメンだ。
「離せよ化け物!」
『あ゛ぁ゛ あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛!』
ごぼん、と低くて腹に響く音がして、腐肉が大きく痙攣する。
俺は明確な殺意を持って、もう一度同じ位置に足を思い切り振り下ろした。
『ぁ゛っ』
手応えがさっきまでと違う。
間抜けな空気の抜ける音と共に、手が足から離れる。ぐったりと弛緩した肉体はまさに死体だ。実体のある、生き物が死んだ手応え。初めて感じたそれが、全身に纏わり付いている。
「クソが、手間かけさせやがって」
声は、震えていた。
それでも立ち止まるわけにはいかないから、今度こそ捨て台詞を残して、駅へと走る。
早くここから逃げなければ。
幽霊じゃない化け物がいる。こんなのは知らない。どうしていいか解らない。
一刻も早く、よく知る日常に帰りたい。
逸る気持ちが内臓をかき乱して、吐いてしまいそうだ。吐いたら足が止まってしまうから、吐くわけにはいかない。
早く逃げなければ。
――けれど、まあ、そう上手くはいかないのが、世の常というものだ。
ウ゛ゥウゥウ゛ゥウ゛ゥ゛ウゥウゥウゥウゥウゥウ゛ゥウ゛ゥ゛ウゥウ゛ゥウ゛ゥウ゛ゥ゛ウ゛ゥ゛ウゥウ゛ゥウ゛ゥウゥ!
空気を震わせ、耳を劈く、甲高く音割れした……おそらく、警報。空襲警報、と、聞いたこともないのに脳裏に浮かんだ。
命の危険があると思わせる、不穏な音。
ところどころ水中で無理矢理鳴らしているような、痰が絡まるような音が混じっていて、余計に不気味だった。
「は」
思わず口から音が漏れる。
蹴り潰した腐肉はピクリとも動かないのに、どこからともなく、ビチャビチャと血の垂れる音がした。
鉄の臭気が強くなる。
『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』
『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』
『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』
『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』
『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』
ありとあらゆる物陰から、血泡を吹き出した腐肉が顔を出し、俺に向かってくる。
背後では気色の悪い声を掻き消すくらい不愉快な警報が、いつまでも甲高く響いていた。
――まるで、獲物を絶対に逃すなと、町中に知らせているようだ。
「……クソッタレが」
食われてたまるか。
その意地だけで、目の前の化け物どもを睨み付ける。
駅にいけば帰れるのだろうか。そもそも駅は、俺の知っている場所にあるのだろうか。
こいつらはあと何匹いるのだろうか。
警報はこいつらが鳴らしているのだろうか。
解らないことが多すぎる。助けは呼べるのだろうか。ここに俺以外の人間はいるのだろうか。
――俺は、生きて帰れるのだろうか。
一番知りたい疑問は、咄嗟に頭の中から振り払った。
リライト異界 うすしお @sigyn
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