リライト異界

うすしお

第1話 リライト異界

「……あれ?」


 上野の地図では、袋小路に幽霊がいたということになっている。一筆書きの五芒星はいかにも幽霊とは縁遠そうなのんきさだ。手書きの星が鎮座している座標は、先ほど電話までして確認した店の先だったはず。だというのに、該当箇所は袋小路になどなっていなかった。

 民家の建ち並ぶ狭い路地を目の前にして、俺は呆然と立ち尽くす。

 

(間違えたか?)


 なにせ初めてきた場所だ。

 不安になって来た道を戻り、書店の看板を確かめるため顔をあげた。

 頭上の斜め上に、先ほど同様しっかりと看板がついている。

 ついては、いるのだが。

 

「……は?」


 どうにも違和感が拭えない文字が看板の真ん中に記されていた。

 一瞬異国の文字かなにかの呪文かと思ったのだが、妙に見覚えがある。

 これは……

 

「鏡、文字……?」


 文字を左右反対にするあれだ。書くのは難しいし一瞬面食らうが、読めないわけではない。この看板は縦書きだから、横書きよりは読み辛いが、所詮一瞬の違和感だ。

 しかし文字が妙に見えるってのは脳の障害としてよく聞くから、さっきとは別の不安が俺を襲った。

 字が読めなくなるのってなんだっけ。脳梗塞? 脳卒中だったか?

 っていうかそういう脳疾患にかかった場合、鏡文字に見えるケースってあったか?


「なんだ……? どうなってんだ……?」


 すぐ近くに個人経営の電器店がある。あそこは輸入雑貨屋だったはずだ。電器店は、町の反対側を示す看板が駅前にかかっていたのを覚えている。


(反対側……鏡文字……左右反転……?)


 脳みそが荒唐無稽な予測を弾き出すが、確かめる術はない。上野の地図は目的地と駅からの道順のみが記された、どこに出しても恥ずかしくないほどのポンコツ地図だからだ。町の反対側がどうなってるかなんて俺にはわかるはずもない。

 戸惑う俺を置き去りにして、電器屋の店頭に並ぶテレビはやたらとテンションが高い。テレビショッピングだか店頭商品の紹介だかわからないが、エアコンの宣伝文句を高らかに読み上げているらしかった。


「!たしまり取ち勝を学語いなた満に準基勝優準会大てしと柱信電たれらめ認に機売販動自りおてれさ縮短に子勢の来従は力磁費消 !すましくつした満で子原な潔清を部深最ンコアエ !くらくらもれ入手おで場輪駐ータルィフ動自」


「何言ってんのかわっかんねぇよ……!」


 頭がおかしくなりそうだ。

 聞いたことのある言葉の羅列のようでいて、座りの悪い音の羅列が脳みそを不快感で満たす。音まで反転してやがるらしい性格の悪さに辟易してしまった。


「くそったれが……気色悪ぃことしやがって……!」


 周囲を見まわし、害になりそうなものがないか確認する。

 幽霊がらみかどうかはまだ断定できないが、これは明らかに異常だ。

 そう考えると、この町に降りた時から俺は罠にかかっていたのだろう。

 人に会わないにも関わらず溢れ出していた人の気配は、チョウチンアンコウのアカリと同じ、獲物を誘い込む擬似餌だったのだ。


「ナメたマネしてくれるじゃねぇか……!」


 舌打ちしながらポケットへ突っ込んだスマホに手をかける。誰かに連絡したほうがよさそうだ。


『ごん゛……ごん゛……』


 声が聞こえた途端、全身の毛が逆立つような錯覚に陥った。

 鼻腔を突き抜ける鉄の臭い。実家で食わされた刺身を思い起こさせる生臭さがあたりに立ち込める。

 否応なく死を連想させる真っ赤な臭気とともに、水の中で無理やりしゃべっているような声がここにきて久方ぶりのマトモな日本語で俺の鼓膜を震わせていた。



『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』


「は……」


 ゴボゴボ、ゴボゴボと、空気が割れるような音が言葉の端々に入っている。

 原因は喉に詰まった血だろう。ひどく痰が絡んでいるかのような不快な声。

 

『ごん゛に゛ぢわ゛、ごん゛に゛ぢわ゛ぁ゛あ゛ァ゛ァ゛……』


 それを発しているのは、真っ赤な肉の塊だった。

 肉塊ではあるが、人の形をしている。きちんと人のシルエットを保った、真っ赤な肉。皮を剥ぎ取られたか、あるいは――体を、裏返されたかのような。

 どうしてそんな姿でしゃべれているのか理解に苦しむ。


『だい゛、だい゛じょ゛ぅ゛う゛ぶ、ぶ、でじゅ゛、があ゛? う゛ぢ、ぢ、う゛ぢぃ゛、に゛ぃ゛、ぎま゛、ぎま゛ぁ゛じゅ゛がぁ゛?』


 ただ、肉の塊というのも十分異常なのだが、それよりも見過ごせない点があった。

 皮を剥かれたにしろ体を裏返したにしろ、人のシルエットを保つならば当然保っていなければならない、パーツの条件。

 目が二つに鼻と口が一つずつ……そういう常識的な配置が、この肉塊にはなされていないのだ。


『う゛ぢ、う゛ぢ、う゛ぢぃ゛、に゛ぃ゛い゛ぃ゛? ぎま゛、じゅ゛ぅ゛う゛がぁ゛あ゛?』


 ガチガチと歯を打ち鳴らす音が響く。合間に血泡が溢れ出て、地面を汚す。ゴボゴボと空気の割れる音がする。

 全て口からだ。口以外の動きはない。

 だって、それの“顔”に当たるべき部分には、口しかなかった。

 

 頭部いっぱいに広がる、縦向きの口。

 そこに、やっぱり縦向きに人間のような歯が並んでいる。喋る度に血を撒き散らし、ゴボゴボと不愉快な音をかきならす不気味な口は、やはり傍迷惑で自己主張の激しい大きさとウザさで鎮座していた。


 きっしょっ。


 マジありえねぇ。口がデカすぎてそれだけで性格が悪そうに見える。人は見かけが100%なんだぞ。もうちょっと身なりに気を遣えよ。


 俺は咄嗟に近くの植木鉢を引っ掴んで、そいつに思い切り投げつけていた。


「幼気な男子高校生部屋につれこんで何する気だ変質者が!」


 見かけが人間なら頭は急所なはずだ。脳みその血管を破壊するつもりで思い切り振りかぶった植木鉢があいつにどれだけダメージを与えられるかで、殺せるか殺せないかがわかる。


『あ゛ぁ゛ あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛!』


 案の定頭は急所だったらしく、口だけ野郎は無様な悲鳴をあげてその場に転がった。デカい口から血反吐を吐き出し、のたうち回っている。


「そこでのたうちまわって死ねクソ野郎が」


 捨て台詞を残して駅の方向へ走る。走ろうとした。

 俺の足を、死に損ないの肉が掴みやがったのだ。


『ま゛っ゛でぇ゛ぇ゛え゛! ま゛っ゛でぐだざぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛い゛! ま゛っ゛でぐだざぁ゛あ゛!だずげでぐだざぁ゛あ゛ぁ゛!』


「きったねぇな! 触るんじゃねぇよ!」


 血でベトベトになった手が靴も靴下も汚していく。迷わずもう一方の足で腐肉を蹴り付け、指を圧し折るつもりで何度も踏みつけてやった。


『だずっ! げでっ! お゛ば、お゛ばな゛じじま゛じょ゛っ゛、お゛ばな゛ぁ゛じぃ゛い゛ぃ゛!』


「話すことなんざねぇよ! きしょい上に汚ぇくせに人と会話できると思うんじゃねぇぞ汚物が!」


 口だけの顔面を蹴り付けると、歯がガチリと大きな音を立てて噛み合う。

 こいつ今俺の足噛もうとしやがったか?


「はぁ!? ナンパ断られて逆上してんじゃねぇぞクズが! 変態汚物の癖に何様のつもりだテメェ! その腐れ汚ぇ見かけを恥じ入って素直に死ねよ! 来世はマトモに生まれますようにってお祈りでもして首吊って死ねクソ汚物が!」


 あのデカい口に噛まれるなんざキモすぎる。

 仕方がないので腐肉の頭上の頭に足を振り下ろした。

 グチャグチャと不愉快な音がして、靴底に血がべっとりと付着するのがわかる。

 いつかのクソトカゲを思い出して非常に不愉快だ。とっとと死ね。



『あ゛ぁ゛ あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛!』


「うるせぇないつまで叫んでんだよ!」


 相手の力が弱まってきて、足を掴む手を振り解けそうだ。

 今の所霊の気配はしないが、明らかに人間でもないので殺す気で蹴り続ける。

 頭蓋骨があるかどうかも定かじゃないが、あったとしても陥没させるつもりだ。


「いい加減離せ変態が!」


 ごぼん、と低くて腹に響く音がして、腐肉が大きく痙攣する。


『ぁ゛っ』


 間抜けな空気の抜ける音と共に、手が足から離れる。ぐったりと弛緩した肉体はまさに死体だ。元々死体だったので動かなくなっても罪悪感がない。


「クソが、手間かけさせやがって」


 今度こそ捨て台詞を残して、俺は駅へと走る。

 途端、耳をつんざくような爆音が、町中に響いた。


ウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥウゥ!


 空気を震わせ、耳を劈く、甲高く音割れした……おそらく、警報。


「は」


 思わず口から音が漏れる。

 蹴り潰した腐肉はピクリとも動かないのに、どこからともなく、ビチャビチャと血の垂れる音がした。

 鉄の臭気が強くなる。


『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』

 『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』

『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』

 『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』

『ごん゛に゛ぢわ゛、だい゛じょ゛、だい゛じょ゛ぅ゛ぶ、ぶでじゅ゛、が?』


 ありとあらゆる物陰から、血泡を吹き出した腐肉が顔を出し、俺に向かってくる。

 背後では気色の悪い声を掻き消すくらい不愉快な警報が、いつまでも甲高く響いていた。


――まるで、獲物を絶対に逃すなと、町中に知らせているようだ。


「……クソッタレが」


 そう簡単に、やられると思うなよ。

 調子に乗った口だけ野郎どもを睨みつけ、俺は――覚悟を、決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る