第2話 森の中の小さな小屋


「『魔獣の森』……どうしましょう、聞いたことが無い場所です……」


 フィリナは頬に手を添え、うろたえる。

 しかしそこに恐怖の色はさして無く、在るのはただただ、聞かぬ地で迷子になったことへの困惑のみ。


 それはまるで、本を読んでいる最中に意味のわからない言葉が出てきて、けれども辞書を調べてもその言葉が見当たらなかった時の心持ちのようで。

 ……要するに、いまいち危機感が無かった。


「俺も」


 また幾らか間を置き、男は口を開く。


「お前のような奴は、見たことも聞いたこともない。角も翼も尻尾も無ければ、鱗も長い耳も牙も無い……何の特徴も無い奴など……」


 言葉が止まり、男の尻尾がゆるりと動いた。


 どうしたのだろうか、とフィリナは首を傾げる。

 彼女の穏やかで澄んだ瞳が、男の真っ黒な瞳を見つめた。


 男はその視線を厭うように、眉間に皺を寄せる。

 それから、探るように言った。


「……異界人か?」


「ああ、確かに! それなら説明が付きますね」


 呆気ないほど、あっけらかんと、フィリナは手を叩く。

 非日常的で突飛な「異界人」という言葉を、ひとつの可能性として心から受け入れたようだった。


「私、最後に覚えているのが、塔の階段から落ちたことなんです。もしかしたらその拍子に、何かの力がはたらいて……ここへやって来たのかもしれません」


「……聞いたことが無い」


「私もです。世の中、不思議なこともあるものですね」


 にこにこと笑いながらフィリナは言う。

 いまいち会話が嚙み合っていないような空気であったが、それを感じ取っているのは男だけのようだった。


 男はとうとう溜め息を吐き、踵を返す。


「来い」


「どちらへ?」


「雨と風をしのげる場所だ」


 やや情報の不足した回答を残し、男は歩き始める。

 フィリナは顔をパッと明るくした。


「まあ、案内してくださるのですね。ありがとうございます」


 疑いなど欠片も無いその声に、男は居心地悪そうに尻尾をうねらせる。

 黒い草葉の陰に隠れていた小動物が、カサカサと音を立てて立ち去っていった。


「そうだ、お名前を聞いてもよいですか?」


「ギギス・アグリカ・ヴェン・ディネイアズ・オルジト」


 男、改めギギスはぶっきらぼうに答える。

 対するフィリナは相変わらず陽だまりのような、優しい雰囲気を纏っていた。


「では、ギギス・アグリカ・ヴェン・ディネイアズ・オルジト様――」


「馬鹿丁寧に通しで呼ぶ奴があるか。ギギスでいい」


「わかりました、ギギス様」


 素直も素直に、フィリナは頷く。


「ギギス様は狩人ですか? それともただ森に住んでいらっしゃる人?」


 それは全く他意の無い質問だった。

 単に相手のことを知ろうという、歩み寄りの言葉。


 しかしギギスは眉をぴくりと動かし、合わせてもいない目を泳がせた。


「……それよりも。命が惜しければ、迂闊に俺から離れるなよ」


「はい。気を付けますね」


 露骨に話題を逸らされても、フィリナは気にしなかった。

 不快感を示すことも、先ほどの質問への回答を得ようとしつこく追及することも無く、ただ純朴に会話をする。


 その様子に、ギギスの眉間の皺は安堵するように消えた。


 2人はさくさくと地面を踏みしめながら、森の中を進む。

 木々の密度、葉の茂り方、奇妙な植物たち。

 二重の意味で暗い森は、先に行けば行くほどその空気を濃く、重くしていった。


 時折、薄暗がりの間を何かが通り過ぎて行ったが、フィリナがそれらを目にすることは叶わなかった。

 なぜならそれらは2人を目にするや、とても素早く、また逃げるように姿を隠したからだ。


 そうして歩いていくことしばらく、ギギスは不意に立ち止まった。


 フィリナは、目的地に着いたのだろうか、とギギスの後ろから顔を覗かせる。

 だが彼女の目に入ってきたのは、重々しい威圧感と共に立ち塞がる、ツタや低木が絡み合ってできた自然の生垣だった。


 これでは先へ進めない。

 戸惑いつつ、脇に道が無いかと辺りを見回すフィリナだったが、そんな彼女へ、ギギスが左手を差し出した。


「手を」


「? はい」


 促されるまま、フィリナは彼の手を取る。

 ひやりとした感覚が掌に伝わった……かと思えば、次の瞬間。


 絡まった生垣の植物たちが、脈打つように動いた。


「あら!」


 目を丸くして驚くフィリナの目の前で、生垣はうねうねと這う蛇のごとく動き続け、形を変えていく。

 ややあって、生垣が再び静止する頃には、フィリナたちの前には1本の細い道ができていた。


「来い」


 ギギスはフィリナの手を引き、小道に足を踏み入れる。


 両脇に生い茂る幾種類もの植物に見つめられながら、それでも構わず歩を進めれば、ほどなく開けた場所に出た。


 ちょっとした広場くらいの、ささやかな大きさの空間。

 白と黒の交じった芝生が広がり、ぽつぽつと小さく赤い花が点在する、先ほどまでとは少し雰囲気の違う景色。


 その中心には、1軒の家屋が建っていた。


「まあ! 素敵なおうち!」


「ただのボロ家だ」


 目を輝かせるフィリナを、ギギスは一蹴する。


 彼の言う通り、家屋はお世辞にも立派とは言えない風貌をしていた。


 こぢんまりとしたサイズ感は「小屋」と表現するのが適切で、しかも碌に手入れをされていないのか、外壁や屋根には汚損が目立っている。


 そしてそれは内部も同様で、言外に案内されるまま中に入ったフィリナを迎えたのは、家具も装飾品も少ない、最低限の掃除だけがされた部屋だった。


 しかしフィリナはやはり、丸い瞳を興味と感心でキラキラとさせながら、せわしなく周囲を見回す。


 色褪せた木製の棚も、擦り切れたテーブルクロスも、花の入っていない花瓶も、彼女にとっては素敵な世界の一部だった。


 あれは何、これは何と浮かぶ疑問を、無遠慮に口にするのは我慢しつつ、フィリナは大人しく玄関口に立って待つ。


 ギギスは何やら、棚の中を漁っていた。


「チッ……切らしていたか……」


 ぱしん、と尻尾の先が床を軽く叩く。

 どうやらお目当ての品が無かったらしい。


 彼が何を探し、何をしようとしていたのか、知る由も無いフィリナはゆるく首を傾げる。

 手伝えることがあれば、手伝いたい――そんな気持ちと共に。


「少し待っていろ。迎えを呼ぶ」


 ギギスは建付けの悪い引き出しをガタガタと押し戻すと、フィリナの方を振り返って言う。


「何のお迎えですか?」


「元の世界に帰る術を探せる場所への、だ」


 その言葉を聞くや、フィリナは少し慌てて、両手を振った。


「そういうことでしたら、私には必要ありません」


「……なぜ」


 短く、ギギスは問う。

 想定外の返答に戸惑っているようだった。


 フィリナは手を下ろし、ゆったりと体の前で組む。

 それから、穏やかな声色で話した。


「私は追放の刑に処されたのです。このままあの世界から失せた方が、都合がよいでしょう」


「何をしでかした」


「何も。ただ、義妹が望んだままに、横領の罪を被りました」


「な……」


 ギギスは目を見開く。

 尻尾のヒレが逆立ち、カチカチと小刻みに震えていた。


 明らかに動揺する彼だったが、フィリナはごく自然に、聞き取りやすい声の調子で、話を続ける。


「義妹は、私の友人のことが好きでした。私にそのつもりはありませんでしたが、彼女にとって私は恋敵だったのでしょう。それに、私はこの通り鈍くて、頭も良くないので……ひたすら、邪魔だったのだと思います」


 にこ、とフィリナは微笑む。

 仄かな寂しさと、悲しみが、柔らかな花に陰りを生んでいた。


「冷静だな。怒らないのか」


 じとりと様子を窺うように、ギギスは彼女を見つめる。


「私の不甲斐なさが招いたことです。どうして怒りなど感じましょうか」


「……変わり者め」


 ギギスの尻尾が数度波打つ。

 彼は静かに息を吸って、言った。


「行く宛てが無いのなら、ここに居てもいい」


「まあ! 本当ですか!」


 素性もわからない、そればかりか人間でもなさそうな者相手に、フィリナは善意だけを見ていた。

 その心根は、素直というよりもはや愚直だ。


「ありがとうございます。お礼にできることなら何でもしますから、何でも言い付けてください」


「別に……」


 ギギスは陽光に耐え兼ねて目を逸らすように、フィリナから視線をずらす。

 けれどもそれは、不快とは程遠い仕草に違いなかった。


「これからよろしくお願いします、ギギス様」


 フィリナは朗らかに笑う。


 暗く不気味な異界の森で、新たな光が芽吹きつつあった。

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