愛しい世界に、ごきげんよう~追放された令嬢は流れ着いた異界でのんびり暮らします~
F.ニコラス
第1話 塔から落ちたその先は
「まあ、綺麗な蝶々だこと」
揺れる馬車の中、フィリナ・エルシードは顔を綻ばせた。
視線の先はひらひらと風に乗って舞う、1匹の黒い蝶。
フィリナは窓から手を伸ばし、指先を差し出す。
と、蝶はまるで吸い寄せられるかのように、そこへぴたりと止まった。
「今年は春が早いですね」
優しい声に応えるように、蝶が2、3度翅を動かす。
今、フィリナの話し相手となる人間は居なかった。
同乗者はおらず、御者は無言。
馬車の行き先は――追放刑の執行場所であった。
「ああ、見えてきましたね」
フィリナは窓から今度は顔を出し、馬車の進行方向を見やる。
鬱蒼とした雑木林に囲まれたこの道の先、高い木々から頭を覗かせる高い高い石造りの塔。
その塔こそが、これからフィリナが送られ、今後一生を過ごすこととなる、事実上の牢獄だった。
「蝶々さん、あれが私の新しいおうちなんですよ」
しかしフィリナには、これっぽっちも悲壮感が無い。
例え追放刑を科せられるに至った「罪」が濡れ衣だったとしても。
その濡れ衣が、義妹の仕組んだものだと知っていたとしても。
自分を庇ってくれる人が誰も居なかったとしても。
フィリナは心の底から、平気だった。
ただその目には、これから始まる新しい生活への期待が映るだけ。
悲しいどころか、むしろ彼女はご機嫌だった。
「新しい場所には、新しい出会いと、新しい幸福があるものです」
指先の蝶に、フィリナは語りかける。
彼女の言葉をわかっているのかいないのか、蝶はしばらくじっとしていた。
が、ふと思い出したように、再び宙へと舞う。
フィリナは蝶を見送ると、体を馬車の中へと引っ込め、きちんと座り直した。
そうして馬車は走り続けることしばらく、ついに塔の傍にて歩みを止める。
「景色を眺めていると、あっという間ね」
ひとりごちながら、フィリナは大きな鞄を持って馬車を下りた。
鞄の中身は、衣服をはじめとした最低限の必需品。
付き人も居ない「罪人」の彼女は、たったそれだけを持って、この追放の地へとやってくることになったのである。
「どうもありがとうございました。お気を付けて」
フィリナが穏やかな笑顔でそう挨拶をすれば、御者は居心地が悪そうに眉を下げ、そそくさと去っていった。
誰だってそうだろう。
自分が刑場に運んだ罪人に、素直な言葉を向けられて、反応に困らない者が居るだろうか。
「さてと」
遠ざかる馬車を見送ったフィリナは、くるりと振り返って塔を見上げる。
高く、無骨で、蔦の這う、廃墟のような塔。
周囲は山と雑木林に囲まれており、最寄りの町に移動するにも、馬車が無ければ何日かかるかわからない。
高貴な土地から追放した罪人を閉じ込めるには、うってつけの建物だ。
フィリナは鞄を持ち直すと、軽い足取りで塔の入り口へと近付く。
扉は鍵がかかっておらず、彼女がその細腕で力いっぱい押せば、ギギギ……と鈍い音を立てて開いた。
そうしてまず現れたのは、ずらっと上まで続く階段。
この刑罰のための塔は、最上部に部屋がひとつあるだけで、他にはそこへ繋がる長い階段があるだけなのだ。
フィリナは塔の中に足を踏み入れ、入り口の扉を丁寧に閉める。
それからゆっくりと、階段を上り始めた。
塔の外壁には、ぽっかりと窓が空いている。
階段にはそこから舞い込んできたのであろう、木の葉がいくらか積もっていた。
「足を滑らせたら大変ね……。後でお掃除しましょう」
慎重に慎重に、フィリナは階段を上っていく。
脳裏には、以前、義妹のアイリに言われた台詞が浮かんでいた。
――あら嫌だ、お義姉様ってば本当にのろまですのね。
――義理とは言え、あなたが姉だなんて恥ずかしいわ。
フィリナは少しだけ、目を伏せる。
追放刑も、義妹の所業も、彼女を傷付けはしていない。
ただ彼女は、己の至らなさだけに心を痛めていた。
窓の外から、ほんのりと温かい風が吹き込む。
フィリナは顔を上げ、再び足を動かし始めた。
が、その時。
「あっ」
次の段に伸ばされた彼女の左足が、ちょうど木の葉を踏ん付けた。
ずる、と靴裏と木の葉が擦れる。
前に出かけていた体は、バランスを崩して後ろに傾く。
反射的に踏ん張ろうとする右足は、しかし足場を得ず、宙に放り出される。
支えを失くしたフィリナは為すすべなく、真っ逆さまだ。
塔の階段は急で、角ばっている。
上手く受け身を取れれば擦り傷で済むだろうが、打ちどころが悪ければ死んでもおかしくない。
そして今、フィリナの両手は鞄の持ち手を握りしめている。
咄嗟に離すことができず、当然、受け身など取れるはずもない。
呆けた顔のまま、最も望ましくない姿勢のまま、彼女は転落する。
最後にフィリナが聞いたのは、ごつん、という頭に響く音。
彼女の意識は、それきり途絶えた。
***
「……ん」
水底からぷかりと泡が浮上するように、フィリナは目を覚ました。
頬を撫でるさわさわとした感触に瞼を持ち上げれば、青々とした草が視界の右側に現れる。
まばたきひとつ、改めて目の前の光景を見ると、右から左に向かって、幾本もの木々が伸びていた。
そこに止まっていた1羽の鳥――のような――影も、左に向かって飛んでいく。
そこでフィリナはようやく、どうやら自分が横たわっているらしいことに気付いた。
「あら、まあ」
フィリナは急いで、と言ってもはたから見ればゆっくりと、起き上がる。
上下左右が正常になった視界が改めて捉えたのは、鬱蒼とした森だった。
しかし普通の森、それこそ先に馬車で通ってきたようなそれとは違う。
幹のねじくれた木。
人間の指のような形をした葉。
豊かに生い茂る、ほとんど黒色と言って差し支えないほどに深い深い緑色をした、背の低い草。
時おり木々の間を通り抜けていく、鳥のようで少し違う形をした影。
どれを取っても、フィリナには見たことが無いものだ。
彼女は裾に付いた草の欠片を払いながら、くるくると周囲を見回す。
その目は柔らかな好奇心の色をしていた。
フィリナは心の赴くままに歩き出す。
人の手が入っていなさそうな森の中は、生い茂った草のおかげか、意外にも足に優しかった。
さく、さく、と微かな足音と共に、フィリナはあてどもなく進む。
そうしてその足が、大きな木の影を踏んだ瞬間である。
ほとんど無風だった森の中を、一陣の強風が吹き抜けた。
思わずフィリナは目を瞑り、風がやむのを待ってから、また開く。
ほんの数秒の出来事だった。
しかし、どうだろう。
彼女の目の前には、それまで影も形も無かったはずの、1人の男が立っていた。
「あら、あら」
フィリナは驚いて、目をまん丸に見開く。
男は、黒づくめの服を着た、真っ白な長髪の人間……のようなものだった。
というのも、彼の長い服の裾から、何やら太い尻尾が顔を出しているのである。
尻尾は、蛇の尾のようにすらりと伸びており、先端付近に3対6枚の、菱形のヒレらしきものが生えていた。
今まで見たことのあるどんな動物のそれとも違う、珍しいその尻尾に、フィリナはしばし目を奪われた。
「……誰だ。どこから来た」
不意に、男が口を開く。
不愛想を通り越して、もはや温度が無いような声だった。
表情も声にたがわずしかめっ面で、視線もまるで冷え切っている。
威圧感に満ちた風貌、そして振る舞いだったが、フィリナが返したのは笑顔だった。
「ごきげんよう。お初にお目にかかります。私はフィリナ・エルシード。今年で20になります。出身は王国の東部、エルシード伯爵領で――」
そこまで言って、彼女ははたと口元に手を当てる。
「ああ、いいえ。そうでした。その伯爵領の北端にある、塔からやって来たのだと思います」
「『思う』?」
「はい。私、どのようにこの森まで来たのか、覚えていなくて。ここが立ち入ってよい場所なのかも、わからないんです」
フィリナが申し訳なさそうに眉を下げれば、男は眉間に皺を寄せた。
幾らかの沈黙が流れる。
男は、今にも溜め息を吐きそうなほどの不機嫌さと共に、言った。
「ここは『魔獣の森』だ」
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