愛しき冷血宰相へ別れの挨拶を
川上桃園
第1話
『"ウォルシンガム宰相、ついに結婚へ"
――政府筋のとある高官より我が国の"冷血宰相"ウォルシンガム卿が近々結婚するとの情報が本紙に入った。
ウォルシンガム卿は三十七歳。これまで独身を貫いてきた。
お相手とされるガプル公爵令嬢は、五年前に亡くなったガプル公爵の長女。社交界に咲く名花として名前を知る紳士方も多いはずだ。彼女は父親から多額の財産を受け継いでいる上、美貌と才知にも恵まれている。
政府高官は取材に対してこう締め括った。「とてもお似合いの二人ですよ。釣り合いが取れているのでしょうね」。突如降ってきたこのビッグカップルの続報が待たれる』
あの"冷血宰相"が結婚するのか。
男は薄っぺらい新聞に載った小さな記事に目をとめる。
彼は片田舎にいる地方官吏。王都の中心にいる宰相閣下とは縁もゆかりもないが、たまたま宰相閣下と同い年だったので彼の関心を引いたのだ。
この国では三十七歳で未婚は珍しい。平凡さを自認する男でさえ、帰宅すれば三児の父である。
「若いころはよほど遊んでいたんだろうな~」
男は宰相の身の上を夢想する。
遊び飽きて、結婚。それでも年下の美しい令嬢と結婚できるのだから、宰相は生まれながらの勝ち組だ。清々しいぐらいに住む世界が違いすぎる。
ちらりと隣席を見れば、同僚が何かの書類に厳しい視線を注いでいた。しかも算盤を弾きながらの「おかしい……数字が……」のひとりごと付きだ。重そうな眼鏡の奥の眼差しは真剣そのもの。始業前なのにご苦労なことだ。息が詰まる。
「人生ってやつはなんでこう……なんだかなぁって気持ちになるなあ」
男は隣に聞こえるように呟き、ふと例の記事を指さしながら彼女へ話しかけた。
「ちょっと見ろよ、宰相が美人のご令嬢と結婚だってさ、コーデリ、ア? っておい、俺の新聞だぞ!」
男はあっけにとられた。突如、コーデリアが男から新聞を奪い取ったからである。彼女はそのまま食い入るように記事を読み始めた。
コーデリアは二十代半ば。仕事を恋人にしたので婚期を逃したとひそかに揶揄されている地味な同僚である。ダークブラウンの髪は引っ詰めてまとめただけ、化粧気も少なく、服装も若いわりには飾り気がない。理知的なヘーゼルアイは時折油断ならない光を放つ。人柄も仕事ぶりも至って地味なくせに、細かいところに気がついていちいち指摘してくるし、柔軟に仕事をすることも知らないので、仕事相手とよく言い争っていた。
融通が効かない困った後輩なのだが、表面上は礼儀正しいので、先輩が職場に持ち込んだ新聞を何も言わずにひったくるとは思わなかった。
顔を新聞紙面に擦り付けるようにして記事を読み耽るコーデリアに男は軽口を叩いた。
「あはは。コーデリアも一人前に結婚の話題に興味があるんだな。そうかそうか。でも残念ながら、宰相閣下は別の女と結婚するようだぞ」
冗談のつもりだった。
だって、宰相閣下は雲の上の人物。こんな田舎の官庁に務める官吏とは住む世界が違う。
しかし。
「あ……」
思わず、といった風情で溢れた彼女の吐息が耳に残る。
紙面から顔を上げた彼女の目は赤くなっていた。黒縁眼鏡が少し鼻からずり落ち、口は閉じるのを忘れていた。
「ちょ、え、ど、どうした……?」
コーデリアは強い女である。たとえ上司であっても道理に反することは猛然と抗議をし、出張先で魔獣の襲撃にあっても住民の避難誘導に尽力し、目と鼻の先に魔獣の牙が襲いかかってもなお、ぴくりとも眉根を動かさなかったという。
強いはずの彼女が無防備な表情をさらしている。
どうしてか、彼はひどく罪悪感を抱き、彼女を見ていられなくなった。
「いやいやいや、コーデリア。宰相に失恋したわけでもあるまいし……なぁ?」
茶化しの最後は、誰に向けたわけでもない問いかけだった。
呼応するように彼女は席から立ち上がった。
始業前の庶務課の一室はしん、と静まり返り、上司を含めた全員の目が、コーデリアひとりへ注がれていた。
彼女は気にしたそぶりもなく、上席の机の正面に立ち、「二、三日程度、お休みをいただきます。場合によっては少し伸びるかもしれませんが、よろしくお願いします」と震え声で言い切った。
突然の休みの申し出である。上司なら理由のひとつぐらい聞きたいところだろうに、普段とのあまりの変貌ぶりに彼からかろうじて出て来たのは「例の復興式までには戻ってくるように」という言葉のみであった。
コーデリアは返事をせず、ただ一礼のみに留めた。目に涙を溜めたまま、始業前の机を片付け、カバンを手に持った。
「……失礼します」
彼女の足音が聞こえなくなってから、部屋のあちこちで緊張から解放されたかのようなため息が聞こえてきた。
――コーデリアはいったいどうしたんだ?
上司も同僚もみな問いたかったに違いない。
ただひとり、彼の脳裏には例の結婚記事が踊っていた。
「いや、まさかな」
相手は中央の重要人物だ。コーデリアは、別の記事を見て取り乱しただけなのだ。あの記事が突然の有休取得の理由ではない。きっとそうだ。
さて。彼は気を取り直して新聞の続きを読もうとしたが、コーデリアに持って行かれたことに気づくと机に突っ伏した。
――コーデリアは、どうして涙を?
その疑問が頭を離れてくれなかった。
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