廃工場のクイックシルバー ~幽霊少女と彼方の歯車~

河童の川流れ

第1話 夏夜の淵

 夜は夜でも、夏の夜は特別だ。ただでさえ暑く苦しい夏は、たとえ夜で気温自体が低くとも、湿度が高いとジメジメして気持ち悪いし、セミやらなんやらの虫が騒いでいるから、より一層暑苦しく感じることもある。だからこそ、今、吹き抜けたそよ風の心地良さがどれほどのものか、言葉には言い表せないほどで、たとえ言葉にせずとも、この喜びを人に伝えるのに言葉は不要だとさえ思った。


 ひとつ、溜息を吐いた。

 息は風と一緒に、遠くへと流されていく。

 僕はそれを気に留めることなく、そこから街を見下ろしていた。


 ここは、近所のとある廃工場。かつてここを使っていた会社が潰れてから、権利者が誰か分からないらしく国や市からも放置され、苔やら草木やらが生い茂り、過去の栄光の面影を感じさせる部分が多少残ってはいるものの、それらを含めて、その全てが時間の無情さを想起させるような「高度経済成長期の遺産」と化していた。中には錆びた機械や、苔むしたベルトコンベアーらしきものだとかも放置されていて、いつ捨てられたのかも分からないようなカンやビンのゴミも投棄されている。とても静かで、その静けさは歩いているだけでその足音が工場全体を揺るがしているようにも感じるほどだ。


 そんな廃工場の屋上から、フェンスを乗り越え、僕は世界を見下ろしていた。


 今、立っているこの場所は、床と壁の境目だ。壁の下を覗くと、遥か遠くにひび割れたコンクリートの地面が見える。一歩前に踏み出すだけで、僕はここから飛び降りて、命を落とすだろう。


 さて、どうしようか。


 夏の夜はうだるような暑さだというのに、僕は酷く冷静で、頭の中は冷え切っていた。

 心臓が、小さく脈打つ音が聞こえた。

 空は分厚い雲で覆われていて、月がどこにあるのか見当がつかなかった。



 ***



 どれくらい経ったか。

 少なくとも近所の家から一切の明かりが消える程度の時間は、フェンスに寄りかかりながら、空を見上げて、考えていた。


 飛び降りるか、どうか。

 もう一度、下を見下ろす。やはりコンクリートの地面が、遠くにあって、落ちればひとたまりも無く、きっと自分は即死するだろうことは確実だ。死ぬことは怖くない。怖くない、というか死ぬことに対してはあまり憂いは無い。

 憂いがあるとすれば、それは死後のこと。

 死後、自分は天国に行けるのだろうか。それとも地獄に行くのだろうか。それとも、そもそも物を考えることすら出来なくなって、善悪も喜怒哀楽も失って、虚無だけが残り続けるのだろうか……




 ……鈴虫の音が、近くの雑木林の方から聞こえる。人の足音も、車の音も聞こえない今のこの場所は、本物の自然から切り離されたこの新都の中で本物の自然に最も近しい場所のように感じた。金属とコンクリートと人工の自然で囲まれたこの新都で、自然を感じることは、幻想を見ているのと同じことのように感じるが、たとえ幻想だとしても自分を騙し続けて、その偽物を本物の自然のように感じることが出来れば、きっと幸福でいられるのだろう。


 人生もまた、同じだろう。

 どうにも自分には、人生が不向きだったようで、一瞬の快楽に身を委ねても、大義で心を埋め尽くしても、何かを成し遂げようと自分を奮起させてみようとしても、最後、自分の心の中には無情だけが残っていた。所詮、人生の最後は死を迎え、誰も自分を受け継ぐ者はおらず、功も罪も全て時間の流れに乗って消えていくのだ。


 この工場も、そういう意味では僕と同じだ。

 れて、消えてゆく────



 ***

 


 もういいか。


 ふと、そう思った。

 街を見下ろす最中で、踏ん切りのつくキッカケがあったわけじゃない。

 厚い黒い雲が覆った空を見ていたら、ふとそう思っただけだ。


 ここは静かでちょうどいい。誰も自分の醜態を見ていないのだから、今がちょうどいいと思ったのだ。


 この一歩を進めることは、水に沈む行為に近い。

 僕にとって水の中は、人生の中で死の次に孤独に浸れる場所だからだ。

 水の中は音が伝わりづらく、誰もが孤独に近しい。


 右足を、前へと出そうとし、その瞬間、ふと下を見た。


 「……え」


 思わず、声が出てしまった。


 遥か下、ひび割れたコンクリートの地面の上。

 夜の暗闇の中で薄っすらとだが、少女が工場の中に入っていくのを、僕は目撃した。

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