二章『連環の影』

ちょっと兄のことを異性として認識しすぎてる妹

第28話「根源」

 彼女は上る。暗黒空間に架かる天上へのきざはし。目には見えぬ、その階段を一段一段上っていく。


 やがて微かな声が彼女の耳に届く。これは聖譚曲オラトリオ静謐せいひつなこの空間に調和する、見事な歌声であった。


 もっとも、ただ一人いる聴衆は気に入らないようだった。苛立ちを隠すこともなく、不機嫌そうな目つきのまま最上段へ足をかけた。


「暇だからと歌うな。聞くに堪えんわ」


 次中音テノールの主が振り向く。

 歳の頃は二十歳ほど、ダブルのスリーピースに身を包んだ青年。高い背も相まって、その捻れたブロンドは獅子のたてがみのように。

 赤い瞳はどこを見ているのか、あらぬ方を向いていた。

 構成する要素は美しいが、妙にちぐはぐな仕上がりで見る者に憎相にくそうを思わせる。


「酷いなぁ。心にもないこと言って。で、どうだい? 太白。久しぶりに見た彼は」


 彼女──太白は同胞の問い掛けに心底鬱陶しそうに、ぶっきらぼうに応じる。


「別にどうもせんよ。愛も変わらずシケたツラしとったわ。あと、その声は鬱陶しいからやめい」

「えぇ? 頻伽びんがの声ってヤツだよ? 仏様のありがた〜い声なんだけどなぁ」


 そううそぶきながら、青年は肩をすくめる。沈んだように見えるが、ポーズだけだ。

 青年は感情を発露させたことがない。この動きも、悄気しょげた人間の真似事であり、情は伴っていない。長い付き合いである太白も、それを承知している。


 あ、と太白が間の抜けた声をあげ、思い出したように青年へと訊ねる。


「……そういえば、今のお主って窮利易子くりえきすじゃったよな?」


 先日、玄野くろの影徒えいとと会ってから気に掛かっていたようだ。


「うん? 違うよ? それは二つ前の名だね。太白の数少ない友人なんだから、覚えていて欲しいもんだけどねぇ」


 あっさりと否定する青年。嫌味もおまけにのせてくるが、詮方せんかたないこと。彼は与えられてきた名の一つ一つを、獲得してきたトロフィーのように誇っていた。


「じゃあ今はくえ──くえる、ゔぁてぃす? なのか?」


 幼く、舌足らずなせいか。あるいは見かけによらない頽齢たいれいのせいか。上手くその名を呼ばずにまごつく。


 見かねた青年が小馬鹿にしながら口を挟む。


「お婆ちゃん、クエム・クエリティスでしょ?」

「それじゃそれそれ。あいつ、こんなのよく覚えとったのう……」


 付き合いの長い自分ですら、つい失念していた。そんな名を叫んだ少年を、しみじみと顧みる太白。


「あ、なに? 玄野くんってば僕のこと覚えてたんだ。ちょっと揶揄からかっただけなのに。そりゃ嬉しいねぇ」


 己のしでかした所業を"ちょっと揶揄っただけ"と済ませるクエム。

 玄野影徒、春日野かすがのすい藤宮ふじみやあおいを筆頭に、狂わされた人間がどれだけいただろう。

 彼らがこの場にいたなら、きっと怒りのままに斬りかかっていた。


「ん、あまり変わっとらんのかもな。儂を見るなり仲良く二人で繋いで震えておったわ」


 クエムは自らの肩を抱き、歓喜にうち震える。


「あぁ、いいなぁ……。んー太白ばっかズルいなぁ。僕も行こうかな? いやー学校なんていつぶりだろう」


 そんなことを知ってか知らずか、クエムは呑気なことを言う。そんなこと、気に掛けてすらいないのかもしれない。


「この世界──なんと、言ったか。タオ……」

。やれやれ、今いる場所も忘れたら人間おしまいだね」


──『再生誕学館テオソフィア』。その名はこの連環れんかんに定められている、世界としての名。それを知る者は少ない。連環自体を認識していない者が大半だろう。


 片手で数えるほどしかいないのに、その内二人がこの悪辣な神々だというから救いがない。


「喧しい喃、そも儂は人でなしだから構うものか。……テオソフィアの人間を相手取っても面白くもないじゃろ」

「いやぁ、そうでもないよ? 面白いさ。強くはないだろうけどね」


 この悪神達に迫ることが出来るとすれば、同じく【神号しんごう】を持つ彼らくらいだろう。

 そう、前世からの因縁を持つ、彼らくらい。


 その意味を理解した上で、クエムは笑う。

 太白が求めるのは、全力を出せる死闘。だが、彼の目的はそれだけではない。


 クエム・クエリティスは悪逆あくぎゃく無道むどう奸物かんぶつだ。


 人の運命を弄び、その末路を嘲笑う。それを歓娯かんごとする魔物なのだ。

 彼にとっては対象の強さなどアクセントでしかない。この悪魔は差別などしない、強者も弱者も等しくなぶるのみだ。


「飽きないもんじゃな、その弱い者イジメも」

「つまらない世界だから、この僕が面白くするんだよ。それと、せっかくだ。僕も挨拶くらいはしておきたいしねぇ」


 クエムはそう言うと、タイを緩める。早速向かうつもりなのだろう。

 決して情に篤い太白ではなかったが、こんな存在モノに付き纏われる彼らが気の毒に思えてきた。


「……彼奴ら、別にお前には会いたくないと思うが喃。それに大転使に気取られでもしたら事じゃから、あまり人目につくな──と、言うのは野暮じゃったな」


 太白は知っていた。隠蔽、はかりごと、闇にとざ陰芝居かげしばいは青年の十八番であることを。


 肉が崩れ、骨の軋む音。人間を粘土のような感覚でこねくり回したら、きっとこんな音が出るのだろう。

 金髪の偉丈夫は見る影もなく、太白より頭一つほど高いばかりに縮まってしまった。


「あーあー……。んっんん。こんなモンかな」


 は声の調子を整えるよう、一つ咳払いをする。その喉に先ほどまで主張していた喉骨はなかった。


 メンズスーツ姿であった装いも、白と黒の学生服へと変わっていた。を確認するよう、その場で回転ターンし、肩にかかる茶髪を揺らす。へばりついていたおぞましい神気しんきもナリを潜めていた。

 その姿は、どこから見てもテラメーリタ学園の女子生徒である。


「大丈夫だよ。大転使様も、僕らと狙いは同じようなもんさ」


 絶対悪アーリマン五月蝿さばえなす神。狡智の神トリックスター窮利易子くりえきす偽の神ヤルダバオト誰をお捜しかクエム・クエリティス


 彼を表す名は多く、その相貌かおの多彩さを表していた。その中でも最も的確に、一番短く、彼を表現している名がある。


──それはであった。

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