あるフリーターの独白

葉生

第1話

石川香夏子は幼いころから内向的で、集団行動にはなじめないものを感じていた。運動会の時も、自チームの優勝より、自分が話しかけられないことに頭を巡らせていた。そしてそんな自分に嫌悪感を抱いていた、そんな子供だった。

そんな彼女にとって、大学生活は性に合っていた。特に彼女のいた文学部は自由放任主義で、授業に出さえすれば、後は好きにさせてくれた。彼女は大学の4年間で、ゆっくりとのんびりした時間を過ごすことができた。図書館で本を借りて近くの喫茶店で読んだり、それが終われば近くの公園で昼寝をしたり……しかしそうした時間は、いつまでも続くものではなかった。

4年生になったころ、香夏子はようやく現実に向き合う覚悟を決め、就活を始めた。しかし出遅れたことに加え、元からのマイペースな性格もあって、今一つうまくいかなかった。採用担当者は誰も、彼女の努力を認めつつ、自社の社員とすることに不安を覚えた。どころか、彼女にはこの会社はあっていない、とと思わしに伝えた担当者もいた。

彼女はようやく、地元の小さな食品工場に職を得た。給料は安く、それなりに残業もあったが、そんなに悪い職場とも言えなかった。少なくともハラスメントのようなこともなかったし、先輩は親身に仕事を教えてくれた。

だが一方で、彼女の心中には何とも言えないもやもやしたものが浮かんでいた。工場の仕事はいつもせわしなく、自分のペースなどとても持てない。ただ先輩に言われて手を動かす、機械の付属品と化したような生活に、違和感と疲労を感じていた。それでも、次から次へと入ってくる指示書を前に、しばらくそんなことを考えずに済んだ。

だが、繁忙期に入り、1日10時間、12時間と働くようになると、彼女は心身ともに消耗しきってしまっていた。そして忙しい就業時間が終わり、一人自転車で家路に向かいながら、頬を涙がつたったことも一度や二度ではなかった。

年度末も差し迫ったある日——その日は偶然にも仕事が少なく、彼女は資料の整理に回されていた。そして各年度の書類を数十年分、まとめたファイルを見つけた途端、不意に恐怖に似た思いが頭をよぎった。このまま、この会社で40年、50年と働き続けるのか? 心も体もボロボロになりそうな、この仕事を続けながら? そう考えた途端、彼女は吐きそうになってしまった。休憩室に何とかたどり着くと、香夏子はうめくような声を出しながら泣き続けた。それは、心配した上長が様子を見に来るまで続いた。

香夏子はその場で、退職を申し出た。社長はとりあえず、病気療養のための休職扱いにしてくれたが、香夏子には戻る気はなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいだったし、なによりもう一度あの工場に戻れば、今度こそ心が壊れてしまいそうな、そんな気分に襲われた。


「……というのが、私がここにいる経緯です」

と、香夏子さんは言った。時刻は午前3時、こんな時間のコンビニでは、客は僕一人しかいない。

「そのあと、ここの店長に雇ってもらえました。お父さんの知り合いで、無理せず働けるようにしてくれたんです」

不意に、香夏子さんの胸元に合った端末が光った。彼女はそれを確認した後、僕に話しかける。

「お待たせしました。プリンターの不具合、解決したようです。いま、本部から連絡が来ました」

そう、僕がこんな時間にコンビニに来たのは、そこにあるプリンターを使うためだ。24時間稼働の会社に勤めていると、こんな時間でも営業しているコンビニはありがたい。

「ありがとうございます」

僕はそういって、プリンターに向かう。持ってきた資料をコピーしながら、僕は香夏子さんに話しかけた。

「皮肉なものですね。会社のコピー機が故障したりしなければ、ここには来なかった。ここのプリンターが正常だったら、香夏子さんから身の上話を聞くことはなかった」

「そうですね」

香夏子さんは微笑んだままだ。それはコンビニ店員として満点だが、旧友に再会した人のものとしては、少し不自然にも映る。

「香夏子さん、僕はあなたが、ここにいるとは思ってませんでしたよ」

プリンターから出てきた紙をまとめながら、僕は言った。

「あなたの成績はいつも上位でした。あなたはきっといい大学に行って、いい会社に行くか、学者にでもなるか……そう、そうなっているものだとばかり、思っていました」

香夏子さん、いや、香夏子先輩は、中学時代、塾の1年上の先輩だった。定期試験で80点以下を取ったことがないという秀才で、塾の先生はいつも、「なんでわざわざここに来ているのかわからない」と言っていた。高校に入った後は、再開することもなかったが……

「そうです、か」

香夏子さんは、不意にそういった。長い沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。

「……人生、何が起こるかわからないものです」

それだけ言って、彼女は口を閉じた。僕はいたたまれない気持ちになり、もごもごとあいさつをすると、そのまま店を後にした。


「……何が起こるかわからない、か」

便利な言葉だ。実質的には何も言っていない、ともとれるだろう。

しかし香夏子さんからその言葉を聞くと、他の人にはない、特別な重みがあるように感じられた。

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あるフリーターの独白 葉生 @yasheng

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