二 鏡の女
ただ玄関や廊下を見通せるというだけでもおもしろいが、より楽しめるのは誰かがそこを通る時である。ああ、妻が買い物に行くところだな……お、遊びに行っていた息子が帰ってきた……と、ほんとに家人の動向が手にとるようにわかる。
それはまるで他人の秘密を覗き見でもしているかのような、一種の優越感と蠱惑的な背徳心を与えてくれる……これを造った最初の持ち主も、この刺激的な遊びに密かな興奮を覚えていたことだろう。
……いや、そんな遊興目的ではなく、もっと別に館内を見張らなくてはならない特別な理由があったとか? それが破格の値段で売られていたことにも関係していたりして……そう考えると、なんだか急に薄気味の悪さを感じてしまう。
とはいえ、それでもやはりおもしろいので、その後も合わせ鏡のカラクリを楽しんでいたのであるが、ある日曜の午後、私はその鏡像の中に妙なものを見かけた。
「……? 誰だ?」
玄関に、見知らぬ女性が立っていたのだ。顔はよく見えないが、長い黒髪に白いワンピースの若い女性である。
チャイムの音はしなかったと思うのだが、昼間、玄関の鍵はかけていないし、誰かお客さんが入って来たのだろうか?
そう考え、しばらく眺めていたが、女性は玄関に直立不動のままであるし、気づいていないのか? 妻や子供達が出ていく気配もない。
「おーい! 誰かいないのかあ〜?」
誰も対応しないようなので、仕方なく私は書斎を出ると、階段を降りて玄関へと向かった。
「……あれ?」
しかし、玄関へ着いてみると、今見た女性の姿がない。
誰も出てこないので諦めて帰ってしまったのだろうか? それなら声かけてくれればよかったのに……いや。声かけたけど聞こえなかったのか?
まあ、帰ってしまうということは、さほど重要な用事でもないのだろう。なんだか狐に抓まれたような心持ちではあったが、この時はそれ以上気にすることなく、私は書斎へと戻った。
その後、夕飯の時にふと思い出し、心当たりはないかと妻に訊いてみたのだが。
「え? そんな人知らないわよ?」
その容姿を説明してみても顔見知りではないらしい。
ならばと念のため子供達にも確認してみるが。
「ううん。知らない」
「僕も知らないよ」
同じく心当たりはないようだ。
となると、セールスか宗教の勧誘か? 確かにちょっと宗教の人っぽくはあるかもしれない。
ともかくも、知り合いじゃなきゃ別に気にかけることもないだろう……そう、思っていたのであるが。
「……ん? あれは……」
その翌日の夜、またもあの女性の姿を鏡の中に見かけたのだ。
しかも、今度は玄関ではない。一階の廊下が映る角度で見た際に、その廊下に立っていたのである。
今日もただそこに立っているだけだが、玄関を通り越して廊下まで侵入してくるなど、宗教だかセールスだか知らないが失礼ではないか! しかもこんな夜中に……。
私は怒りを憶えながら、急いで書斎を出ると階段を駆け降りた。
「……あれ?」
しかし、一階に降りて廊下を見通すも、前回同様、女性の姿はない。玄関にもいないし、周囲の部屋も探してみたが、まったくどこにもいなかった……。
おかしいな……妻を見間違えたのだろうか? ……いや、確かに白いワンピースのあの女性だったと思うが……。
「なあ、今、女が入って来なかったか? 昨日話してたあの女だ」
「女? いいえ、誰も来てないわよ?」
キッチンにいた妻にも確認してみるが、やはり見てはいないようだ。
おかしいな。確かにいたはずなんだが……そういえば、日中と違って夜は玄関に鍵がかかっている。勝手に入ってくることなどできないはずである。
一度ばかりか二度も消えたし、まさか、生きてる人間じゃないんじゃあ……。
そんな疑念を抱くと、なんだか急に怖くなってきて、背中には冷い嫌なものが走る……。
「あなた、どうしたの? 顔色悪いわよ?」
血の気の失せた私の顔を見て、怪訝そうに妻が尋ねる。
「……い、いや、なんでもない。たぶん、気のせいだ……」
正直に話そうかとも思ったが、いたずらに怖がらせてもなんだ。私はとりあえず黙っておくことにした。
子供達にも言わない方がいいだろう。おばけが出るなんて知ったら、怖がって引っ越したいなんて騒ぎかねない。
それに、あの女を鏡の中に見てはマズイので、念のため、妻と子供達にはあれこれ理由をつけて、できる限り書斎の鏡を覗かせないようにした。
その甲斐あって、私以外の家族がこの現象に悩まされることはなかったが、一方の私はというと、その翌日の夜にもまた女性を目撃することとなった。
「……!? 嘘だろ?」
その晩も、なんとなく習慣で鏡を覗き込んだ私の目に、あの白ワンピースの姿が映ったのである。
しかも、今度は玄関でも廊下でもない……女は階段の踊り場に立っているのだ。
少し怖くはあったが、私は部屋を出ると階段へと急いだ。
その心の内では、せめて実際にもそこにいてくれと願っていたりする……いたらいたでそれも嫌だが、生身の人間である方がまだマシだ。
「……!」
しかし、私の密かな願いも虚しく、やはり女性の姿は階段からかき消えていた。
書斎から階段まではわずかな距離しかない。どんなに素早く移動したとしても、立ち去る足音ぐらいは聞こえたはずである。
だが、足音どころか物音一つ聞こえはしなかった……私の背中に、またしても冷たいものが走る。
予感はしていたが、これでもう三日連続である……しかも、最初が玄関、次の日は一階の廊下、そして今日は階段…と、これって、だんだんと書斎へ近づいてきていないか?
まるで〝だるまさんが転んだ〟でもしてるかの如く、私が合わせ鏡の中にその姿を見る度、女は徐々に徐々に、私のいる書斎へと鏡の向こう側を近づいて来ているのである。
……だとしたら、今、この時も鏡の中には……。
幸い、鏡像の世界にも女の姿を認めることはできなかった……一昨日・昨日も、玄関や廊下にある鏡には映っていなかったように思う……もしかすると、合わせ鏡を通した時にだけ見えるのか?
なら、書斎の鏡から覗けば、まだ女はここに……。
そこに思い至ると、この場に留まることは無論、あの鏡に近づくことすら恐ろしく感じ、その日はもう書斎へ戻ることなく、そのまま寝室へ向かって早々布団に潜り込んだ。
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