黒猫ミクロンとぼくの旅

彩葉陽文

本当にあった怖い名無し

 これは私が実際に体験した、不思議な話。

 というか腑に落ちない話。

 明らかにオカルトな何かだと思うのだが、なぜだか私は、それに対してまるで恐怖は沸いてこない。


 会社が終わって同僚と飲んで、酔っ払って帰ってきたある週末の晩のこと。

 着替えるのもおっくうで、廊下に倒れ込むように寝ていたら、チャイムの音。

 こんな時間にどいつだと思いながら玄関を開けると、弟がいた。


 こんな時間にどうしたんだと言ったら、友達と遊んでて終電が無くなったんでアパートに泊めてくれと。

 事前に連絡してこいとか、無計画に遊んでるんじゃないとか、色々説教すべきだったんだろうが、酔ってたせいか、生返事で了承してしまった。


 一人暮らしのアパートの部屋は、朝、私が出て行った時のままで散らかっていた。

 散らかり具合を見て、弟は少し呆れていたが、窓を開けると手際よく片付けを初めて、気づいた時にはテーブルにお茶が並んでいた。

 お前は、オカンかと思った。

 んで、順番に風呂に入った後、もう夜も遅いってことですぐに寝た。

 当然私はベッドで、弟はソファーで。


 次の日は休日だったが、弟は友達と約束があるとかで朝早くから出て行った。「行ってきます」と言って。


 私は二日酔い気味なこともあって、弟を見送ったあと、すぐに二度寝して、起きた時は正午を廻っていた。


 そう言えばアイツ、実家には連絡してあるんだろうなと、今更ながらに思い当たって、両親に電話をしようかと携帯を取り出した時のことだった。


 ――唐突に思い出した。



 私に、弟は、いない。



 明らかに夢ではなかったはずなのだが、呼んでいたはずの弟の名前も思い出せない。

 いや、呼んでいたのかどうかも曖昧ではっきりとしない。

 顔は思い出せる。

 くっきりと。

 今でも一目で見分けつくだけの自信がある。

 けれども確かなのだ。確かに、私に、弟はいない。

 そもそも昨夜の話では、終電に乗り遅れたから帰れないとのことだったが、実家は終電に乗り遅れた程度で帰れなくなるような土地にはない。

 詳細は省くが、県外だ。

 終電どころか、午後八時頃までには新幹線に乗ってないと帰り着けない。

 なのに、そんなどう考えてもおかしな弟の言い分を、例え酔っ払っていたとはいえ、何の疑問も持たずに受け入れてしまったのか。

 どういうことだ?

 私の頭がおかしくなってしまったのか?

 携帯を取り出したものの、もうどこにも掛ける気はなくなってしまった。


 白昼夢でも見たんだ、と思って忘れようとした時、私は見てしまった。


 キッチンの食器乾燥機の中に、二人分のコップが並んでいることを。


 コップは洗ったばかりのようで、埃はひとつも着いていない。

 だから洗われたのはつい最近で、逆に言えばつい最近コップを二つも使う用事が、この部屋であったということなのだろう。

 恋人などいない私には、そんな用事は存在しえない弟の一件以外にありえない。

 だから、弟は確かにこの部屋に来て、一晩泊まって、帰っていったのだ。

 どこにもいないはずの弟が。


 名前も何も知らないけれども、その顔だけははっきりと覚えている。

 だからまたいつか、どこかで会ったならば、私は何の疑問も持たず彼を『弟』だと認識してしまうだろう。

 そして昨夜と同じように、普通に受け入れてしまうだろう。

 怖いとか、そんなのはまるでない。

 なんだかすごく懐かしい、不思議な気分になるだけだ。


 またいつか、弟が扉を開けて帰ってくるのだ。


「兄さん、泊めて!」と。


 そして私はそれを、今日と同じように当たり前のように受け入れてしまうのだろう。


 名も知らぬ、存在しない弟を。

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