生命、果つ後
湯本優介
生命、果つ後
老竹神社の拝殿の横にそびえている大きなりんごの樹は、私共の良い目印でした。幼少期、放課後に遊ぶ約束をしたのなら、誰からいわなくとも、決まってそのりんごの樹の下に集まりました。いつからあったのか、誰が植えたのか、誰が管理しているのか、なんの目的で植えたのか。果樹ですから、こんな山の中にひとりでに、それでいて孤独には生まれません。少なくとも私が生まれた時には、すでにあったと聞きます。園に植えてあるものであればとっくに老木期に入っているはずなのですが、それなのにこうも生き生きと実をつけるものでしょうか。きっと手入れをしている方が非常に気を使っているのでしょう。丹念な人の営みのお陰で私共の青春があったかと思うと、その方への感謝の気持ちで胸の内がいっぱいになります。
そんなりんごの樹と共に年を重ね、気づけばもう三十五歳。この二十数年で大きく時代は変わってしまいました。当時に比べ、山に足を運ぶこどもはもうほとんど見なくなったように思います。まあ、ここ数年の異常気象、立て続く地震、そういったものの影響をもろに食らって、小学生のこどもが近づくにはいささか危険になりすぎましたから、無理もないでしょう。こんな場所に訪れるのはもう、あの頃の感傷に浸りにきた物好きな大人一人と……
「うにゃあお」
それと、猫一匹くらいのものです。猫は、思いのほかきれいな拝殿の石段に、日向を受けて横たわっていました。太陽の光を浴びて、灰色の毛がいっそう白ばんでいました。
「ほら、食べるかい」
野良猫にやるため懐に入れていたイワシ缶をひょいととりだし、その猫の前に突き出してみせました。しかし猫はごろごろと唸り、ひとたび「うにゃあお」と鳴いてそれに目をやったかと思えば、つまらなさそうな顔を浮かべて、それから目を閉じてしまいました。
「そんなもんは食わんよ」
突然、後ろから声がしました。活力のない枯柳のような声。振り返ってみた時、私は始め、木の葉の散った細い木が立っているのだと思いました。しかしそれが人だと気づいてからは、さっきまでどうして木に見えていたやらわからなくなってしまったのです。老人は猫の方へ近づくと、手に持っていたなにかをその猫の前に置きました。皿。その上にはアップルパイが乗っていました。皿からは少し離れたところにいましたが、火を通したりんごの心地良い匂いが漂ってきたので、焼き上がったばかりだとすぐにわかりました。猫もその芳醇たる匂いを嗅いだのか目を覚まし、眼の前に置かれているアップルパイを、チロチロと舐め始めました。
「こいつはな、生まれた頃から普通のもんを食ってこなかったから偏食なんだ。市販の餌にはまず食いつかない」
「猫にアップルパイって、いいんですか……?」
「さあな」
「さあなって……」
「正確にはこれしか食わないんだ。昔はもうちょっといろんなもんを食べたんだがな」
「へえ……」
まとまらない返事をしてなんだか気まずくなってしまい、それからはしばらく静かな時間が流れました。その間は、猫がアップルパイをもしゃもしゃと食べている様子を、二人で眺めているだけでした。猫はパイを一噛みする度、それを口の中で咀嚼するのでした。一齧りして、もしゃもしゃもしゃもしゃ。一齧りして、もしゃもしゃもしゃもしゃ……。人生で初めて、時間が一秒一秒しっかりと流れる感覚を味わいました。
「……今日は、どうしてここに?」
次第に心地良くも感じ始めていた静寂でしたが、板が外れて話しだしたのは私の方でした。私という人間はつくづく社会人なんだとおもいます。
「今日は、もなにも俺は毎日ここに来てるんだよ。それを聞きたいのは俺の方なんだがね」
「ああ、そうでしたか。失礼しました」
「失礼だと一言でも言ったか?」
「……すいません。ただの、懐古心です。小学生の時分に、何度もここを訪れていたものですから」
老人は怪訝そうな顔を浮かべていました。どうも、私とはあまり会話する気がないようです。ざざあ、と、向かい風が吹きました。それを好機と思った私は、身を翻し、その風にのるように引き返しました。
「また去っていくのかい」
足を止めてしまいました。老人の声を聞いたからではありません。好機の風が、また向かい風になったのです。風が、突然向きを変えてしまったのです。
「また、去っていくのかい……」
「また、というのは?」
「……」
老人は何も言いませんでした。猫の前にかがんでいた老人の表情は見えませんでしたが、「マタ、サッテイクノカイ」という彼の言葉は、どこか悲痛を帯びていました。
「また……?」
「なんでもない。悪かったな、引き留めて」
「悪いだなんて一言でも言いました?」
「お前」
「話してください。引き留めて申し訳ないと思っているのなら、その責任を果たしてください」
老人は、大きくため息をつきました。そして、猫がアップルパイを完食したのを見届けると、皿を回収してどこかへ歩き出しました。しかし、その足は、あのりんごの樹を前にして、すっかり止まってしまったのです。
「……五十年」
「え?」
「俺がこの場所に通い始めて、もう五十年は経ってる。お前のことを覚えてるわけじゃないが、お前達くらいの世代がここに集まって遊ぶようになってから、ここを去っていくまで、間違いなく全て、この目で見てきた」
「ああ、それで『また』と……」
その時、猫がこちらにやってきて、「うにゃあお」とひとたび鳴き、老人の足に頬ずりを始めました。寝ていたときと同じくらい朗らかな顔を浮かべながら。
「ずいぶん、懐かれてるんですね」
「まあ、五十年以上の付き合いだからな」
「え」
「わかってるさ、馬鹿げたことを言ってる。……もう全部、話す気になったんだよ」
そういうと、老人は猫を抱き上げました。猫は老人の腕の中で、たいそう心地よさそうに丸まっていました。老人は少し腕を伸ばし、樹になっているりんごの実を一つもいでみせました。
「……一つ、聞きたいことがあります。この樹を世話しているのは、あなたですか?」
「ああ、俺だ。植えたのもそう。ただ、ここまで育てたのは俺じゃない」
「どういう意味です? 手入れをしているのに、育てたわけじゃない?」
「……五十五年前、十一歳の頃、俺達はこの場所に初めてやって来た」
老人の口調は、それまでとは打って変わって、少しの悪意もなく、朝霧のようにすっきりしていました。
「気の良い友人と二人でな。この場所は当時人気のない場所で、俺とそいつはここを秘密基地みたいにさ。どこの子供だってそれくらいするだろう?」
老人の表情は見えませんでしたが、笑っていることは伝わって来ました。老人が話している間、りんごの樹は、たちふく風にさらされて、頷くようにその葉を揺らしていました。
「わかるかい、当時の社会がさ。あの頃は、どこもかしこも東京オリンピックの話で持ちきりだった。俺たちだってそうさ。そんで、それに向けて街のいたるところで工事がされてったんだ」
日本の戦後の高度経済成長。それを大幅に加速させたのは、紛れもなく東京オリンピックの存在です。東海道新幹線、首都高速道路などの都市インフラが、日本の世界での地位回復に、どれほどの影響をもたらした事でしょうか。しかしそれは、良い影響に限った話でも無いのでした。
「消えたよ、遊び場が。俺達の街から。だから、ここを見つけた時は、ほんと、誇張抜きに、跳ねて喜んだよ。俺たちにとってここは、『宝物』だった」
「それじゃあ、あなたも当時を懐かしんでここに通っていらっしゃるんですか?」
「まあそれもあるんだけどさ。一番は、あいつに会いに来るためかな」
「あいつ……話からすると、お友達のことですか? お姿は見えませんが」
「死んじまったからな、五十年前に」
すぐ「しまった」と思いました。しかし、老人がそう話す声は気落ちしているものではなく、実際空気が重たくなることもありませんでした。もう何十年とその事実に向かい合って来たのだから、当然と言えば当然かもしれませんが、その時ばかりは私も、老人の器の大きさを感じずにはいられませんでした。
「でもさ、こころのどっかで、それを予想してたんだろうな。あいつはさ、死ぬ前に、俺だけに言ったんだよ。『死んだらあの神社の横に埋めてくれ』ってさ」
老人は猫を抱いたまま、ずんと太いりんごの樹の幹を、べんべん叩きました。改めて、なんと生命力に溢れた樹なんでしょう。それはまるで、木の下に埋まっている彼が、自己表現をしているようにも見えました。
「このりんごの樹は、埋めた場所の目印なんだ。不思議だろ? 五十年前に植えた果実の樹が、まだ実を作るんだぜ。きっと、あいつが力をくれてるんだろうな」
手に持ったりんごをこちらに投げ、老人は、毛並みに沿って、猫を優しく撫でました。あいもかわらず、猫は心地よさそうにしています。
「こいつとは、俺と友人がここにやって来て一年くらいの時に出会ったんだ。そん時はまだ子猫で、でも、周りに親猫は見当たらなかった。俺は構うことは無いって言ったんだが、友人の方は、可哀想だっつってよお。猫が何を食うのかも知らねえのに」
老人は、淡々と話し続けました。友人が手当たり次第に色々食べさせようとしたこと。不思議なことに、猫はそれらを嫌がらずに食べたということ。特にアップルパイをよく食べたから、植えるのをりんごの樹にしたのだということ。どの思い出も、それが命を持って生きているかのようにくっきりと映像が浮かび上がってきて、五十年の時を経ても、まるで霞んでないのだと伝わってきました。気づけば、私の眼の前には、過去に思い馳せるしわの深い老人ではなく、今を全力で生きる活気あふれた少年が立っていました。
「こいつも、あいつのことを待って、五十年も生きてくれてるのかなあ」
「それは違うと思います」
「え?」
「きっと、あなたを一人にしたくなかったんだと思いますよ」
「そうなのか?」と尋ねるように、老人は猫に視線をおくりました。猫は、「うにゃあお」と、ひとたび鳴きました。それが返事なのか、たまたま鳴いただけなのか、真相はわかりません。ただ、老人は、とても満足げでした。
「……秘密基地って言ったけどさ、正直、嬉しかったよ。子どもたちがこの樹を目印にして、この場所に集まってくれるのは。だってそれって、あいつが必要とされてるみたいだろ。あいつが意味を持ってここに居るのが、俺は嬉しかったんだ。でも」
「こども達は、いなくなってしまった」
「……」
老人は、俯いてしまいました。私が同じ立場でも、そうしたと思います。掛ける言葉も見つからず、またしばらく静かな時間を過ごしました。
「来るも去るも、すべて見てきた。俺ももう、どのくらいここに来れるかわからない。あいつの周りに、もう誰もいなくなる。誰も……」
ぶわっと、向かい風がふきました。どうしようもなく強い、向かい風が。私は、足の指に、ぐぐっと力を込めました。吹き飛ばされないように。流されないように。
「おじいさん。ご家族はいらっしゃいますか?」
「娘が一人いるが、それがどうした?」
「おじいさんが死んだ時、娘さんに、私に連絡するように頼んでいただけませんか」
「別に構わないが、お前、何を考えてる?」
「……なに、責任を果たすだけですよ。あなたの大事な話を聞いてしまった責任を」
十年後、とある病院で、事件が起こりました。病で命を落とした一人の老人の遺体が、霊安室から持ち出されたそうです。
人の気配が全く無い、山奥にある老竹神社というところに、もう果実をつけることのない、老木となった二本のりんごの樹が立っていました。
生命、果つ後 湯本優介 @yusuke_yumoto
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