第18話 見えない壁と揶揄にも立ち向かう意志
春の陽光が差し込む王政事務局の執務室。
マリアベル・クラヴィスは、他部署から回された書類に目を通しながら、手元のペンをぎゅっと握りしめた。
今朝の人事通達――
補佐官見習いの同期のうち、三名が「補佐官」に昇進していた。
いずれも男性。いずれも、マリアベルと同時に配属された者たちだった。
「女性だから、仕方ない。焦ることはないさ」
上司の一人がそう言って肩を叩いたのは、励ましのつもりだったのだろう。
けれどその言葉は、マリアベルの胸に重く沈んだ。
(……女性だから、仕方ない)
あれほど努力しても、結果を出しても、「仕方ない」で片付けられる。
声を荒げたくなった。でも、立場がそれを許さない。
(負けない。けれど、悔しい)
* * *
王宮の奥深く、文書閲覧室の一角。
クラリッサ・リースは、一枚の報告書を黙って読み終えると、静かに椅子に身を預けた。
ドルメン事件の顛末。
春の人事で、マリアベルが昇進から外れたこと。
どちらも、既に彼女の耳には届いていた。
(――踏ん張りどころ、ね)
彼女はゆるく目を閉じる。
助言の機会がなかったわけではない。
だが、あえて声をかけるのを避けていた。
マリアベルの方から何かを言ってくるまでは、こちらから寄るのは違うと、そう感じていた。
(甘えさせることと、信じて待つことは違う)
痛みも、悔しさも、一人で抱えた分だけ強くなる。
それは、かつての自分が通ってきた道でもあった。
「……やれるわよ、あの子は」
小さく呟くように言って、クラリッサは書類を重ねた。
信じているのだ――あの娘が、真正面から現実を見据え、負けずに立ち続けられることを。
* * *
その日の夕方、マリアベルは王都記録局の別棟にいた。
女子教育改革案の「第2段階」――現地連携案の検証に入るため、アイリスに追加の統計を依頼していたのだ。
「……マリアベル、今日の人事の件、聞いたわ」
アイリスは静かに口を開いた。彼女の顔には怒りがなかったが、その分、重い共感が滲んでいた。
「あなたは何も間違ってない。
私たちの提出した改革案、確実に進んでる。なのに、“女宰相見習い”なんて言われる筋合い、どこにもない」
その言葉に、マリアベルは思わず笑ってしまった。
「……誰がそんな呼び方を?」
「一部の男性補佐官の間で、皮肉混じりにね。でも、笑い飛ばせる強さが、あなたにはある」
* * *
翌日。
「セラフィーナ、来てくれたの?」
報告書作成のために貸し切った応接室に、教育局勤務のセラフィーナが姿を見せた。
「当たり前でしょう。女子教育支援機構の現地職員たちの追加報告、持ってきたわ」
彼女の資料には、郊外に設けられた簡易学習所の進級率データ、保護者への意識調査結果、さらに生徒たちからの“学びへの感想”が添えられていた。
「『学校に行けるだけで嬉しい』なんて、今の時代にそんな声があるなんて思わなかった」
「……だからこそ、制度の側から変えなきゃいけないの」
マリアベルの声は、静かだが確かな熱を帯びていた。
「成果で証明するしかない。『女宰相見習い』が、ただの揶揄で終わらないように」
セラフィーナは頷き、アイリスは新たな統計資料を机に置いた。
三人は言葉を交わさずとも、同じ目標を見つめていた。
* * *
一週間後。
提出された中間報告は、ヴァレンティス宰相の机に届いていた。
そこには現地調査、制度的盲点の指摘、そして地域住民との連携による支援制度の試案が詳細に記されていた。
宰相は、黙ってそれを読み進めた。
そして、書類を閉じると、短く呟いた。
「……積み上げたか。“見えない壁”の前で、立ち続けて」
傍らに控えていた側近が言う。
「しかし、今回の人事でマリアベル殿が昇進しなかったこと、あちこちで波紋を呼んでおります」
「意図的だ。見たかったのは、“どこで折れるか”――だが、折れなかったな」
ヴァレンティスは、ほんのわずか微笑んだ。
「女宰相見習い――良い皮肉だ。
ならば見せてやれ。女が、どこまで宰相の器に届くかを」
* * *
それから一ヶ月。
マリアベルの草案に基づき、王都近郊での女子教育支援制度の「試験実施」が決定された。
対象となるのは、家計や文化的背景から教育の機会を奪われてきた少女たち。
無償提供される初等教育の場と、保護者への啓発プログラム。予算は限定的だったが、仕組みとしては大きな第一歩だった。
その準備会議でのこと。
「報告書、通ったの?」
セラフィーナの問いに、マリアベルはゆっくりと頷いた。
「ええ。……“試験的措置として、年度内に施行”。次の本会議で予算枠が組まれる予定」
「やったじゃない。ちゃんと実を結んだのね!」
アイリスも珍しく声を上げた。
「いずれ拡大されれば、記録局の基準改定にも影響が出る。……前例になり得るわ」
三人は静かに手を取り合った。
制度のために、誰かの人生の可能性を開くために。
そして何より、声なき者たちの未来を、少しでも明るく照らすために。
* * *
報告書の最後のページ。
署名の欄に、自分の名を書き記しながら、マリアベルはふと父のペンを見下ろした。
もう、あの失敗を恐れてはいない。
(“訂正されない”ことが、誇りなのではない。“訂正してでも、前に進めること”が、私の誇りだ)
女宰相見習いと揶揄されても構わない。
それが、この国にとって意味ある一歩であるなら。
マリアベルは、そっとインクの乾いた報告書を閉じた。
「まだまだ、これから」
誰に聞かせるでもなく、微笑みながらそう呟いた。
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