第3話 なにかがへんだ

 自宅まで走って、カスミはようやく生きた心地がした。はぁはぁと肩で息をしながら、自宅のドアを音もなく開ける。しかし、そこで妙に頭が冷静になっていく。忍び込んだ教室の窓の下に、自分たちの靴を置いてきてしまった。裸足で駆けてきたせいで足の裏がじわりと痛む。足裏を持ち上げて見てみれば、皮が剥けて血だらけだった。

 だが、今はそれよりも、靴だ。あの窓の下に、五足の靴が綺麗に並んでいる。きっと明日には自分たちが深夜の学校に侵入したことがばれて、教師に大目玉を食らうだろう。下手をしたら、退学だ。

 証拠を隠滅するのなら、いまから学校に引き返すしかない。しかしそれは、あの不可思議な現象がおきたあの学校に、ひとりで行くことを意味している。カスミは幽霊なんてものは信じていない。それは今も変わらない。だが、あの声と音はいったいなんだったのだろうか。思い出すだけで鳥肌が立つ。靴を取りに行かねばという思いと、得体の知れないものへの恐怖が綯い交ぜになる。


「どうしよう」


 スマホを取り出して佐奈たちに連絡をするも、返事はない。佐奈、かえで、理沙、恵美子。グループ。そのどれに連絡しても、なんの返事もなかった。玄関に立ち尽くして、スマホを睨むように見る。引き返すなら今しかない。現在の時刻は深夜三時。理沙はタクシーに乗れただろうか。佐奈は学校から近いからいいが、隣町のかえでと恵美子は、まだ移動途中だろうか。


「あーもう、連帯責任だから!」


 結局、ひとりで学校に戻る勇気はカスミにはなかった。不可解な現象の正体が、幽霊以外のなにかだとしても、その原因がわからない限り、対処のしようがない。そう、言い訳をして、カスミは家族にばれないように、深夜の自宅に消えていく。玄関の鍵をそっと閉めて、二階の自室へと抜き足で歩く。ベッドに横になり布団を頭から被っても、あの声が近くに聞こえるようで眠れなかった。


 翌朝、怪奇クラブのメンバーは再び顔を合わせた。朝は八時、始業が八時四十分だから、登校にははやい時間帯だ。クラスメイトは一割ほどしか教室にいないのに、怪奇クラブのメンバーは、みんながみんな、登校を終えていた。


「おはよう、カスミ。昨日は眠れた?」

「あ、ああ。おはよ。そういう佐奈こそ、眠れてないんじゃない? クマすごい」


 お互いがお互いの顔を見て、昨夜は眠れなかったであろうとすぐに察した。佐奈だけではない、恵美子もかえでもまた、昨夜は眠れなかったようで、ひどい顔をしている。恵美子とかえで、理沙は隣のクラスだが、部室以外で会う時は、部長の佐奈の顔を立てて、佐奈のクラスに集まる。誰が言い出したわけでもないが、暗黙の了解だ。


「なんかさ、今朝朝イチで私らの靴、回収しに行ったんだけど」


 佐奈はカスミの机に座りながら、ひそひそ声でカスミに耳打ちする。思いもよらない言葉に、カスミの顔が驚きに染まった。昨夜、カスミが連絡したのを、朝になって確認したのだろうか。だったら、朝早くでもカスミに連絡のひとつもくれたらよかったのに。


「靴、カスミが先に回収した? あと理科室のドア。カスミが蹴破ったじゃん。直したの?」

「え、私じゃない。恵美子じゃないの?」

「ううん、恵美子もかえでも違うって。理沙も違うって」


 佐奈は顎に手を当てて、うーん、とうなる。一応、部長だから責任感を感じているらしい。カスミより早くに登校して、昨日の痕跡を消すために奔走してくれたらしかった。でも、水臭い。運命共同体なのだから、頼って欲しいという気持ちもあった。


「だからさ、ばれるの覚悟でタケセンに聞きに行ったんだけど。私らの靴、教師が回収したわけでもないみたいなんだよね。ドアも外れてないって」

「え、なにそれ。やめてよ」

「やめてもなにも。ほんとのことなんだから仕方ないじゃん」


 青ざめた佐奈の言わんとしていることは、カスミにもなんとなくわかった。つまり、神隠しにあった、そう言いたいのだろうが、あいにくカスミはそんなことは信じない。傍ら、恵美子はかえでと手を握りあって卒倒しそうに血の気が引いていた。だからカスミは、みんなを安心させるために、なるべく抑揚のない声で言葉にする。


「用務員さんが片づけたんじゃない?」


 今まで黙っていたかえでが、恵美子を庇うように前に出た。まるで、アンタのせいと言いたげに、カスミを睨んで見上げている。ポニーテールがゆらりと揺れた。


「本当にそう思ってる? 言わないだけで、私も体の節々が痛いしだるいし……昨日のアレは、じゃあなんだっていうの!」

「だから、そういうのほんとにやめて」


 カスミがきっぱり言うと、かえでは素直に従って口を結ぶ。だが、カスミだってわかっている。仮に用務員が自分たちの靴を見つけたら、それこそ教師に告げ口されて、大問題になっているはずだ。理科室のドアだって、蹴り破ったままで出てきてしまった。あのドアは、異空間にでも消えたというのだろうか。それとも、蹴破ったドアがこの世のものではなった?

 現状、カスミたちになにもお咎めがないのは、靴が消えた、なおかつ理科室のドアがひとりでに直ったということ以外に、理由は思い当たらない。カスミが身震いする。


「おはよう、カスミ。それに佐奈も……」


 憔悴しきった顔で挨拶をしてきたのは理沙である。この一日ですっかりやつれたようにも見える。たった一日、されど一日。あの恐怖を考えれば自然なことかもしれないが、それにしても、顔は土色であるし、いつもリップクリームでふっくらしていた唇も、今日はカサカサでどこか青い。理沙はことさら怖がりだから、登校自体をためらったようだった。いつもなら八時二十分にはカスミのクラスに来るのに、今は始業ギリギリの八時四十分だ。怪奇クラブのメンバーと顔を合わせたくなかったのは明らかだった。


「理沙、大丈夫?」

「うん、大丈夫」


 理沙の力ない返事に、カスミは思わず理沙の背中をさすってやる。理沙の体が震えていた。カスミを責めるように、かえでが恵美子を後ろに隠した。かえでにとって恵美子は特別で、カスミなんかには計り知れない絆がある。


「なんか、すごく疲れた顔してるじゃん」

「うん、まあ……今朝ね、佐奈とあとかえでも恵美子もなんだけど、四人とも朝早くの学校に登校してさ。四人で靴探したり、理科室のドアを直そうと思ったんだけど……」


 そこまで言って、理沙は口を結んだ。これ以上はなにも言いたくない、そんな雰囲気に、カスミまでもが飲まれてしまう。

 そもそも、カスミ以外は昨夜の不法侵入の形跡を消そうと朝早くに学校に来ていたことに、カスミは居心地の悪さを感じた。

 四人で示し合わせたわけではなさそうだが、自分にも一言声をかけてくれたらよかったのにとも思う。それに、さっき佐奈と話した時、佐奈はほかのメンバーも朝早くに登校したことを黙っていた。カスミだけが蚊帳の外で、悔しくて唇を噛み締めた。確かに、カスミは怪奇現象を信じていないと常々言ってきたが、だからって、隠しごとをすることはないじゃないか。佐奈は気遣ったつもりなのだろうが、カスミの胸が曇っていく。


「カスミ?」

「……佐奈、さっきの話で、かえでと恵美子と理沙も、朝早くに来てたこと、なんで黙っていたの」

「ご、ごめんって。だって、なんか悪いし……昨日、カスミが靴をひとりで回収してくれたのかなって思ったし」


 佐奈を責めているのは、自責の念から逃れるためだ。カスミがあの鏡を見に行くなんて言ったせいで、怪奇クラブのメンバーがぎくしゃくしてしまっている。

 しかし、結果的に靴は見つからなかったわけだし、理科室のドアもどういう理由かはさておき、教師にばれなかったのだから、万事うまくいっているとカスミは思うことにした。

 かえでが佐奈に視線をやり、しかし佐奈が小さく首を横に振る。それがなにを意味していたのか、カスミは深く考えなかった。きっと、昨日のことを思い出しているだけだろう。佐奈はかえでとも仲がいいから、昨日家に帰った後、ふたりで一晩中ラインをしていたに違いない。そのラインで、一目散に逃げたカスミや、恵美子や理沙が必死に逃げ惑うさまに、ふたりで文句を言っていたのかもしれない。女の友情なんてそんなものだ。カスミはすうと息を吸い込む。大丈夫、自分は上手くやれている。

 勘ぐりすぎなのはわかっている。だが、カスミ自身も、昨日のことは不本意であった。我先にと逃げた自分自身をあさましくも思ったし、しかしそのことについて、恵美子も佐奈も理沙も触れない。あのかえですらカスミを責めないのだから、カスミは黙り込んで俯くしかなかった。

 昨日のことは忘れたい、それは五人に共通する思いだ。だから三人は、それ以上の会話をやめたのだった。


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