第2話 謎の声

 二階の廊下をまっすぐ進んで、突き当りに理科室がある。ここまできて、さすがのカスミもやや緊張の面持ちになる。冷や汗が流れ、カスミは喉を鳴らした。

 理科室の中には不気味なものがたくさんある。今にも動き出しそうな人体模型に、蛇やネズミのホルマリン漬け。薬品の匂いが鼻につく。ホルマリンに漬けられた動物たちが、恨めしそうにこちらを見ている。今にも動き出しそうだった。

 その異様な雰囲気を通り抜けて、理科準備室へと五人で入る。理科準備室に行くには、理科室を経由する必要がある。理科準備室は今は物置のようなもので、理科に関係するものも、しないものも山積みにされている。その中に、怪奇現象のあの伝記があったというわけだ。

 所狭しと資料が山積みにされた理科準備室の中、その壁際にある大きな鏡。五人並んでもゆうに全員が映し出される、大きな大きな鏡だ。この鏡は、ひとりでは移動できない。カスミたち女子高生なら、三人か四人で持ち上げなければ運べないだろう。

 昼間に何度かその鏡を覗いたことがある。理科準備室の七不思議に、この鏡があるからだ。大きな鏡は、ところどころ垢にまみれて、光を当てると濁りがあった。だが、その時はまるでなにも感じなかったというのに、やはり夜というシチュエーションだけでその異様さが際立った。大きな鏡を、なんのために理科準備室に置いているのだろうか。ひとの身長ほどの高さと、怪奇クラブのメンバー全員が映れる幅を持った鏡だ。

 先ほどまで威勢の良かったカスミでさえ、その場に立ちすくみ、ごくりとつばを飲み込んだ。昼間は夏のように暑かったのに、夜はまるで温度を感じない。むしろ寒いくらいだった。カスミの足が止まる。佐奈も恵美子も理沙も、かえでも、布がかかった鏡の前に集まった。

 五人は一か所にひと固まりになって、布のかぶせてある鏡の前で立ち尽くす。足が震えてくる。さしものカスミでさえ、その吐息が震えていた。誰かの喉から空気だけが漏れた。


「ね、ねえ、やっぱりやめない?」


 そう切り出したのは、佐奈であった。このネタを持ってきた張本人が怖気づいたのでは意味がない。佐奈が怖気づいたことで、逆にカスミは少しだけ冷静になれた。一方かえでは、ここから引く気はないと言いたげに、鏡をじっと凝視している。

 だが、カスミとかえで以外のメンバーは、佐奈に賛成だといわんばかりにうなずいている。

 カスミの気持ちが一瞬ゆらいだ。しかし、かえでの凪いだ声が、カスミを現実に引き戻した。


「なに言ってんの。ここまで来たんだから、私は悪魔、見るよ」


 かえでが啖呵を切る。カスミはかえでを見て、うなずいた。普段はふたりともあまり話はしないし、仲もいいとは言えないのに、こういうときは、お互いがお互いに信頼できる。ふたりともリアリストなのだ。

 だが、佐奈をはじめ、恵美子と理沙は、カスミの後ろに隠れるように、びくびくと体を縮こませて、鏡を見ようともしない。かえでが鏡の布に手をかけた。


「今何時?」

「いま……二時になる五分前……ね、ねえ、やっぱりやめようよ、なんか変だよ、この理科室」


 佐奈がとうとう弱音を吐いた。

 なにが変だというのだろうか、夜というだけでひとは弱気になる。なにも、鏡から悪魔が出てきて食われるわけでもないし、そもそも悪魔が見えるなんて嘘っぱちに決まっている。かえでが右の端の布を、カスミが左端の布を掴んだ。

 カスミは深呼吸する。かえではカスミに合わせて、呼吸を合わせた。


「佐奈。二時までカウントダウンして」

「カスミ、私帰りたい!」

「いいよ、じゃあ私とかえでで見ていくから」


 強気なカスミとかえでに対し、ほかのメンバーは帰るに帰れない。本当は今すぐにでも駆け出したいのだが、ひとりで帰る勇気はない。なにより、ここでひとりだけ先に帰ってしまえば、その後のクラブ活動できっと、卒業するまでずっと、嫌味を言われ、あざ笑われる。アイツは根性なしの怖がりだと。

 女の意地かもしれない。恐怖より、命より、付き合いを選んだ。カスミとかえでが布を握る手に力を込めた。赤い布だ。鏡に反して、まだ新しい。誰かが最近、この鏡に布を被せたのだろうか。理科準備室に悪魔がでるからと、生徒を奪われないために鏡を隠したのだろうか。


「あ、あと十秒……」


 九、八……。

 佐奈のカウントダウンに合わせて、カスミは鏡にかかった布に意識を集中する。それはかえでも同じく。そうして、佐奈が、震える声で、


「一……ゼロ」


 びゅっとふたりが布を引っ張る。思ったより簡単に暴かれた鏡が、夜の闇に晒し出された。

 バササ、と翻る布の音に、カスミの後ろに隠れる理沙、恵美子、かえでは「きゃああ!」っと悲鳴を上げた。その悲鳴すらカスミの耳には届かない。今はそれよりも、なによりも、鏡の向こうにいる悪魔を探すことで頭がいっぱいだった。

 翻った布の先、キララ、と大きな鏡が月明かりに照らされる。大きな鏡に映しだされたのは、今ここに――鏡の目の前にいる、怪奇クラブの五人のメンバーだけだった。カスミとかえでを先頭に、その後ろに恵美子、佐奈、理沙の姿。こちら側とあちら側、なんら違えることもなかった。


「ほ……ほら、みんな見てよ。なにもない」

「ほ、ほんとだ、なんだぁ。あの伝記も、ガセか……」


 カタタ、カタカタカタ。理科室のほうから、音が聞こえる。なにかが揺さぶられる音だ。いや、実際になにかが揺れているのかもしれない。


「え、ちょ、やめてよ。誰のいたずら?」


 聞こえた音に、カスミが振り向く。だが、誰一人この理科準備室から出た様子はない。だとしたら、今の音はなんだろうか。カスミの空耳か、あるいは風のいたずらか。カスミは、かえでを見やる。先程までカスミの味方だったのに、今は恵美子と共に身を寄せあって、怯え震えて涙を溜めている。

 カリカリ、カリカリ。また、聞こえた。カスミもかえでも、佐奈も恵美子も理沙も、同じものが聞こえていた。


『うふふ、うふふふ』

「……っ! なに、なんなの」


 カスミが動揺する。この鏡は、『本物』なのだろうか。カスミが後ろの佐奈に、叫んだ。


「やめてよ、なにさっきの、誰かいるの!?」


 理沙が理科室に走る。恐怖に耐えきれなくなって、なりふり構わず逃げ出したのだ。この鏡は、ほんとうなのだ、あの伝記もまた、本物なのだ。


「待って、置いてかないで」


 恵美子が理沙を追いかける。かえでと一番の親友であるはずなのに、恵美子はかえでを振り返りもしなかった。バタバタと走り抜けて、理科準備室にはカスミと佐奈、かえでだけになった。


「やだ、なになになに」


 かえでも理科資料室から逃げていく。裸足でペタペタと走る様は、鬼気迫る迫力があった。普段すましているかえでも、危機に瀕すればこうして感情を露わにする。


「ま、待ってよ! ほらカスミ、行くよ!」


 最後に残った佐奈がカスミの手を握って、理科準備室を走り出る。逃げるのに夢中で、鏡にかぶせてあった布を元に戻す暇すらなかった。しかし今は、そんなことはどうでもいい。カスミは息を荒く、走り抜ける。夜に嗅ぐ磯の香りが、鼻を抜けて脳みそまで響く。

 理科準備室の隣、理科室に行くと、先に逃げたはずの理沙と恵美子が理科室の引き戸のドアをふたりで開けようと必死にドアノブに手をかけている。横スライドのドアは、潮風で劣化して噛み合わせが悪い。けれどそれは、開かないほどではなく、ならなぜ、恵美子も理沙も、ドアの前で二の足を踏んでいるのか。


「ね、ねえ! ドアが開かないの!」


 理沙の必死の形相に、かえでも加勢するようにドアに手を掛ける。しかし三人がかりでもドアは開かない。ドアノブに恵美子が、ドアの右側をかえでが、理沙は反対側のドアノブを目いっぱい横に引いている。しかし、うんともすんとも言わない。鍵がかかっている、というよりは、誰かが押さえつけているような硬さ。

 がたがたがたがた。理科室が鳴動する。いや、この揺れは恐怖に染まったゆえの錯覚かもしれない。どちらにせよ、それを確かめる余裕などない。


『あはは、ねえ、あそぼ』


 教室に声が響く。どこからともなく聞こえる少女の笑い声と、教室の振動。カスミたちは今日、悪魔を見に来たはずなのだが、これが悪魔なのか、単なる幽霊なのかは誰にもわからない。わからないから、余計に怖い。得体の知れないものほど怖いものはない。

 窓は閉まっているはずなのに、ガタガタ、ガタガタと教室のなかに音がこもる。じんじんビンビンと教室内で音が反響している。


「やめて! こんな時にふざけないで!」


 とうとうカスミも震えだし、理科室のドアへと走り出す。ぺたぺたと足音は間抜けなのに、その脚力は火事場の馬鹿力でただ事ではなかった。


「私じゃない! カスミじゃないの!?」

「私がこんなバカげたことするわけないでしょ!?」


 カスミと佐奈が口論する。口論でもしなければ、気がおかしくなりそうだ。口論しながらも、カスミはドアに向けてひた走った。すぐそこにあるドアが、果てしなく遠い。

 走って走って、カスミはようやくドアまでたどり着く。そして、思いっきりドアを蹴飛ばして、ドアを外に外し飛ばした。ガダッとドアが倒されて、廊下に轟音が響いた。誰もいない廊下に、カスミ、かえで、理沙、恵美子の順に逃げ走る。遅れた佐奈は、泣きながらあとに続いた。


「きゃー」

「いやー!」

「どいて!」


 五人は我先にと理科室から遠ざかっていく。もはや、最初に侵入した教室ではなく、一目散に一番近い昇降口を目指すと、なんのためらいもなく昇降口のカギを開けて、靴を履いていないことも忘れて、五人が五人ばらばらに走る。他人のことなど――友人のことなど蹴落としてでも、自分だけは助かりたい。他者を思う気持ちなど、微塵もなかった。こういうとき、人間の本性が見える。誰もが自分だけはとひた走った。

 佐奈も理沙も恵美子も、かえでも、あのカスミでさえ、周りも後ろも見ずに、家までの道のりを走り抜けた。


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