空洞の残響

書斎はインクと古紙が熟成された匂いで満ちていた。それは黒川宗介くろかわそうすけにとって、彼が言葉の戦場で幾多の勝利を重ね、その骸の上に築き上げた権威の城。その城の香りだった。書棚に並ぶ無数の背表紙は、彼にいつく兵士の列にも、あるいは彼がほふってきた者たちの墓にも見えた。


これは勝利のトロフィーなのだから。


脳裏に、一月前の光景が鮮やかに蘇る。都内のホテルで開かれた、ある文学賞の授賞パーティー。きらびやかなシャンデリアの下、偽りの笑顔と野心が渦巻く空間。その中央の壇上に、彼は立っていた。スポットライトを浴び、マイクを前にした彼は、まさしく壇上の支配者だった。彼の唇から紡がれる一言一句に、会場の誰もが息を詰めて聴き入る。


その年の受賞者は、有明渉ありあけわたるという二十代半ばの青年だった。作品は『黎明れいめい』。世間はたたえる。だが、黒川は選評という名の公開処刑をゆっくりと、しかし冷徹に執行する。


「……有明氏のこの作品。確かに、荒削りな情熱は感じられる。だが、我々が求めるのは熱に浮かされただけの自己満足の産物だろうか?否、断じて否。物語の骨格は脆弱で、登場人物は作者の代弁者として叫ぶばかり。これは小説ではない。未熟な魂が書き殴った、ただのポエムに過ぎない」


彼の声は、音響設備を通して会場の隅々まで染み渡った。シン、と静まり返る聴衆。壇下の隅で、安物のスーツを着た有明渉が、顔面を蒼白にして立ち尽くしていた。その瞳に宿っていた、創造者だけが持つ傲慢ごうまんなまでの純粋な光が、みるみるうちに揺らぎ、混乱と絶望の色に沈んでいく。黒川はその瞬間を見逃さなかった。他者の魂の輝きが、自らの言葉という名の酸によって溶かされていく様は、彼の心の奥深くにある空洞を、一瞬だけ、歪んだ優越感で満たした。


パーティーの後、老獪ろうかいな編集長たちが代わる代わる彼の元へ来ては、追従の笑みを浮かべて言った。「先生の批評眼は、やはり本物ですな」「あの若者には良い薬になったでしょう」。黒川は曖昧に頷きながら、彼らの顔の奥にある恐怖と侮蔑を正確に読み取っていた。誰もが黒川を恐れている。だが、誰も彼を尊敬などしていない。彼は創造者ではない。他人の創造物に寄生し、その価値を定め、時にはその命脈を断つことでしか、自らの存在を証明できない寄生木(やどりぎ)なのだから。


その自覚が、彼を苛み続ける巨大な「空洞」の正体だった。


かつて、黒川自身も書く人間だった。小説家を志し、血を吐く思いで原稿用紙を黒く塗りつぶした日々があった。だが、彼には決定的に欠けているものがあった。有明のような、世界を自分だけの言葉で再構築しようとする、あの狂おしいほどの情熱と才能が彼の書く物語は、どこかで読んだ筋書きの焼き直しでしかなく、登場人物は借り物の言葉を喋る操り人形でしかなかった。挫折は、彼の魂に癒えない傷と、才能ある者への底なしの嫉妬を刻み込んだ。書くことを諦めた日、彼は批評家として生きることを決めた。自らが立てなかった神殿を外から裁く神官になるのだ、と。


だから、有明渉が許せなかったのだ。彼の『黎明』は、技術的には未熟だったかもしれない。だが、そこには黒川が逆立ちしても手に入れられない、魂のインクで書かれた言葉が確かに息づいていた。それは、黒川がとうの昔に失ったはずの過去の亡霊を呼び覚まし、彼の空洞の縁を鋭くえぐるのだった。


「先生、例の件ですが」

懇意にしている大手出版社の編集者からの電話が、彼の書斎に鳴り響いたのは一週間前のことだ。「有明渉ですが、筆を折ったそうです。故郷の田舎に帰ると……。まあ、先生のあの一言が決定打でしたな」。受話器を置いた黒川は、一瞬、胸に冷たいものが走るのを感じた。一つの才能を、この手で完全に扼殺したという、微かな罪悪感。だが、それはすぐに、暗く、甘美な安堵感と勝利の陶酔に取って代わられた。これでいい。彼の光は、もう二度と自分の心を苛むことはない。


その虚しさを埋めるように、彼は古書のオークションカタログをむさぼり読んだ。そして、あの写本を見つけたのだ。

『アヴィケリウス著、"De Tincture Anamae"(魂の染料について)断片』。

アヴィケリウス。その名は、黒川の記憶に棘のように突き刺さった。有明が、受賞後のインタビューで目を輝かせながら語っていた名だ。「僕が次に書きたいのは、歴史から消されたアヴィケリウスという錬金術師の物語なんです。彼は、言葉や魂に色を与えるインクを作ろうとしていた……」。


これを手に入れれば、有明が描こうとしていた物語ごと、自分が所有できる。彼の才能の根源を、この城の戦利品として陳列できるのだ。完璧な勝利だ。黒川は我を忘れ、電話オークションで競り合った。そして今日、その勝利の証が、彼の目の前にある。


黒川はゆっくりと立ち上がり、白い手袋をはめると、厳かな儀式のように写本を手に取った。ずしりとした重みが、彼の支配欲を満たす。ごわついた羊皮紙ようひつしの感触が、数百年の時を超えて黒川の指先に伝わってくる。ページをめくると、独特の、今まで嗅いだことのない甘い香りがふわりと立ち上った。樹脂と薬草を混ぜたような、どこか心を落ち着かせる香り。これが、魂のインクの香りか。黒川は目を細め、その香りを深く吸い込んだ。


インクで書かれた文字は、ラテン語で書かれた流麗な筆記体だった。彼はその意味を解するまでもなく、その造形美に魅入られる。勝利の美酒に酔い、禁断の果実の香りに陶然としながら、彼は自分が神にでもなったような全能感に浸っていた。


その時、不意に乾いた咳が一つ出た。


空気が乾燥しているのか。彼はさして気にも留めず、ウイスキーで喉を潤し、再び写本に目を落とした。インクの香りが、先ほどよりも濃密に感じられる。すると、また咳き込んだ。今度は一つでは収まらない。「コホン、コホンッ」。喉の奥が痒いような、焼けるような奇妙な感覚が広がる。


なんだ?


息を吸おうとするが、気管が何者かに締め付けられるように狭まり、空気がうまく肺に届かない。ヒュー、ヒューと、喉から嫌な音が鳴る。彼は混乱し、写本から顔を離そうとした。だが、その甘い香りはすでに書斎の閉め切った空気と分かち難く混じり合い、彼の体を内側から蝕み始めていた。


「……っ、ぐ、ぅ…」


苦しい。息ができない。彼は椅子から転げ落ち、床に蹲った。必死に空気を求め、喘ぐ。高級な絨毯の毛足が、彼の頬を虚しく撫でた。助けを呼ばなければ。だが、声も出せない。視界が急速に白んでいく。


薄れゆく意識の淵で、彼の耳の奥に、ある言葉が幻聴のように響き渡った。それは、彼が最も冷笑し、未熟だと切り捨てた、有明渉の『黎明』の、まさしくクライマックスの一節だった。


『――言葉は魂のインクで書かれる。それは時に人を癒す芳香となり、時に人を蝕む猛毒となる。そして放たれた言葉は、風に乗り、雨に溶け、必ずや時を超えて書き手自身の喉を潤すか、あるいは渇かせるのだ』


ああ、そうか。

これが、報いなのか。


彼が否定し、嘲笑し続けた「物語の力」が、今、物理的な「猛毒」となって彼自身に返ってきたのだ。彼は言葉の力で有明の未来を奪った。そして今、「言葉の物質的な痕跡(インク)」が、彼の命を奪い去ろうとしている。なんという完璧な皮肉。なんという、美しい物語の結末だろうか。


権威の城だと思っていたこの書斎は、結局のところ、自らが何も生み出せなかった男の、巨大な紙の墓場に過ぎなかった。彼の人生そのものが、誰かの物語を消費するだけの、空っぽの残響だったのだ。


最期に、彼の目に映ったのは、磨き上げられた書棚のガラスに反射した、苦悶に歪む自分の顔だった。その絶望に染まった表情は、一月前、壇下で見たあの青年の顔と、奇妙なほどよく似ていた。


やがて体の痙攣が収まり、黒川宗介の体は動かなくなった。


静寂が訪れる。主の死を悼む者など誰もいない。ただ、古紙と、そして致死のインクの甘い香りが、満ちるばかりだった。





「あぁ、残酷だな。黒川。」

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わたし、言葉で殺せる小説家が好きなんです。 万物の水 @gatagata_m5

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