第三話 未来から来たワイン③
教室の空気が、一気に静まり返った。
百瀬蒼一は立ったまま、視線を下げていた。
硬い声で、けれど絞り出すように言葉を続けた。
「……今年、自分の畑で、ネッビオーロを育てました。卒業前の、集大成のつもりで」
ネッビオーロ。
イタリア、ピエモンテ州を代表する赤葡萄。
際立った酸味と渋みが特徴的な、気難しいことで有名な品種である。
ヴィニウス学園では、三年次の課題として“自由醸造”が許される。小ロットではあるが、学生が畑を選び、醸造方針を立て、瓶詰めまで自分で行う──いわば、その人の“哲学”を初めて形にする機会だ。
「親父のワイナリーの片隅で、区画をひとつもらって……除梗も、発酵も、澱引きも、全部自分でやって」
アルネがわずかに目を伏せる。彼女もまた、自由醸造で悩んだひとりだった。
「でも……できたワインは、ひどいものでした。
酸っぱくて、渋くて、水っぽい。親父にテイスティングしてもらった瞬間、顔をしかめて、吐き出されました。
“これは飲み物じゃない。処分しろ”って」
百瀬は、一呼吸置く。
「全部捨てるつもりでした。けど、どうしても……
たった6本だけ、樽の底から掬って、瓶に詰めて。2026年ってラベルを、自分で書いて貼って、封蝋もして──」
「“未来まで、預かってほしい”って思ったんです。……誰にも見つからなくていいから、せめて、“まだ終わっていない”ってことに、したくて」
言い終えた瞬間、どこからともなく椅子の軋む音が聞こえた。
誰も笑わなかった。
誰も、軽く流さなかった。
ただ、皆がそっとその気持ちの重さを受け取っていた。
ややあって、タカヒコが立ち上がった。
彼はワインを注ぎ、グラスを軽く回して、口に含む。
そして、はっきりと言った。
「……このままじゃ、熟成しても“飲める味”にはならないよ」
百瀬の顔が、何かを発するように動いた。
だが、それを遮るように、タカヒコは続けた。
「でも──お前の親父が作ってるメルロー、俺はあれ、けっこう好きなんだ。
豊かな果実味に、まろやかな口当たり。
あれに、お前のネッビオーロを混ぜてみな。10%でも、5%でも…3%でもいい」
「……アッサンブラージュですか?」
「そう。“混ぜる”んじゃない。“調える”んだよ。
渋みを足すことで、従来の国産ワインでは出せなかった奥行きが生まれるかもしれない。
出来が良くなったら、15%、30%、40%……いつか50%までいったら、さ」
タカヒコは小さく笑った。
「そのときは、もうお前のワインが、親父のワインの“半分”を担ってるってことだろ」
誰も言葉を発さないまま、空気にほのかなあたたかさが滲んだ。
タカヒコが、セラーのボトルを静かに掲げて言う。
「それはそれとして──」
「卒業前に、みんなでこのネッビオーロ、開けようぜ。
“渋っ!”とか“酸っぱっ!”とか言ってさ。
笑って飲めたら、それでいいじゃん」
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