第2章「花喰らう獣と初夜の誓い」

 日が沈み、夜が完全に辺りを包む頃――

 健太と向葵は、神前での契りを終えたのち、山の中腹にある“縁宮(えにしのみや)”へと案内された。

 そこは、かつて御縁守の家系が住まいとした古い邸だったが、今は誰も使っておらず、神官らによって急ぎで整えられた仮住まいにすぎない。

 にもかかわらず、その屋敷の門構えや石畳には、どこか神聖さと不気味さが入り混じった空気が漂っていた。

「……うーわ、ここに泊まるの? マジで? 絶対なんか出るって、こういうの」

 向葵が門の前で足を止め、露骨に嫌そうな顔をした。

「仕方ない。今夜からここが、俺たちの“契りの館”だ」

 健太はどこか冗談めかして言ったが、声は疲れていた。あれだけの契約の儀式を終えた直後だ、無理もない。

「……あのさ」

「ん?」

「“契りの館”とか言うの、やめて。なんか変な想像するでしょ」

「いや、べつに変な意味じゃ……」

「あるよ!」

「……すまん」

 結局、二人は門をくぐり、敷地内へと進んだ。敷石の上には苔が這い、風に揺れる枝葉が、昼間よりも一層ざわめきを強くしていた。

 屋敷の中は薄暗かったが、友希が先に灯した灯籠の光が通路の先を照らしている。

「……君たちの部屋は、西の離れにある。準備は整えてある。だが、用心しておけ」

「用心って?」

「この邸には“花喰らい”が出る」

「は?」

 向葵が、止まった。

「まさか、また訳の分からない神様とかじゃないよね?」

「神というより、かつて神に連なるものだ。“花喰らい”とは、この地に咲く神木“御縁桜”の花を喰らい、神縁を喰い破る魔の獣――」

「つまり、“結婚ぶち壊し屋さん”ってこと?」

「言い方は雑だが、概ねそうだ」

「そのまま受け入れるの!?」

 健太が苦笑した。

「……向葵、俺たちの“契り”が本物かどうかを、試されてるんだよ」

「何その夫婦力テスト……。いや、偽装結婚なんだけど!? テスト受ける意味ないってば!」

「偽装でも“神の名の下に交わした契り”だ。敵は、それを壊そうとする。だから、たとえ嘘でも、守らなきゃいけない」

 その言葉に、向葵の顔色が少しだけ曇った。

(ああ……この人、やっぱり真面目なんだな)

 そう思う一方で、心のどこかが、かすかに動いた。

「わかったよ。じゃあ、“嘘でも”がんばりますよ、契り夫さん」

「それ、皮肉?」

「もちろん。超絶、皮肉」

 そう言って、向葵はふっと笑った。

 その笑顔は、初めて見せた素顔のように、少しだけ柔らかかった。

 *

 西の離れは、屋敷の外れにある別棟だった。

 障子と畳の部屋がひとつずつ。向かい合わせの部屋に、それぞれの寝具が用意されていた。あくまで“別々の部屋”という配慮がされているのは、友希の気遣いか、それとも神職たちの“意図的な距離感”なのか。

「うわ、地味にありがたい……。てか、ほんとに別々で助かるわ」

「……そんなに嫌か、俺と同じ部屋」

「うん、嫌」

 即答された。

 健太は軽く笑いながら、障子を開けて自室に入った。

 寝具は整い、灯が優しくゆらめいている。けれど、その奥には、どこかざわつく空気が漂っていた。

 ――“花喰らい”の気配。

 友希が言っていた、神縁を喰う魔物。その正体は誰も知らない。姿を見た者は少なく、語られるのは“桜の香りが濃くなった夜に、夢を喰われる”ということだけ。

「……俺たちを試すって、つまり……心の隙を突いてくるってことか」

 健太は静かに寝具の端に腰を下ろし、息を整えた。

 契約の儀で起きた光の震えは、確かに神の力を呼んだ。だがそれと同時に、何か――黒いものの目覚めも感じた。

 そして、それは間違いなく“向葵”を狙っている。

(俺が守らなきゃいけない)

 そう思った瞬間、ふと障子の向こう――向葵の部屋から、微かな音がした。

 ごそ、ごそ……という布擦れの音。次いで、ぱさりと何かが落ちる音。

「……向葵?」

 返事はない。

 だが、続けて「すっ……」という風のような音が、誰もいないはずの廊下からした。

 健太は立ち上がり、ゆっくりと襖を開けた。

 廊下は、異様な静けさに包まれていた。

 月は出ているはずなのに、光がない。風もない。けれど、桜の香りだけが異様に濃い。

(これは――来る)

 そのときだった。

 健太の背後で、ぱたりと障子が音を立てた。

 振り返ると――そこには、**花の面をかぶった“何か”**が、向葵の部屋へと足を踏み入れていた。

 健太は叫んだ。

「向葵!!」




「向葵!!」

 健太は駆け出した。足元に投げ出されていたのは、彼女が羽織っていた上掛けだった。部屋の灯は風もないのに不自然に揺れ、ふわりと広がった香が、桜の花びらのように宙を舞っている。

(花……? いや、違う――これは、“匂い”じゃない)

 濃厚な桜の香は、人の感覚を鈍らせる。意識が朧になり、思考が鈍化する。まるで夢の中に引きずり込むような感覚――それこそが、花喰らいの術だ。

(やらせるか!)

 健太は部屋の障子を蹴破る勢いで開け放った。

 中には、異形がいた。

 背は高く、痩せ細った人型。だが顔には“花の仮面”――五弁の桜花が開いたような面をかぶり、両の腕はまるで花枝のようにねじれていた。

 そいつは、無言のまま向葵へ手を伸ばしていた。

「やめろ!!」

 健太は咄嗟に部屋の端にあった灯台を引き抜き、獣の腕に投げつけた。

 金属の音を立てて灯台が跳ね、花喰らいの肩に当たる。仮面の奥の“目”がこちらを向いた。

 ――どろり。

 音もなく、その目から黒い液体が流れ出した。

 その視線に、健太は足がすくみそうになる。

 だが、その一歩前に出た。

「俺が契り主だ。向葵に手を出すなら――まず、俺を超えていけ」

 異形は動きを止めた。その顔の花びらが、かすかに開いた。

 まるで微笑んでいるような、それとも侮っているような――

 ――次の瞬間、音もなく、異形は健太へと飛びかかった。

「――っ!」

 健太はとっさに身を沈め、畳の上を転がるように避ける。獣の爪が障子を切り裂き、背後の柱を抉る音が響いた。

「ちょっと! なに、コイツ!?」

 ようやく意識を取り戻した向葵が、声を上げた。彼女はすぐさま棚の上にあった御札束をつかみ、素早く一枚引き抜く。

「退け!!」

 向葵が御札を投げつける。札は空中で火花を散らしながら異形の胸元へ突き刺さった。だが、黒い花喰らいはほとんど怯むことなく、にじり寄ってくる。

「効かない……!」

「いや、効いてる。動きが鈍くなってる」

 健太が叫ぶ。彼の足元には、向葵が飛ばした札がもう数枚落ちていた。それを拾い、構え直す。

「次は、これでどうだ――!」

 健太は、札を両手で挟み込むようにして祈った。

「古に命じて、縁を守れ。契りを守る、神の名において!」

 言葉と共に、札が青白く発光する。

 次の瞬間、光が花喰らいを包んだ。

「ギィィ……」

 異形が、初めて声らしき音を発した。それは人の喉では出せない、軋むような鳴き声だった。

「今だ、向葵!」

「わかってる!」

 向葵はすでに別の札を用意していた。それは、彼女が山奥で独自に編み出した特殊な“縁切り札”――

 それを、健太の光が作った“結界の裂け目”へ滑り込ませるように放った。

「いっけぇえええ!!」

 ずぱっ――

 御札が命中し、花喰らいの胸が裂けた。

 そこから噴き出したのは、花粉ではなかった。

 ――白く輝く“光の縁”。

 それは、まるで誰かの記憶の残滓だった。

「……これ、記憶?」

 向葵が呟く。

 その瞬間、花喰らいが崩れ落ちるようにして、闇へと溶けていった。

 辺りには、香のように漂っていた桜の気配がすっと引き――夜が、戻ってきた。

 *

「……ふぅ、なんとか……」

 健太はその場に腰を下ろした。手足の震えが止まらない。けれど、何よりも――向葵が無事でいてくれたことが、救いだった。

「……あんた、ほんとバカだよ」

「え?」

「自分が先に突っ込んで、私を守って、倒れて……何様よ、正義の味方気取り?」

「……違う。そんな立派なもんじゃない」

 健太は小さく笑った。

「俺はただ、“約束を守りたい”だけだ」

 向葵が黙る。

「たとえ、形だけの契りだとしても。俺は……それを交わした以上、裏切りたくない」

「……」

 しばらくの沈黙。

 そして向葵は、背を向けたまま、呟いた。

「……そんなの、ずるいじゃん」

「え?」

「なんでもかんでも、正しいこと言って……私まで……乗せられそうになる」

 そう言って、向葵は部屋を出ていった。

 だがその背中は、どこか照れているようでもあった。

 そして、廊下に立った彼女の手が――わずかに、震えていた。

 それを、彼女自身もまだ気づいていなかった。




 *

 夜が明けた。

 山間に射す朝日が、縁宮の屋根瓦にやわらかく差し込み、濡れた苔を照らしている。昨日までとは違う、ほんのわずかに“清められた”気配が敷地内に漂っていた。

 本殿に続く回廊の先で、友希が静かに立っていた。

 彼の手には、一枚の札がある。昨夜、向葵が放った“縁切り札”の破片だ。

 神官たちは今朝早くから境内の結界を調整しているが、花喰らいの出現はその想定すら超えていた。

「……目覚めたか、“冥紋”が」

 独り言のように、友希が呟く。

 その背後から、足音が近づいた。

「友希」

 振り向けば、健太がいた。髪は少し乱れ、まだ疲労の色が濃いが、その目は静かに澄んでいた。

「どうだった? 夜のうちに、向葵と話せたか?」

「少しだけな。あいつ、口では文句ばかりだけど……ちゃんと戦ってくれた」

「……そうか」

 友希は、懐に札をしまい、視線を空へと向けた。

「向葵には、“兆し”がある。神力としての器も、縁の系譜も。それに、君の力も……契りの儀を経たことで、少しずつ目覚め始めている」

「俺に、そんな力が?」

「君が昨夜使った札、あれは“縁札”だ。もともと君の家系が用いていた神札の一種。光らせることなど、一般にはできない」

「……じゃあ、やっぱり、俺にも……」

「そう、君も“神の子”として、眠っていただけだ。向葵との契りが、その目覚めの鍵になった」

 友希の言葉に、健太はしばらく沈黙した。

 そして、ぽつりと呟いた。

「向葵を、巻き込んでしまったな」

「それを、後悔しているか?」

「……少しは、ある。でも――」

 健太は、空を見上げた。そこには、うっすらと雲がかかっていたが、朝日がその合間から覗いていた。

「“この国の形を守る”って思いは、今も変わらない。誰かの思いを、誰かの願いを、きちんと繋いでいきたい。それが俺にできることなら、もう逃げる気はない」

「君がそれを“自分の意思”で選ぶなら、俺は止めない」

 友希は、淡く微笑んだ。

「ただし――向葵を守る覚悟があるなら、本気で向き合え。彼女は誰よりも“縛られる”ことを嫌う。だからこそ、誰よりも“絆”に敏感だ」

「……わかってる」

 *

 その日の昼。

 向葵は、庭の裏手にある小さな池の縁に腰かけ、足を水に浸していた。

 昨夜の騒動が嘘のように、山は静かだった。だがその静けさが、逆に落ち着かなかった。

「……なんか、しんど」

 彼女はぽつりと呟いた。

「本気で人を助けようとする人を見るのって、けっこう疲れるよね」

 昨日、健太が花喰らいに立ち向かった姿が、頭から離れなかった。

 自分を盾にして、あそこまで本気でぶつかってきた人なんて、いなかった。

「……あれで偽装とか、ズルいってば」

 そのとき。

 池のほとりに、そっと誰かが近づく気配がした。

「水、冷たくないか?」

 健太だった。彼は草履を脱ぎ、向葵の隣に座る。

「……ちょっとね。でも気持ちいいよ」

「そっか」

 しばらくの沈黙。

 池には鯉が数匹泳ぎ、時おり尾ひれで水面を叩いていた。

「昨日のこと、礼を言いたくてな」

「……別に、礼とかいらないし」

「でも言いたいんだ。助けてくれて、ありがとう」

 その言葉に、向葵は顔をそむけた。

「……こっちこそ。勝手に突っ込んでごめん。もうちょい、あんたの意見も尊重するよ」

 健太が笑った。

「……どうしたの?」

「いや、ちゃんと俺の性格、把握してるんだなって」

「は? 何よ、それ」

「“他人の意見を尊重する”ってやつ、俺のことを言い当てた」

「……まぁ、バカが真面目に頑張るのって、わかりやすいもん」

 健太は、そっと空を見上げた。

「これからもっと色んなことがあるだろうな。“冥紋”のこと、君の過去、そして俺たちの“契り”の意味も……」

「うん、あると思う」

「だからこそ、約束しよう。嘘でも、本物でも、この関係を最後まで“ちゃんと向き合う”って」

 向葵は、その横顔を見つめた。

 そして、ゆっくりと、頷いた。

「……わかった。じゃあ私も、契約解除したくなるまでは付き合ってあげる」

「契約解除……?」

「何よ、ビビってる?」

「いや、ちょっとだけ」

 二人は、ふっと笑い合った。

 それは、どこか夫婦のようで――

 けれどまだ、“恋人”には遠く、

 でも確かに、心の距離が一歩だけ近づいた瞬間だった。

 *

 その夜、誰も知らぬ場所で。

 朽ちかけた社の奥にて、黒い花のような影が蠢いていた。

「……契り、成りしもの。ならば、喰らう縁はなお深く……」

 低く、女とも男ともつかぬ声が、呟いた。

 その手には、崩れた仮面の破片。

「次は、“血の縁”を裂くとしようか――」

 音もなく、その場から影が消えた。

 夜風が、桜を揺らした。


【第2章:完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る