『ツンな俺が猫になったら、癒し系って言われてます』
椎茸猫
第1話 「ツンしかない俺が、なぜか猫界の癒し担当にされました」
……もう猫にでもなりたい。
それが、俺――大島翔太の最後の言葉だった。
ブラック企業での社畜生活、五年目。深夜まで働いても残業代は出ず、休憩といえばトイレだけ。上司の小言はBGMで、体調不良すら「気合で治せ」と言われる始末。
今日も終電を逃し、冷えたコンビニおにぎりを片手に、煌々と灯るオフィスの明かりへと戻る途中だった。
「はは……猫っていいよな。寝て、食って、なでられて……何もしないことが仕事なんて、理想だわ」
そんな現実逃避の独り言をつぶやいたその瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
次に目を覚ましたとき、目の前には見慣れない天井。背中にはふわふわの布。そして、身体が……やけに小さい。四肢はふにゃふにゃ、手の代わりに肉球。
「……は?」
驚いて飛び起きようとするが、身体は言うことをきかず、むしろ軽すぎてよろけた。鼻をくすぐるのは、ほんのり甘い匂い。どこか懐かしいような、不思議と落ち着く香りだ。
鏡に映ったのは、茶トラの猫。ふてぶてしい顔に、太めのしっぽ。明らかに俺だ。いや、俺だったもの。
「え、これ夢? それとも地獄のアトラクション? まさか『来世は猫になれます券』でも配ってたのか?」
混乱と皮肉が頭の中をぐるぐる回る。もしかしてあの会社で働いてた時点で、ある意味“成仏済み”だったのかもしれない。
「おはよう、ポン太。今日もよろしくね」
明るくそう声をかけたのは、若い女性。エプロン姿で、どこか和やかな雰囲気を持っている。癒し系の微笑みを浮かべ、俺の頭をそっと撫でてきた。
「ポン太……誰それ……あ、俺のことか」
どうやら俺は、『ポン太』という名の猫として、猫カフェで飼われているらしい。思考の追いつかない俺をよそに、周囲からはかすかに「にゃあ」と他の猫たちの鳴き声が聞こえてくる。
まったく訳がわからない。
だが、ふわふわの毛布、甘い匂い、柔らかい手の温もり……。
――悪くないかもしれない。
俺の新しい人生――いや、猫生が、ここから始まった。
猫としての生活にも、なんとなく慣れてきた。
朝は撫でられ、昼は寝て、夕方は窓際で日光浴。人間時代には考えられなかったほど、のんびりとした時間が流れている。正直、最初は戸惑いしかなかったけど……これはこれで、悪くない。
「ポン太ー、今日は彩花さんが来るよ〜」
店員の雪乃がそう言って、俺の頭を軽く撫でた。
彩花――この猫カフェの常連客で、ちょっと喋りすぎるタイプのOL。リュックには必ず猫のマスコットを付けていて、スマホケースも肉球柄。おまけに猫語で話しかける癖がある。俺を見つけると、いつも一目散に駆け寄ってきては、頭を撫でながら一方的に悩みを打ち明けてくる。
「ポンちゃーん、今日もお仕事にゃ〜ん大変だったにゃ〜ん」
やってきた。ハイヒールの音を鳴らして入ってきた彼女は、受付を済ませるなり俺のところに突進。
「もう聞いてよ、また課長がさあ……!」
ぺたんと座り込んで、膝に俺を乗せながら話し始めた。俺は逃げようにも抱えられているのでどうにもできない。
(え、いや俺、カウンセラーじゃないんだけど)
そんなツッコミも心の中だけ。もちろん彼女には届かない。
「でね、私、最近気づいたの。あの人、優しくしてくれるくせに、結局は誰にでも同じこと言ってるって……。『君だけ特別だよ』って、なんで簡単に言えるの?」
うん、まあ、そういう男はよくいるよ。俺の猫耳がぴくっと反応する。
「でも、ポンちゃんはさ、嘘つかないし、黙って聞いてくれるし……裏切らないよね?」
……そりゃ、喋れないし、浮気もできないしな。というか、俺に“誠実さ”を求められても困る。
俺はため息代わりに鼻を鳴らし、そっとしっぽで彼女の頬をぺしっと叩いてみた。軽い抗議のつもりだった。
「……ポンちゃん、今のって『そんな男やめとけ』ってこと?」
いや違う。単に、顔が近すぎて息がかかってたからだ。
「ありがと、ポンちゃん……やっぱり、私、ちゃんとしようって思えた」
俺の意図はどこへ行った。なんだその自己完結。
彼女は頬を染めて、小さく頷いた。撫でる手が少しだけ優しくなる。
「……なんか、癒された。明日も頑張れるかも」
そう言って、彼女は去っていった。俺の背中に、ぬくもりだけが残る。
(……俺、もしかしてすごい猫なんじゃ……ないよな?)
ポン太の猫生は、どうやら平穏とはいかなそうだった。
それは数日後のことだった。
俺はいつものように窓辺で丸くなっていた。春の陽射しはぽかぽかと暖かく、猫としての“仕事”――寝ること――を完遂していた。
「ポンちゃーん……」
聞き慣れた声に目を開けると、そこには宮崎彩花が立っていた。いつものテンションとは違い、どこか落ち着いた表情をしている。
「聞いてよ、ポンちゃん……私、転職、決めた」
……は?
「昨日、あの彼ともきっぱり話して。なんか、ポンちゃんのこと思い出したら、“自分を大事にしなきゃ”って思えたの」
ちょっと待て、俺は何も言ってないぞ。しっぽでぺしっとしただけだぞ。
「このままじゃダメだって思ったの。もう、自分をすり減らしてまで好かれようとするの、やめたくて」
彩花は、俺の隣に静かに腰を下ろした。今日は猫語もマスコットも控えめで、珍しくスーツ姿。
「ちゃんと挨拶したかったんだ。今まで、ありがとね」
……何その卒業みたいな空気。
俺はふいに胸の奥がくすぐったくなった。なんだろう、この感覚。猫のくせに感傷的になるのは反則じゃないか?
彼女の手がそっと俺の頭を撫でた。
「ポンちゃんが、私の話、ちゃんと聞いてくれてたって……思ってるだけでも、救われたんだ」
……なんか、俺がすげぇいい猫みたいじゃないか。俺、ただそこにいただけだぞ?
でも。
(……まあ、悪くないかもな)
俺は彼女の膝の上で、ふぅっと息を吐いた。彼女の匂いと手の温もりが、いつもよりほんの少しだけ優しく感じられた。
彩花が去ったあとも、俺はしばらく窓辺に座っていた。
さっきまでのぬくもりが、まだ膝の上に残っているような気がした。猫の体なのに、胸のあたりが、なんだかぽかぽかする。……いや、単に日差しが当たってるだけか。
「ポン太、お疲れさま」
雪乃がそっと声をかけてくる。彼女はカウンターの奥で、コーヒーを淹れながら微笑んでいた。
「彩花さん、前よりずっといい顔してたよ。きっとポン太のおかげだね」
……またか。何かしたっけ、俺。
いや、でも、そう言われると……悪い気はしない。
猫になったばかりの頃は、ただのんびりしたいだけだった。癒しなんて提供するつもりは、これっぽっちもなかった。
でも、ただそこにいるだけで、誰かが少しだけ前を向けるなら。
(……少しくらい、この場所にいても、いいのかもな)
そのとき、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませー」
雪乃の声に続いて、見知らぬ女性が入ってきた。グレーのスーツにくたびれたトートバッグ、手には分厚い手帳。目元には、少しだけ疲れたような影。けれど俺と目が合ったとき、ふっと柔らかく笑った。
「この子……名前、なんていうんですか?」
雪乃が答える。
「ポン太っていうんです。優しくて、ちょっとツンデレなんですよ」
ツンデレってなんだ、聞いてないぞ。俺のどこがデレなんだ、営業妨害だ。
「……ポン太くん、よろしくね」
そう言って、彼女が俺のほうへ歩いてくる。その歩みが、ほんの少しだけ慎重に見えた。
(……あー、また来たか)
でも不思議と、嫌じゃなかった。
俺はのそのそと立ち上がり、新たな“悩める人類”を迎えに歩き出す。
ポン太としての猫生は、どうやらまだまだ忙しくなりそうだ。
(ま、癒し系の猫ってやつも、案外悪くない)
☕️【毎週木曜日・朝6時】更新予定です。ぜひ楽しみにお待ちください。🐈
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます