夢から覚めた日(2)


《アーティストのIruを知っていますか?》

 彼女は首を横に振りながら「いえ……すみません」と小声で言う。

「アーティストって、音楽ですか? そういうのはうとくて……」

 自意識過剰だったのだろうと、音の無い息が漏れた。

 昔ならもっとショックを受けつつも、これから知名度を上げようと活動に心血を注いだはずだ。

 残念ながら今は仕方ないと素直に受け入れられる上に、どこかあんしてしまった自分もいる。

 世間体を深く考え過ぎていた。自分だけが音楽の世界に執着したまま取り残されていただけだったと嘆きながら、再び画面を見せる。


《連絡先は交換しても大丈夫なんですか?》

 アシスターはまた少し表情が和らいで「はい」と心地いい声で答えた。

「私は基本的に勤務時間中しか使えませんが、これが私のアドレスなので、是非」

 あれこれと考えて、死に向かう途中で正体を隠す必要などもう無いのだと気付く。この痛みを独りで抱えたまま終わりを迎えるのもれないと、メールで一文送った。


《僕はIruという歌手だったんです》

 通知が届いた電子端末を見て、アシスターは画面と自分の顔を交互に見た。

「えっ…………その、言わせてしまって、申し訳ありません……」

 戸惑いながら気まずそうにした顔は、やがて何かを察したような面持ちへと変わる。

「……もしかして、要さん――」

 声を出さない安楽死希望者が、元々歌手だった。

 その二つが結び付いたのか、聞こえるはずのない彼女の息を吞んだ音が聞こえた気がした。

 ちゅうの原因を確かめずにはいられないが勇気も出ないといったところだろうか。彼女の方をちらと見ると唇を小さく開き、閉じてはまた開いて何かを躊躇ためらっている。

 そしてゆっくりと、とても申し訳なさそうにアシスターは声を出した。

「どうして、安楽死を……REN取得申請をされたんですか?」

 その質問に対する答えは、この三年間を凝縮したものだ。

 歌手だったのに、思い通りの歌声を出せなくなった。申請を決意するまでの経緯は長かったが、ここに来た理由は要約すると単純なもので、安楽死を希望するに足る理由とは言えないかもしれない。ただ、ずっと歌と一緒に生きていくつもりでそれが出来なくなっただけ。

 でも自分にとって歌うことは何よりも大切で、生きている証だった。そこまで想っていたのに突然歌声を取り上げられてしまえば歌に見捨てられたのも同然。

 歌が生きる理由だったのに、それを奪っておいて心臓を止めてくれないだなんて、俺は何をして生きていけばいい。

 根本的には歌のせいで安楽死を望んでいると言っても過言ではなかった。

「あの……」

 アシスターの声でハッとなる。瞬きさえ忘れたかのようにじっと自分を見つめる彼女の瞳には、憂いが含まれていて何処か遠くを見ているようでもあった。

「……訊かれても、困りますよね。申し訳ありません」

 打ち明けても何も変わらないのに、思い出すと胸が圧迫されて自然と指が動いている。一つずつ打たれていく文字は、やがて見るに耐えない惨めな文を作り上げていった。


《何をやってみても歌声がもう出ないんです。歌が大好きで、歌うことが自分の全てだったのに》

 アシスターは困惑と悲しみがいっぺんに広がった顔で、言葉に詰まっているようだった。

「いつから、ですか……」

 頼むから、そんな目でこっちを見ないでくれ。

 辛いのは俺の方なんだと、喉元まで上がった言葉が途中でつかえて心が苦しくなる。

 藍色が深くなりゆく空を見ながら、時をさかのぼった。


   * * *


 もう三年以上前になる、二〇三七年の一月。

「それじゃあ……北海道ほっかいどう、かんぱーいっ!」

 ライブツアー一本目、北海道公演の後、自分の浮き立つ一声で始まった打ち上げ。いつもなら乾杯の一杯だけはアルコールを飲むが、その日は水を飲んでいた。

 ほんの少しだけでも喉に違和感があった日は飲酒しない。自分の決め事にもどかしさを感じるくらい陽気な雰囲気の場ではあったが、ライブの余韻に浸る時間と共に気にならなくなっていった。

 ライブでお馴染なじみのサポートメンバー、ギタリストのれんの頰もすっかり赤らんでいる。

「蓮さんは……一本終わるだけで、もう残り十五本か、って寂しくならないですか?」

「え? そりゃ、なるに決まってんじゃん。めっちゃ分かるよ」

 普段は鋭い目をしていて一見クールな印象を与える蓮が「でもさ、ライブってその日その時限りだから良いんだよなあ」と開放的な笑顔を見せた。

「俺らもそうだけど、ファンはもっと思ってる。Iruのために来てくれてるんだろ? 残りのこと考えるなら、次はどうやってファンと一緒に楽しもうかって考えるのも良いんじゃないか?」

「……そうですね!」

 待ち遠しくて仕方がなかったのは自分だけじゃないと思い出し、頷いて笑みを零す。

 ライブの熱も冷めやらぬまま、最高のスタートを切ってまた強く意気込んだ。


 音楽にはあらゆる人の心を動かす力が宿っているに違いない。

 自分の歌を聴くために足を運んでくれる、大切なファンで溢れた会場。広々としたそこをマスク越しにくまなく見渡せば、二本目のライブは前回よりも一層輝かしく映った。

 理想と現実の狭間で揺らいでいた頃の葛藤を歌った曲。恋が成就した時の喜びの曲や、失恋した時の苦味を歌った曲も。自分という一人の人間にここまで興味を持ってくれるのは気持ちを歌に乗せられるからであって、歌が無ければ誰も聴く耳を持ってくれなかったと思う。

 もっと、もっと届いてほしい。

 全国八箇所のアリーナでそれぞれ二日間の公演。デビュー後僅か二年余りと新人ながらチケットは発売間も無くして完売となり、急遽予定には無かった立見席が追加販売される程の殺到ぶり。

 そんな大々的なツアーを全力で駆け抜けるつもりでいたのに、三本目のみや県でのリハーサルの最中、一本目の時以上に喉に違和感を覚えた。

 何故だか声が、出しにくい。

 一旦ブレイクすると、ギターを置いた蓮のもとへ向かった。

「蓮さん……俺、今日あんまり声出てない感じしませんか?」

「え? いつも通りめっちゃイイ声出てんじゃん」

 メンバーにはいつも通りに聴こえている。至極当然のような言い振りに疑う余地など無いはずなのに、違和感は拭えない。不安を隠したまま臨んだ当日の公演は大歓声に包まれたが、心に残っていたのは余韻ではなく安堵感だった。

 それから目紛めまぐるしくツアーが過ぎていくと共に、焦りが積み重なるようになっていく。

 声という音色、喉を楽器としている以上、日頃からケアをおこたったことは一度もない。すぐに病院に行っても喉風邪の疑いと言われるのみで、に落ちなかったのは日々培われた勘があったからだろう。ライブの最中も気掛かりで、MCは上手く繫げずサポートメンバーにフォローされた。

 そして六本目、意のままに高音を出せない瞬間が何度かあり、しまいには歌詞が飛んでしまった。

 終演後の楽屋、普段なら有り得ない失態のことで頭が一杯だった。

 これはもう自分の歌声じゃない――既に嫌な予感で胸騒ぎがして、メンバーの目を気にしている余裕も無い。

「Iru、さっきから顔色悪いけど、大丈夫か? やっぱり体調悪かったのか?」

 ライブでの歌声も音源そのものと言われてきた自分のことを、蓮は深刻そうに心配してくる。

「……すみません。実はこの前も病院行ったんですけど……もう一回行ってみます」

 ツアーはまだ折り返し地点にも到達していない。もし公演が中止になったら――すくむ足を何とか動かして、翌日また病院へ向かった。


 嫌な予感というのは、どうしてこうも容易たやすく的中してしまうのだろう。

 診察の結果、声帯の粘膜が風船状に膨らんでいることが判明し、微かな望みは呆気なくせた。

「疑っていたポリープではなくて、声帯囊胞のうほうですね」

「声帯、囊胞……」

 所謂いわゆる、声帯ポリープのような病気ではあるが自然治癒は難しく、完治のためには早期の手術が必要とされる。声をメインに使う者であれば、悪化してしまうと職業生命をも左右されかねない。

 続行の可否が、ツアーどころかまさか歌手生命にまで至るとは思いも及ばなかった。

 医師の説明にゾッとして思わず首元を覆った手は、震えていた。

 ツアーか、手術か。

 無理をして悪化させてしまえばもう歌えなくなる可能性だってある。でも治す術があるなら、今はまだ歌えるとも思える。いや、誰が何と言おうと信じたかった。

 胸の内では既に答えが出ていたが、スタッフやメンバーには案の定反対された。

「Iru、流石さすがに喉が優先だ。このツアーを止めたって、また機会は作れるから」

「ファンだってきっと理解してくれるから……中止にしよう」

 皆、口をそろえて中止の方向で話を進めていく。

 痛いほど分かる。おもんぱかってくれていることも、プロならば休むべきということも理解している。

 それでも。

「まだ、歌えます。お願いします……続けさせてください」

「いや、でも――」

「どうしても、続けたいんです」

 子どもの我儘に手を焼く親のように、スタッフもメンバーも途方に暮れる。

「こっち側の都合で止めたくないんです! 治ればいつかまた、なんて……。手術して必ず完治するとも限らないじゃないですか。それに俺の喉が治ったとしても、もうその頃にはライブに来られなくなっているファンだって……いるかもしれないんです」

 周囲が静まる中、学生の時の苦い記憶と感情がどんどん込み上げてくる。

 熱中していたバンドが解散した、あの頃の絶望をもう誰にも感じてほしくなかった。

 行けるはずだったのに、結局行けなくなってしまった解散ライブ。未練は、こんなに時間が経ってもまだ消えてくれないのだから。

 本当に、どうして俺の幸せは目の前に現れたと思ったら消えていくのだろう。

 今も同じ感情に侵されてしまいそうだが、あの時、絶望一色の中に見付けた『ライブは生き物』という唯一の教えを無駄にしたくはなかった。

 いつ会えなくなるか分からない。たとえ天災によるものではなくても、自分や相手の都合だろうが関係無く、会いたいと願っても会えなくなる日が突然やってくる。

 今同じ想いを持つファンがいるかもしれないと思うと、御座おざなりにするわけにはいかなかった。

 無論、自分の喉は何よりも掛け替えのないものだと胸を張って言える。だから声が出なくなった時のことを想像すると不安が騒いで心臓の鼓動が速くなる。

 それでも、やっぱり。

「今しか、出来ないんです」

 待っているファンに歌を届けなければ。

 決意は、揺るがなかった。


 七本目。ツアー続行が決まって再び闘志を燃やしたお陰か、喉の調子が良く思えた。

 一音たりとも外さずに歌い切れた喜びに、久し振りに自然と笑顔が、そして涙までもが零れた。

 だが、ホッとしたのもつか、次のライブではまた不調が襲い掛かる。ツアーの合間に病院で診てもらうと、分かるのは囊胞が大きくなっていることだけ。直前のライブで声が出ていたため良くなったかと期待したが、その見立てはあまりにも甘かった。

「……大丈夫だ、Iru。今日もファンの皆、楽しそうにしてただろ、な?」

 肩に手を置いて言ってくれる蓮の優しさが辛い。

 こんな姿はもう見せないと決めたのに隠し切れていない不甲斐ふがいなさや、心配の一言を素直に受け止められないくらい余裕が無いことも、全て思い知らされてしまう。

 駄目だ。哀れで醜くなったのは誰のせいだと、顔を上げて鏡に映る自分に改めて問い掛ける。

『お前だろ』

 そうだ。

 皆があれだけ止めたのに薄氷を踏むような続行を選んだのは他でもない、俺だ。

 辛いと言うなら止めれば良かっただろう。悲劇の主人公でも気取ったみたいに周りに迷惑ばかり掛けて。

 弱音を吐いて楽になろうとも考えたが、耳の奥で響く言葉に止められた。

「そうですよね……って言ってもまだ五本残ってますけど、乗り切ります!」

 強がってみせて間も無く、ツアー初日に言っていた言葉を思い返す。

 ――もう残り十五本、って言ってたのに?

 いつからか数え方が変わってしまっている。惜しむように数えていたはずの残りの本数が、いつの間にか耐え抜く試練の数になったことに気付いて言葉が出なくなった。

 最高の思い出が増えるはずだったのに、それ以降のライブは苦しかったことしか記憶に無い。

 思い描いた音符に声が届かない悔しさ。

 惨めだと感じてしまうくらいの周りからの優しさ。

 余裕が無いことがメンバーにバレていると分かっていても、自分で決めたくせに込み上げそうになる涙が鬱陶うっとうしくて、何度も堪えては仮面の下で苦し紛れの笑顔を作った。

 ついにツアーも残り二本となったが、その日は何度も音が外れてしまうほどすごぶる調子が悪い立ち上がりだった。

 終盤、き込んで歌えなくなった瞬間、マイクを持っただけの銅像と化したように固まった。こんなひどい声を聴かせて良いのかと、仮面の下の作り笑いさえも消えていく。

 ステージ間際にいる観客は隣同士で顔を合わせ始める。曲に合わせて振っていたファン達の手は次第にまばらになり、下ろしたその手で口元を覆う者まで視界に入った。止めるわけにもいかないと言い聞かせながらだまし騙し歌えるところを歌って、誤魔化すしか出来なかった。

 なんて、無様な姿なんだ。


 そして急遽決定した最終公演の中止は、ドクターストップによるものだった。

「Iru、頑張ったよ。今はゆっくり休んで、治してこい」

 ツアーを通して一度も責めずに支えてくれた蓮。最後まで申し訳なくなる程優しかったが、誰にどんなねぎらいの言葉を掛けられても合わせる顔など無かった。

 これで手術しても治らなかったら、俺は。俺は、どうなる。

 もし、このまま終わったら――。

 焦燥感に囚われながら『Iru』は活動休止を余儀なくされた。

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